1 今日のよき日に
「ご列席の皆様、どうぞ花嫁に祝福を」
大司教の言葉で、大聖堂を埋め尽くす参列者の視線が一点に集まった。
扉の奥から現れた、楚々として可憐な花嫁に。
繊細なベールが覆う、薄桃色を帯びた金髪。
同じ色のまつげが縁取る、ざくろのように真っ赤な瞳。
純白のドレスが包む小柄な体躯が、赤い絨毯の上を進む。そのたびに、縫い付けられた真珠の粒が、光そのもののようにきらめいた。
「……綺麗だ」
誰かが漏らしたうわごとのような賞賛に、誰もが無言で同意する。
突然告知された結婚式だった。
『神様の御意志により、三日後、大聖堂にて挙式を執り行うことと相成りました』
日程も、その事情も前代未聞で、皆が驚き呆れ、好奇と憶測による噂が駆け巡った。
そんな下世話な空気は、花嫁本人の放つ神聖な空気に圧倒され、塗り替えられた。
“さすがはペルラ家のフェリータ様だ”と。
当の本人が、内心愕然として途方に暮れているとも知らず。
***
(……なんでこんなことになってしまったの?)
祭壇の前で新郎と並び立ちながら、フェリータは絶望とともに振り返る。
順風満帆の人生だった。
十九年前、名門ペルラ伯爵家の後継者として生まれると、その魔術の腕で十代のうちに宮廷付き魔術師の地位を得た。
そして、政略結婚が主流の貴族でありながら、婿候補は大好きな幼馴染みだった。
だが今はどうだ。
爵位の継承権は妹に譲られ、宮廷付き魔術師としては停職を言い渡され、三日前に決まった結婚相手は幼馴染みとは別人――というか、天敵。
フェリータは隣に立っている“新郎”の様子を暗い気持ちで窺い見た。
前髪ごと後ろに流した黒い髪、己のつむじを見下ろす高い身長、筋肉に覆われた武人じみた体格。
身長差とベールのせいではっきりとはわからないが、目尻のやや下がった青い目はまっすぐ前を向いている。引き結ばれた口元と相まって、ずいぶん真面目そうに見えた。
なんで。
なんでこの男がここに立っているんだ。
己の実家と互いに蛇蝎のごとく嫌い合う一族の、現当主であるこの男が。
いや。理由は、この場にいる誰よりも、自分が一番知っているけれど。
(……ふん、いい子ぶって。いつもはもっと底意地の悪い、嫌味っぽい表情をしているくせに)
毒づいたのは、あくまで心の中だけだったのに、急に男はその視線をフェリータに寄越してきた。
硬直した花嫁に眉を寄せ、男はごく小さく顎をしゃくった。
周囲にそうとは気づかせない、『前を見ろ』のしぐさ。
「……」
指図されたことへの苛立ちが表にあふれ出しそうになり、フェリータは堪えるのに苦労した。
この結婚、この男のせいでもあるのに、何を平然と。
「最初に、お集まりの皆様にお尋ねします。この神聖なる結婚に、正当な異議を申し立てる方はおられますか」
列席者のうち若い女性の何人かがガタガタと中腰になったが、聞いた大司教本人が「では新郎ロレンツィオ・カヴァリエリ殿」と揺るがぬ意志でもって無視してしまった。
「汝、この女を妻として、病めるときも健やかなるときも――」
何ごともなかったように続けられた宣誓文句は、三日前の忌まわしい記憶と結びついている。
それこそ、隣に立つ男、ロレンツィオと結婚するはめになった原因だ。
自己嫌悪で卒倒しそうになるが、ここで式を中断させでもしたらまた関係者に叱責されるだろう。
三日前のことは、元はと言えばロレンツィオが悪いのに、めちゃくちゃ怒られたのはフェリータの方だった。――と、フェリータはずっといじけている。
(それにリカルドにも、きっと呆れられてしまうでしょうし)
浮かんだ幼馴染みの顔に、怒りが萎え、胸がぎゅうっと痛んだ。
リカルドは友好的な公爵家の末息子で、フェリータが人生を共に歩むのだと信じてやまなかった一つ年上の青年だ。
彼は後ろの招待客の中に混じってこちらを見ているだろう。
隣に彼がいない悲しみに、フェリータは心情そのままの沈痛な面持ちとなった。
すると、男がまた訝し気に視線だけを寄こしてきていた。
なにと思って見返すと、男の口が開く。
『気分悪いのか』
声のない問いに虚を突かれたところで、さらに口が動く。
『それとも寝ぼけてるだけか』
お黙りと言ってやりたいのをかろうじて堪えていると、大司教の声が少し大きくなった。
「愛することを誓いますか?」
男の目が前を向き、平然と「誓います」と返すと、大司教は満足げにうなずいて今度はフェリータの方へ向き直った。
身長差およそ二十五センチ。視線が下へ、大幅に動く。
「新婦、フェリータ・ぺルラ殿。汝、この男を夫として――」
見るからに、穏やかで寛容そうなこの老人。
これが三日前、『よくも私の大舞台を台無しに!! まったく王女殿下といいぺルラ家といいどいつもこいつもこれだからロディリア王国は罰当たりも甚だしい!!』と荒れ狂っていたのは記憶に新しい。
そしてその勢いのまま、今日の挙式を強行した悪魔のような仲人。
もっとも、彼の立場ではそうしないと体面が保てないという事情は理解できたし、元凶はフェリータ自身なのだが。
「愛することを、誓いますか?」
それでも老人の広い額をジトッと見つめて数秒間沈黙し、フェリータは最後の抵抗を示した。
が、それも、柔和な微笑みの奥の鋭い眼光に射抜かれるまでのこと。
「……誓いますか?」
さっさと答えんかい、と、聖職者にあるまじき脅し文句が聞こえた気がした。
「……誓います……」
しぶしぶ答えると、大司教は笑ってうんうんと頷いた。
けれど試練はその後だった。
粛々と指輪の交換を終えると、そこでベールが上げられた。
誓いのキスだ。
こわばった体に相手は気づいていないのか気にしていないのか、手袋越しの武骨な指に、顎をすくい上げられる。
見上げた先に、ロレンツィオ・カヴァリエリのすました顔。見慣れない神妙な表情。
けして醜い顔ではない。むしろ整っている方だ。
それが、ゆっくり近づいてくる。
口づけのために。
「……おい」
苛立たしげな低い声。男の動きが止まり、大聖堂の空気が重くなる。
それでもなお、フェリータはブーケで口元を隠し続けていた。男の目元が剣呑になる。祭壇の向こうから、大司教の咳払いが届く。
けれども、どうしてもブーケを下ろせなかった。相手のいかにも割り切った様子も、腹立たしさに拍車をかけた。
嫌なのはお互い様でも、傷つくのは自分だけのようで。
(……本当は、好きな人と結婚できるはずだったのに)
悔しさに奥歯を噛み締めるうちにも、時は進む。
大司教は咳き込み過ぎて喉が掠れ始めたし、視界の端では同じようにロレンツィオを嫌悪していたはずの父が腕を組み圧を送ってきている。
花を降ろさなくてはいけない。
キス一つが何だというのだ。他の女だってみんな、好きでもない相手と結婚して子を産んでいる。この場にいる噂好きな女たちも、おそらく玉の輿に乗った自分の母ですらも。
そう思うのに動けない。視線が下がる。
花束を持つ手に力がこもった。なんでどうして、こんなことに。噛みしめた唇から血の味がする。鼻の奥がつんとしてきて、目頭も熱くなってきていた。
これ以上の無様は晒したくないのに。
そのとき、額にツ、と軽いものが当たった気がした。
「え?」
ぱちぱちと瞬きをする。
フェリータが我に返ったときには、周囲の空気は和らぎ、新郎の体は祭壇に向き直っていた。
「……」
「誓いますよ」
そうじゃないだろ、といいたげな大司教の視線に、ロレンツィオは先ほどと同じ言葉を繰り返した。先ほどよりも幾分、不機嫌そうに。
「病めるときも、健やかなるときも」
すまし顔が、ごくわずかに新婦の方へ向けられる。
青い目が、戸惑い固まっていた赤い目を捉える。
――お前だけはまじで絶対許さんからな。
婚礼の場に、脅し文句のような囁き。
隣りにいる花嫁だけに伝わる、口の動きのみの言葉。
とりすました無表情から、垣間見せてきた怒りの片鱗。
いつも通りの意地悪な目元。
――それがフェリータのスイッチを切り替えた。
「……こちらこそ」
ブーケを胸の前まで下げ、フェリータは低い声で短く応じた。これ見よがしに額を拭って、姿勢を正して相手を見据える。
こちらこそ、絶対許しませんから。
なんて、みなまで言う必要もない。
大司教は殺気立つ二人を見比べて、今日一番の慈愛溢れる笑顔を浮かべた。
「神よ、二人の門出に祝福を」
喜びの一報を王都中に知らせんと、がらんがらんと鐘が鳴る。
割れんばかりの拍手と安堵のため息、そして女性たちのすすり泣きに包まれて、ぺルラ家の長女フェリータとカヴァリエリ家の当主ロレンツィオは、この日晴れて結ばれた。