〝スプリングタイム・オブ・ライフ〟高校1年、ある秋の夕暮れ
全てが一件落着した次の日、蕗屋は学校を休んだ。
確かにこの数日は蕗屋のことはほとんど気にしてなかった。騒動の解決と真相追及に夢中だったし、思いがけず久宮と距離を縮められる好機で、珍しく高揚していた。
もっとも、久宮カイラを知れば知るほど、とんでもないじゃじゃ馬跳ね馬暴れ馬だと分かり、とてもではないがこんな悍馬は俺に扱えないと思い知った。想いを伝えるより前に、俺は引いてしまったのだ。俺の初恋は終わったが、別に心が離れたとか興味を無くした訳ではない。ただ、色恋の対象には適さないと判断しただけで、人間としては魅力的で面白いと思う。だからこそ、最後まで降りることなく割木たちの悪事を暴くことができたのだ。
だから――蕗屋のことは、あまり見ていなかった。
元々口数が少なく影が薄いタイプではあった。ただ、集まりには毎回顔を出していたし、休みだって単に体調を崩した程度にしか思ってなかった。一応見舞いには向かったが、それだって別段本気で蕗屋の体調を心配したと言うより、いつものように本の貸し借りをしようくらいの軽い気持ちだった。
蕗屋の家には何度か来ていたし、母親は快く俺を家に挙げてくれた。体調はどうですかと尋ねる俺に対し、年の割に若く見える母親は、
「それが、昨日から部屋に籠りきりで、全然出てこないのよ」
と答える。返しに困る俺。
「……はあ」
「時々トイレには行ってるみたいだけど、ご飯できたって呼んでも来ないし、今朝も頭が痛いから休むって、その一点張りでね」
眉根に皺を寄せながらも、さほど心配している風にも見えない。きっと今までもそういうことはあったのだろう。
むしろ、心配になったのは俺の方だった。
何だか、嫌な感じがする。
とは言え俺があれこれ思索を巡らす間もなく、俺は蕗屋の部屋の前まで到達する。下がる母親。ドアをノックする俺。
返事はない。
「入るぞ」
ドアに鍵はかかっていなくて、俺は恐る恐るドアを押す。
蕗屋は、漫画を描いていた。
部屋の奥の学習机に、背を丸めてガリガリとペンを走らせている。
遮光カーテンが引かれているために部屋全体は夕方にも関わらず薄暗くて、学習机の照明が蕗屋の姿を舞台のスポットライトのように照らしている。
「……なんだお前、学校ズル休みして、一日漫画を描いてたのか」
コイツのやりそうなことだ。俺はコイツのことをよく知っているから何とも思わないが、教師にバレたら普通に怒られるだろう。
「……暗いな。カーテン引いてるなら部屋の電気くらいつけろよ」
照明のスイッチはドアのすぐ横にある。部屋の主はずっと無言だが、それを了承と解釈して部屋を明るくする。
「――うわっ!」
思わず声が出た。
部屋の壁一面に、漫画の原稿用紙が張り付けられていたからだ。
かつて鉛筆とノートで漫画を描いていた蕗屋は高校に進学したあたりから本格的な道具を揃え始め、漫画用の原稿用紙にインクとGペンで描くようになっていた。俺も、何度も完成した原稿を読ませてもらっていた。
だけど、こんな壁一面の原稿を見てしまうと、眩暈がする。
左右と、奥と手前の四つの壁面に、上中下三段ずつびっしりと貼られた原稿――よくよく見れば、それは壁に貼られているのではなく、壁に這わせたロープにクリップで原稿を吊るしているのだと気が付く。原稿自体、壁からは数センチ離れている。インクを乾かすために干しているのだということは分かったが――それにしても、凄い枚数だ。百枚近くはあるだろうか。
「……これ、今日一日で描いたのか」
「そんな訳ないでしょ。何日も前から書き続けてたの」
ようやく、部屋の主が口を開く。だがその間もペンを走らせる手は止まらない。不安になって机に近付いた俺は、息を飲む。
大きな隈を作り、充血した目を見開いて、頬はこけ、顔色は蒼白で――さながら幽鬼のようだった。
「……お前、寝てないのか。お母さんに聞いたぞ。飯も食ってないんじゃないのか」
「寝食を忘れてってヤツだね。ハハ。今までも何かが降りてきて夢中になって描くことは何度もあったけど、今回は一番だよ。凄い。うん、凄いよ。面白い。止まらないもん」
譫言のように口の中でブツブツと呟いている。集中していると言うより、トランス状態ではないのか、これ。大丈夫かコイツ。
「急にスイッチが入った感じか」
「急ではないよ。貴夜もずっと一緒だったじゃん、一緒に見てたじゃん。面白いよ、面白い。世界はこんなに面白い。知らなかったよ」
「……何言ってんだ、お前」
ズイ、と左手で斜め後ろを指差し――もちろん、その間もペンは止まらない――蕗屋は言う。
「そっちの左上が一番最初のページで、右に進んで、次は下の段の一番左から右へと進む。一番右下まで行ったら右の壁に移動してまた一番左上からって順番。原稿の左下にページ数が書いてあるから、迷ったらそれ参考にして」
読め、ということか。
言われるまでもなく読むつもりで、どこから読み始めればいいか分からなかったので懇切丁寧に教えてくれて正直助かった。
俺は自分の背より少し高いところに吊られた原稿を背伸びして読み始める。最初は体勢が辛かったが、すぐにそんなことはどうでもよくなった。
内容に引き込まれた――と言うか、内容に引いたからだ。
主人公は友達の少ない陰気な高校一年生で、趣味は漫画創作だ。
高校では演劇部に入ったばかりで、練習についていくのに必死。
中学からの付き合いの友達と、それなりには楽しくやっていた。
同じ新入生には一人際立った美人がいて、部内でも注目の的だ。
だけど、彼女は目立ち過ぎた。唐突にトラブルに巻き込まれる。
彼女は主人公含めた数人の仲間と、そのトラブルに立ち向かう。
――なんだよ、これ。
「……お前、これ、実際にあったことじゃないか」
「そうだよ。面白いでしょ。面白かったじゃん。最高だよね」
「いや、これ……」
言葉を失うとはこのことだ。
実際、面白くはあったのだ。
現実ではなく、目の前の漫画の話である。
俺は素人の高校生なのだから専門的なことはあまり言えないのだが、臨場感というか、魅せ方が格段に上手くなっている。作画能力も気持ち向上しているように思える。
だけど、内容がこれでは――。
「こんなの、誰にも読ませられないだろ……」
久宮が巻き込まれた一件は、一応顧問から緘口令が敷かれている。勿論人の口に戸は立てられないから噂になるのは仕方ない。とは言え、無闇矢鱈に吹聴するのは、やはり違うだろう。ましてや、微に入り細を穿つように詳細な描写を記した記録など尚更だ。
そう、これは創作ではない。
ドキュメントだ。
ルポタージュだ。
こんなの、蕗屋の作風じゃない。
「誰にも読ませられなくはないよ。今、貴夜が読んでるじゃん。それでいいの。それで充分。描きたいから描いたって、それだけのものだもん。読者なんてね、一人でいいんだよ。それでいいの」
「……いや、睡眠も食事も削って学校サボって描いたのに、それでいいのかよ」
「いいよいいよ、いいに決まってる。僕はそれでいいの。何度も言ってるでしょ。僕はね、プロの漫画家を目指してるんじゃないんだ。描きたいの。作り上げたいだけなんだよね、僕だけの国を。僕だけの世界を。完璧で至高の楽園を。僕の手で。僕の中に」
熱に浮かされたような口調で、蕗屋は続ける。
「僕はね、たった一つ、たった一度でいいんだ。究極の、完成された世界を作り上げたい。全てが緻密に計算された、全てが僕の支配下にある、完成された世界を、僕の手で作り上げたい。それだけなんだ。それを目標に、今まで研鑽を続けてきた――違うか。違うな。そう思えたのは最近だ。最初はただ描きたいから描いてたし、誰にも読んでもらえなくてもいいと思ってた。でもそこに貴夜が現れた。覚えてるよね。塾でのこと」
「あ、ああ……」
「あの時、貴夜は読みたいって言ってくれたでしょ。俺が読むよって。嬉しかったし、その時に気付いた。誰にも読んでもらえなくてもいいなんて強がってたけど、それは嘘だった。読んでほしいに決まってる。漫画は読者がいて初めて成り立つ。読んでもらえなきゃ意味がない。だからさ、考えを変えた。一人でも多くの人間に読んでもらえるようにした。しかも、創作世界であれば漫画に拘ることはないのかなとも思った。さっきも言った通り、僕は僕の世界を作り上げたいだけなんだ。あらゆる創作、全ての表現の中で僕は漫画という手法が一番だと思ってた。総合芸術だってね。でも、他の方法もあるんじゃないかな、とも思った。手法を変えるんじゃなく、拡大させる、選択肢を広げると言う考え方だね。では、何がある? 小説? 絵画? 音楽? 映画? 色々あるよね。僕はずっと考えてた。そんな時に、新歓公演を見た。ああ、戯曲もいいな、と思ったんだ。これなら多くの人間に僕の箱庭世界を見せられるかもって」
「それで演劇部に入ったのか。お前、さっきは読者なんて俺一人でいいと言ってなかったか」
「ケースバイケースさ。今回のこれは貴夜が読んでくれればいい。でも、基本は多くの人に僕の世界を披露したいと思ってる。人は変わるし考えも刻一刻と変わっていくよ。それは成長なのかな、堕落かな。どっちでもいいや。大事なのは今だ。それでね、大きく変わったのは、一番言いたいのはここからでさ――僕は今まで、現実ってやつに、周りの出来事に何にも興味がなかった。誰がどんな人間で何を思って考えて誰に対して何を言った、どういう感情を抱いたとかね、本当にもう心底どうでもいい、下らない退屈だって思ってた。口に言れても味はしないし、噛んでも何も感じない。味のしなくなったガムじゃない。砂だね。砂を噛む。砂漠だよ。この世は砂漠だと思ってた。だけど違ったんだ。今回の騒動、あったでしょ。僕はね、感動したんだよ。興奮した。高揚した。凄い凄い面白いじゃないの。この世はこんなに面白い。砂漠じゃないよ。宝石箱だ。ネタになる。漫画になる。作品に昇華できる。僕の箱庭世界に落とし込んだら――それこそ、僕が納得する完璧な世界が完成するかもって思えた。体の芯が震えたよ。実際、体が震えた。熱病かな。おこりだ。ペンを走らせるマラリアだ。そうなったらもう、止まれないよね。ああ凄い凄い。世界はこんなにも面白いし、僕の箱庭に完成の兆しが見えた。凄いよ凄い。ずっと感動している。人間は、感動と満足と希望と充足感があればね、ご飯も睡眠もいらないんだよ。ずっと走り続けられる。ハイになるんだ。ライターズハイかな。ハハハ」
喋りながら、走らせるペンは止まらない。
高揚が止まらない蕗屋と対照的に、俺は少し蒼ざめていた。
もしかしたら俺は、とんでもないバケモノを呼び起こしたのかもしれない。
その数分後に蕗屋の作品は完成し、その瞬間、蕗屋は糸が切れた人形のように脱力して机に突っ伏した。一切休憩を取らず、食事も忘れて描き続けていたのだから当然だ。俺は最後の原稿を右の壁の一番右下に吊るし、力尽きた蕗屋を持ち上げ、ベッドまで運んでやった。人の体を持ち上げたのは初めての経験だったけど、貧弱なアイツの体躯は驚くほど軽かった。




