75 婚約者“みたいなもの” 前
謁見の間が、覗き穴の奥も含めてざわついていた頃。
「……なにそれ」
大運河沿いのカフェ、日差しと風に愛されたバルコニー席。
新調されたパラソルの下では、美しい男が緑の目を見開いて、同じように呟いていた。
「何がですの?」
その様子を、テーブルの前に佇む女は、柘榴の目をいぶかしげにすがめて問いかけた。
*
「り、離婚なんてしませんわ!! あの男、なんでちゃんと否定しないのかしら!」
フェリータは、落ち合って早々に幼馴染みから訊かれた内容にしばし呆気にとられ、そして叫んだ。突然興奮して大声を出した主に、隅に控えていた護衛騎士がわずかに目を上げる。
「じゃあ、べつに別れないんだ」
「ああああ当たり前です! どこからそんな話が出たのかしら!」
若干つまらなそうな様子で肩を落とすリカルドを前に、フェリータはやり場の定まらない憤りを爆発させる。だがそこで、ふと気が付いた。
心当たりは、なくもなかったと。
(もしかして、ここのところ、わたくしが実家に戻っていたから?)
――ひと月前、フェリータは生死の淵をさまよった。
いや、当時の状況を考えると、確実に、一度は死んだ。
文字通り、自分自身の全てを懸けて起こした大魔術だった。代償は知った上で、悲壮感はかけらもなかった。自分はやるべきことをできる方法でやるだけで、その結果自分がどうなるかは重要ではなく、頭に問題として浮かびもしなかった。
ただ、物事の結果として、自分は死ぬ。それはただの事実だった。
そんなだったから、水に下半身を浸け、眠りから覚めるように意識を取り戻したとき。
朝日の中で舞い上がる白い花弁と、濁流にのみ込まれたはずの夫が自分を見下ろしているさまを見て、フェリータは自然に悟った。
ここは死の国だと。
『あなた、いたのね』
かすれ声で口にしたフェリータの顔は、ぼんやりとして、無表情に近かった。本人としては、彼が助からなかったということへの悲しみと、再会できたことへの喜びの半々で、どういう顔をすればいいのかわからなかったのだ。
――よって、その言葉は『あらそういえばいたのね、あなたのことすっかり忘れてましたわ』にも受け取れる状況となった。
『……は?』
『え?』
想定以上の険しさで返ってきたロレンツィオの“は?”と、一変した表情も、フェリータはぼけーっと受け止めるだけで大して気にしなかった。
そのときは指の一本も動かせないほど疲れ切っていたし(死んだはずなのに)、彼が何かと不機嫌なのは、本当に今さらというほど見慣れた光景だったからだ。
『……あんた、自分が』
『魔術師は天国には行けないと教会に言われていたけれど、地獄もなかなか悪くありませんことね』
『……自分が何したかわかって』
『地獄でも花が咲きますのね。あの花びら、見たことあるような気がするけれど、思い出せませんわ』
『……おい』
『ここに来てしまったのはあなただけ? そうだといいわ。パパも、リカルドも、殿下も、パンドラたちも無事なら、ロディリアは大丈夫ですもの』
『おいフェリータ』
『でも』
男の剣呑な呼びかけにも気がついていたのだが、フェリータはぽろぽろと考えつくままに呟き続けた。
『あなたのご両親には、なんて謝ったらいいのかしらね……』
そこでようやく、話すのを休んだ。何か言いたそうだったロレンツィオも黙り込んでしまったのを少しだけ疑問に思ったが、何せ疲れていて、虚を突かれたようなその表情の意味するところを察する余裕はなかった。
――のだが。
『待って、まさかレオナルド・バディーノは生きてるの?』
頭を過ぎった可能性に、フェリータは半開きだった瞳をカッと見開いた。
そればかりか、目元口元から穏やかさは消えうせ、ぴくりとも動かなかった体を起き上がらせようともがく兆しすら示してみせる。
『…………は?』
国と夫の親を案じるいじらしさを蹴散らす闘争心に、青い目がすぅーっと乾いていく。
『だとしたら許せません、あの男だけは呪ってやらなきゃ気がすま』
『ふざけてんじゃねぇぞクソボケ女が』
突然降ってきた罵倒に、今度はフェリータが言葉を失った。そこへさらに、地の底をさらうような恨みがましい呪詛が続く。
『何が地獄だそんなものはひとりで行ってこい。そして二度とうちに帰って来るな』
『な、なにを急に』
『あんたはいつもそうだ。俺のことなど二の次三の次の、その次の次。思いが通じたと喜んだのは俺だけか。俺だけなんだろうな、でなきゃあんな状態で金鯨なんか出さない。確実に死ぬ方法を取ったりなんかしない。それどころか、顔見てようやく存在を思い出しても、すぐ自分の恨みにかき消されるんだから、その程度なんだよな。こっちは大事な十代後半からの行動動機ぜんぶお前に握られてきたのに、この無神経人心踏みにじりプラトニックビッチが。俺の心臓ぐっちゃぐちゃにこね潰さないと気が済まないのか、なるほど教会が魔術師を悪魔崇拝者と呼ぶわけだしそういう意味であんたは根っからの魔術師だよ』
『……手、左手が痛いですわ、なにか食い込んで、え、ビッチ?』
言われたことの半分以上は声が早すぎて低すぎて、聞き取る間もなく右から左へと流れていった。それでもとにかく相手がものすごく怒っていることと、とんでもなく罵られていることだけは伝わってきた。
何をそんなに、と反論しようとしたところで、周囲からの名を呼ぶ声と、ざぶざぶと水を蹴って近づいて来る複数の足音に気が付いた。
『お三方とも、ご無事ですか!』
『水が戻ってきています、お早く上へ!』
彼らの言葉に、フェリータは目を瞬き。
『上? 天国? ……え、ご無事? 三方?』
そこでようやく、自分が生きていることと、死角にずっとフィリパが立ち尽くしていたことに気が付いた。
『……チェステの術は、体力の回復にしか作用しません。一を十にできても、ゼロから一は作れない』
ロレンツィオとのやりとりを黙って見ていたフィリパはそう言って、レリカリオをそっとフェリータの手に戻した。
『何が起きたのかはわかりませんが……あなたが息を吹き返してくださって良かった』
フィリパの青い目が、ロレンツィオが握るフェリータの左手と、そこに絡む懐中時計に注がれる。
つられて視線を向けると、金色の蓋に大きなひびが入り、文字盤が粉々に割れていた。
驚いてロレンツィオを仰ぎ見て、そしてその目から降り注ぐ冷ややかな怒りに“なんでよ!?”と思いながらまた目を逸らすと、口角を小さく上げたフィリパと目があった。
『……拘束される前に、ロレンツィオ様があなたを口汚く罵るところが間近で見られてよかったです』
皮肉でもからかいでもなく、割と本気でそう思っていそうなフィリパの爽やかな笑みに、フェリータは口元をひきつらせた。
それから間もなく運河に水が戻り――どうやら自分が目を覚ました時に少し水かさが戻ったらしい――保護されたフェリータの身柄は涙と怒りで顔をボロボロにした父によって当然のように伯爵家に収容された。
フェリータも実家のほうが慣れ親しんでいたのは事実だったし、せっかく周囲が自分のために環境を整えて世話をしてくれるのに、わざわざ異を唱えて婚家に移る気力と体力はなかった。
そしてその間、夫が見舞いに来ることはなかった。来ても父が立ち入りを許さないだろうからと、あまり気にしていなかったが。
――これら諸々が原因で、離婚直前だなんて思われたのだろうか。というか。
(え、本当にわたくしの知らないところで離婚直前だったり……え?)
まさか今日、アロンソの使い魔を通して彼に呼び出された理由は。
フェリータが冷や汗をかいている横で、リカルドはため息を吐いてテーブルの上のグラスを呷った。冷えた白ワインとカットされた果物が、ガラス越しに揺れる。
「当たり前、か。仲がよろしくて何よりだよ」
「……ま、まぁね。あなたこそ、オルテンシア様とはどうなのかしら」
「僕たちは普通。平凡なものだよ、ほぼ毎日まわりに迷惑をかけてお互い兄姉の悲鳴と怒号を聞いてる」
「やめなさいよ……」
「でもあの人と一緒にいるの悪くないよ。気を遣わなくていいし、前は相手のことを顧みない嫌な女だと思ってたけど、同族嫌悪だったんだと認めれば、あの奔放さも心地よくなってくる」
麗しい微笑には皮肉も強がりも感じられない。
今まさに、フェリータは王太子の大きな懸念事項が爆誕しかけている場に居合わせていたのだが、彼女は自分の夫婦関係のことでいっぱいいっぱいでそれどころではなかった。
本当はリカルドに、ロレンツィオがこの一ヶ月どんな様子だったか聞きたい。でもさっきの今で、それは情けなさすぎる。不安がオルテンシアに伝わるかもしれないのも嫌だ。いくら生贄術のことを黙っていてくれているのだとしても、フェリータにとって理解不能なモンスターであることには変わりない。
というか、これ命綱を握られていることになるのでは?
ロレンツィオが、この一ヶ月で王女に色々ふきこまれているのでは?
それこそ、今度はフェリータの秘密をもとに、ロレンツィオが離婚を迫られているのでは――!
「じゃあこれ、君からロレンツィオに渡してもらえる?」
フェリータの思考の飛躍を知ってか知らずか、リカルドは上着の内側から細かな金属音とともに懐中時計を引き出した。
ただの金の細工物ではない。外観の古めかしさはそのままで、蓋のひびは消え、もとの文字盤のわずかな浮きが直されていた。時計の針も、規則正しく小さな音を立てている。その音で、嫌な高鳴りを訴えていた心臓が少し落ち着いた。
「レリカリオとしても、ちゃんと直りましたのよね?」
「レリカリオとしてはすぐ直せたよ。でも一緒に仕掛けられてたやたらに限定的な逆行魔術は、複雑すぎて父上にも無理だった」
「……逆行魔術」
「起きたことを巻き戻す力だ。消えた運河の水が、宮廷付きたちの堰き止めが解除される前に一部戻ったのは、君の元に戻った生命力の分だけ水も戻されたってことなんだろうね」
さらりと言われて、フェリータはリカルドも自分が一度死んだことを把握していることに気が付いた。
「うちの一族で作られたんだろうけど、発動の条件付けが細かくて、復元ができない。普通こんなの外部に渡さないんだけど、作成者は依頼主に弱みでも握られてたのか……それとも、何か託してたのかな」
「何かって何です」
「なんだろうね」
すべて見透かしたようなリカルドの言葉に、フェリータは俯いた。
祖父と自分の力の秘密は、この幼馴染みにも話せない。たとえ、勘付かれているとしてもだ。
「きっと弱みの方よ」
フェリータはさほどぬるくなっていないグラスを煽った。中身が半分ほど減ったところで、組んでいた足を床につける。
「呼び出されたから何かと思えば。用が済みましたなら、わたくしはこれで」
「ねぇフェリータ」
早く夫に会わなければ、夫が夫であるうちにと、忙しなく立ち上がりかけたところを、狙ったように名前を呼ばれる。体が反射的に固まった。
「……なんですの。わたくし、今日はこの後も用事があって」
「十二年前、君はどうやって人形だと見抜いたの」




