人生逆転スイッチ
16の春に筆を執ってから全てがおかしくなった。
夢を追い、破れた。どうしようもなくありふれた話だ。様々な公募に応募するがそのどれもが振るわず、日雇いの生活で食いつなぐ日々。
時々、自分がなんの為に生きているのか分からなくなる。
歩いて商店街を抜けると、後ろに遠のいていく喧騒が私のことを急かしているようで、何故だか焦燥感に駆られた私は足を早めた。
◆◆◆
歩いていると見慣れぬ道にまで来てしまっていた。辺りは黄昏色に染まっている。
思案に耽ていると周りの一切が見えなくなるという自分の悪癖にうんざりしながら、もと来た道を引き返そうと振り返る。
すると、見知らぬ男が目の前に立っていた。
「──え」
思わず息を飲む。
男の能面のような顔に周りの静けさが相まって得体の知れぬ気味の悪さを感じたが、目前の男は私を見つめている。
半ば反射のように話しかけた。
「……何か私に御用が?」
「いや、なに。何か悩んでいるように見受けられました。私ならお力になれると思いまして」
男は口の端のみを持ち上げるようにして笑った。
「はぁ……。そうですか。ですが、結構です」
勧誘か詐欺か。
どちらにしても碌なものじゃないだろうと断ったが、そこをなんとかと食い下がってくる。
数回押し問答を繰り返した。痺れを切らした私は無理やりその場を去ろうする。その時、男は「これだけでも」という言葉と共に何かを差し出してきた。
「……これは?」
「人生逆転スイッチで御座います。お好きな人物を見ながらスイッチを押してください。
環境はそのまま、貴方は対象の才能を持って生まれたものとして、世界が書き換えられます」
あ、見ながらというのはテレビでも構いませんよ。
男はそう付け加える。
頭のおかしい気狂いの世迷いごとだ。だが、私も負けじと頭がおかしかったらしい。私はそのスイッチを受け取った。
それから、幾度か質問をした。
曰く。
押したあと、記憶は残ること。
自分の才能と対象の才能を交換するものであること。
男は私の質問を聞き丁寧に答えてくれた。
◆◆◆
家に帰る道中になっては流石に頭も冷えてくる。
これは一体何なのだろう。
TV番組のドッキリ? GPS? 爆弾?
だんだんと思考が取り留めのない方向に向かっていった時、私は家に帰りついた。
机にそれを置き、椅子に座る。
改めて見てみても、何ら変哲のないただのスイッチだった。黒鉄色の四角い台座に赤い色の半球が付いている。
どこか陳腐さまで感じるそのスイッチを再度見た私はただの悪戯だろうと結論づけた。
ふとテレビを見ると、大物MCがゲストを呼び対談をするという趣旨の番組が放送されている。
今日のゲストには見覚えがあった。最近、新進気鋭の作家として注目をされている久藤 秀一である。
物書きをしていて辛いことの一つは、物語を虚心坦懐に楽しめなくなることだ。
若くして芥川賞に受賞。期待の星と囃されている彼の作品をフラットに見ることは、とてもではないが無理な話だった。そればかりか、TVに映る彼の張り付いた薄ら笑いは更に私の不快感を募らせた。
「どうせなら、こいつみたいなやつと……」
前述した通り、私はスイッチの効果を全面的に信用していない。
なので私は、エレベーターに乗って階層表示のボタンを押すかのように、一切気負わずにそのスイッチを押した。
瞬間、画面に映る久藤 秀一と目が合ったと思ったら、私の視界は暗転した。
◆◆◆
結論から言えば、スイッチの効果は本当だった。
売れない作家時代には鳴かず飛ばずだった私の作品も、この才能を持ってすれば直ぐに増販がかかる。賞に受賞する。
スイッチを押して以来数年、すっかり私は日本の文化人リストに名を連ねていた。
今まで出来たこともなかった恋人だって出来た。
私は幸せの絶頂期にいた。
◆◆◆
ある晩、私は都心の一等地にある自宅で夕食をとっていた。ふと後ろに気配を感じたので振り返ると、あの時の男が立っていた。
私は以前に比べさほど驚かなかった。
「貴方はあの時の」
私はそう言うと、素晴らしいスイッチを貰ったことに礼を述べた。
「お久しぶりです裕志様。スイッチの効果にご満足頂けたようでなによりです」
男は前と同じように、能面のような顔である。
「今日も私になにか御用が?」
「いえ、本日は裕志さまのご様子を拝見しに来ただけなのです。直ぐにお暇とさせていただきます」
私は急いで引き止めた。
もしかすればまた前のように素晴らしい物が貰えるかもしれないと思ったからだ。
「食事でも、どうですか。是非改めて礼をしたいのです。直ぐに用意致します」
だが、男は首を横に振る。
「結構です。それに、私は人間が食べるような食事を口にする事が出来ないのです」
男は少し眉を下げて言う。
その表情はどうにも機械的に思えた。まるでこうすれば申し訳ないという感情が表現できると理解しているような。
人間が、と彼は言った。
彼の物言いは不思議に思ったが、そういえば私はこの男の名前すら知らない。
「貴方のお名前は? 貴方様は一体何者なのですか?」
「名前はありません。私は悪魔で御座います」
悪魔。
突然突飛なことをいう男に、私はそれほど驚かなかった。
あのような不可思議なスイッチを持っており、今だっていつの間にか私の背後にいたのだ。人あらざる者なのではと薄々は思っていた。
私は純粋な好奇心から男に質問をする。
「悪魔、ですか。人間がとる食事は口に出来ないと言いましたが、それならば悪魔は一体何を食べるのですか?」
男は口の端を持ち上げるようにして笑った。
「人の絶望で御座います。より深く、より滑稽であればある程上質な味がするのです」
気がついた時には男は居なくなっていた。
◆◆◆
次の日、私は普段通りに仕事を終わらせて自宅に帰宅した。その時、それは起こった。
私室に入った時に私は泥棒と鉢合わせたのだ。
泥棒は目撃されたとみると目を見開き手元の凶器に手を伸ばす。
当然私も驚いたのだが、次の瞬間には更に驚くこととなった。私が厳重に保管していた金庫が泥棒の前に晒され、ロックが外されていたのだから。
その金庫には悪魔に貰ったスイッチが入れてあった。何者かに使われることを恐れた私はそれを金庫に保管していたが、そのスイッチは今泥棒の手にある。
私は泥棒がもう片方の手に持つ凶器には目もくれずに説得を試みる。
「目的はお金でしょうか? 幾らでも差し上げますので、どうか、命だけは……」
本当はスイッチの事で頭がいっぱいだったが、それが貴重なものだと悟られるのはマズいと思い咄嗟にそう言った。
「見れば金に困ってることくらい分かるだろ。今大人気の作家様なんだ、随分と貯め込んでんだろ?」
確かに男はみすぼらしい見た目をしていた。彼は私のことを知っているらしい。
だが、なんだろう、この男のことをどこかで見かけたことがあるような……。
「しかし、このスイッチはなんだよ?
こんな厳重な金庫に入ってるんだから、さぞかし大層な物でも入ってんのかと思ったら……」
話題がスイッチに移るのは何としてでも避けたかった。私は彼と目が合っている。この状況下では彼もこちらから目を離さないはずだ。
何の気なしにスイッチのボタンを押されれば……。
「本当になんでもない物なんです。ところで、お金がいるんでしょう?」
金ならこれから何とでもなる。
話題をスイッチから移したかったが、この泥棒は妙に勘が良かった。
「お前、さっきから随分このスイッチに目をかけてねえか。これを押したら何が起きるんだ?」
この場は圧倒的に彼が優勢だった。どうやら彼は私のことを知っているらしい。私のような人間を支配下に置いたことで愉悦を感じたのか、彼は目を細めてほくそ笑んだ。
その笑った表情を見た瞬間、忘れかけていた記憶がはっきりと脳裏に現れる。
前の彼とは似つかない伸びっぱなしの髪、無造作に伸びた無精髭、品のない言葉遣いに気を取られていたせいで思い出すことが出来なかった。
彼は私がスイッチを押して才能を交換した久藤 秀一だったのだ。私と才能を交換した彼は犯罪に手を染めるほどに落ちぶれていた。
「なんだ? 急に黙りやがって。そんなにこのスイッチは大事な物なのか?」
彼がスイッチに手を伸ばした瞬間、私は堪らず声を荒らげた。
「おい、やめてくれ!
金なら幾らでもやると言ってるだろ!」
今まで私が積み上げてきたものが……
信頼する友人達が、愛する恋人が……
何もかもが水泡に帰す……
やめてくれと何度も懇願したが、彼は愉悦を隠そうともせずスイッチを押した。
彼と目が合った感覚に襲われたかと思うと、視界が暗転する。
瞬間、どこかで悪魔の絶叫のような笑い声が聞こえた気がした。