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2 【十日前】通りすがりの宮廷付き魔術師


 ことの起こりは、地獄の挙式から十日前にさかのぼる。


***



「みんな逃げろぉ! 呪獣が出た!!」


 その悲鳴で、港一帯は阿鼻叫喚に包まれた。

 船員たちが街へと逃げ、警備兵たちはマスケット銃を手に海へと走る。

 港の岸壁から三十メートルもない沖に怪物が現れたからだ。


 上半身は人の女、海面を打ち据える下半身は魚の尾。

 肌は腐った肉のように青じみた灰白色で、腕は蜘蛛のように細く長い。尾から頭までで八メートルはあろうかと思われた。


 港を目指して一心不乱に進んでくるその姿に、兵たちは戦慄した。


 それでも隊長の一声を合図に、警備兵たちは一斉に撃ち始める。

 

「足止めに徹しろ! カヴァリエリ様がすぐに到着するはずだ!」


 再び隊長の声が響く。――励ましのはずのそれに、反発を覚える若者がいた。


(なんの、魔術師ごときの力に頼るなぞ)


 若い兵は、新たな弾を装填しながら胸の内で毒づいた。


(神のご加護を)


 祈り、青年は同僚の制止を振り切って桟橋まで走った。停泊していた船の陰に入り、狙いを定め、すばやく引き金を引く。


 弾は眉間に命中した。おぞましい悲鳴をあげて、魔物の体が水の中に沈んでいく。


「よしっ!」


 兵士の一部から歓声が上がった。青年も喜び勇んで、銃口を下げて身を乗り出す。

 そのときだった。


 部隊長の「銃を下ろすな!」という叱責と同時に、水面からまっすぐ伸びた青白い腕があっという間に青年の首を掴んだのは。


 銃が海に落ちる。

 引きはがそうと掴んだ魔物の腕はびくともしない。

 それどころか、青年を強い力で海の方へ引きずりこもうとする。


 仲間の切羽詰まった声が響く。息ができず、体が傾いで死を覚悟した。


 ――その瞬間、首を掴む魔物の腕が、ボッと青い炎に包まれた。


「っう、うわぁぁぁ!?」


 青年の叫びと前後して、炎に包まれた腕が逃げるように離れていく。


 身の毛もよだつような叫びが港に響いた。大きな波が立ち、青い炎に包まれた呪獣の巨体は宙に跳ね上がった。


 岸壁に尻もちをついた青年が咳き込む。その目は八本の腕を振ってのたうち回る怪物を呆然と見つめていた。


 水の上にも関わらず、炎は一向に消えなかった。

 誰もが息すら忘れて唖然と見つめる中、とうとう呪獣は海面で横倒しになり、動かなくなった。


 炎は海の上で燃え続けた。力尽きた怪物の体が跡形もなく消えるまで。


 助かった。

 青年が口の中で呟く。そのとき、後ろについた手の先に、小さな軽いものが当たったのに気が付いた。

 なんだと思って振り返り。


「足止めご苦労様」


「っ!?」


 真後ろに、日傘を差した女が立っていた。それも、人形のように、とびきり華やかな見た目の若い娘が。


 レース飾りの日傘の下に、後頭部で結い上げたストロベリーブロンド。青年を見下ろす大きな目は鮮やかな赤。

 一瞬光を反射して目を焼いたのは、豊かな胸元にぶら下がった金のロケットだった。


 その全身から、ふわりと品の良いネロリの香りが漂い、青年は我に返った。


「……こ、ここは危険ですから退避を。呪獣は消えても、心臓から呪いをまき散らすことがあるので――」


「その判断をわたくしがするのだから、そこをおどきなさいな」


 鼻白んだ兵の横をすり抜けて、女は岸壁から海に臨んだ。そのすぐ後を、黒ずくめの騎士がついていく。


 女は醒めた目で怪物の残骸を認めると、日傘を畳み、その先端で海面をトンとつつく。

 するとその場でぶくぶくと泡が立ち、持ち上がってきた水の塊がイルカを形作った。


「いい子ね、見ておいで」


 女が指先で呪獣のいた場所を指し示す。ゼリーのようなイルカは従順に岸壁を離れ、沖へと向かっていった。


 魔術だ。

 固まった青年の方へ、涼しい顔の女が視線を戻す。


「首を見せてごらん」


「へっ」


「掴まれていたでしょう。呪いが広がる前に、見せてごらんなさい」


 今や青年は、この女が魔術師であることはとうに理解していた。先ほど、呪獣を焼き殺した張本人であろうことも。


 魔術への反発と命を救われた恩義、そして明らかに身分の高い相手への緊張が重なって、体は動かなかった。


 しかし、女は片手で持った扇の先で遠慮なく青年の顎先をくいと上げた。


「なにを……!?」


「まぁ指の跡がくっきり。見苦しいこと」


 魔物の手の跡を遠慮なく一刀両断され、青年は呆け、次にはカッと怒りを覚えた。


 言い返そうと口を開いたが、声を出すより女の指先が首に触れる方が早かった。


「殺し方もわかっていないのに、勝手に前に出てはダメ。まして銃を下ろすなんて愚かそのもの」


 手袋を脱いだ指先で直に触られ、青年の脳裏に先ほど首を掴まれたときの感覚が呼び覚まされる。


 けれど、恐怖はすぐに霧散した。女の指先は夏だと言うのにひやりと乾いていて、つるりと滑らかで、強引に引き寄せることはなく、かすかに花の香りが感じられた。


 カツン、と何かが桟橋に落ちる音。


 手は触れるとき同様に、唐突に離れていった。逃げる魔物と同じように。


「次はお気をつけあそばせ。毎度毎度、優秀な魔術師が通りがかる幸運に恵まれるとは限らないのだから」


 そこでイルカが戻ってきた。しゃがんだ女が鼻先を手の平で撫で、何度か頷くしぐさをしてから立ち上がる。


「あの呪獣、見た目の割にたいしたことはなさそうよ」


 そう言うと、日傘を開きなおし、もう用はないとばかりに青年から離れていった。騎士が続く。青年は無言のまま、なすすべなく見送る。


 その二人に、警備部隊長とその部下たちが追い縋る。


「休暇中にも関わらずのご助力、大変感謝いたしますフェリータ様! あの、ところで、我が隊の一員が何かありましたか?」


「少し身なりを直してさしあげただけですわ。挨拶は今度にして、急いでいるの」


 カツカツと、女特有の細いかかとの靴音と、無言を貫く従者を引き連れ、女は港から街へと続く石段を上っていく。


「でも彼、呪獣の腕が触れてしまったわ。あれは“魔女の心臓”を持たない下等獣だったから呪いは受けていないでしょうけれど、大事を取って休養させなさい」


「はっ、仰せの通りに。……しかし、この一帯はあなた様の警護領域ではないはずですが」


「通りがかったのだから無視するわけにもいかないでしょう。そもそもわたくしは“海の総督”、水辺の侵入者を追い払うのは、本来わたくしの役目。……それとも何かしら、ここは今カヴァリエリの縄張りだから出しゃばるなとでも?」


「まさか! いえ、そのようなことは、その……」


「心配しなくても、あの男がここに到着する前に立ち去りますから。二度目になるけど、こちらも急いでますもの」


 離れていく上司たちを、青年は無言で見つめる。

 その肩を叩いたのは、安堵に目を潤ませた同僚の兵士だった。


「大丈夫か? 助かってよかった、あの方がすぐに来てくれたおかげだな」


「……誰だ? あれが元騎士団で隊長の元上官だったとかいう魔術師か?」 


「まさか、カヴァリエリ様は男だぞ、この前来てただろ。……ああお前、田舎から出たばっかだから本当に知らないのか」


 青年は首を振った。魔術師はどうも苦手で、情報を意図的に遮断していたから。

 そんな青年に、同僚は呆れ、肩を竦めた。


「この島から追い出されたくなきゃ、間違っても“カヴァリエリ様”なんて呼びかけるなよ。あのピンクの髪のお嬢様は“金鯨卿”ぺルラ伯爵のご長女で、宮廷付き魔術師……つまり、国王様お抱え魔術師団のひとり、フェリータ様だよ」


「かわいいんだけど、ちょーっと偉そうなんだよなぁ」と茶化す同僚に、青年は返事をしなかった。

 代わりに、白い日傘がどんどん小さくなっていくのを見つめ続けた。


 やがて人ごみにまぎれ、日傘が完全に見えなくなる。

 ふと、彼女に言われたことを思い出して、波の落ち着いた海面を覗き込んだ。


 映り込む己の首に手をやるが、襟が乱れているだけで、“見苦しい指の跡”どころかあざの一つもついていない。


 ただ、女が立っていた場所には、真珠のような白い玉がいくつも転がっていた。

 


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