10月12日(日) 19:30〝カーテン〟オープン
カイラに押し切られる形で奇妙なミッションを依頼されてから一週間――私は秩父山中の双児館弟に来ていた。
秩父鉄道と地元のバスを乗り継いでタクシーに乗り換え、二瀬ダムや三峰神社を通り越し、もはや狸か狐かハクビシンくらいしか住んでいないんじゃないかという程の草深い山中まで分け入った所に、件の洋館はある。
料金を払い、タクシーを見送ってから、私は建物を見上げて溜息を吐く。石造りの、やたら堅牢な洋館である。何故こんな辺鄙な場所にこんな建築物が、と思わずにいられない。元々は会社の保養所として造られたと聞いたが、今では完全に遊ばせている状態らしい。いや、もう取り壊すのが決まってるのだっけか。秩父の辺境に建てられているという立地状態もそうだが、対になる本宅の屋敷が全焼したことや、持ち主が事故で片脚を失ったこと、建物の老朽化などが重なって決定されたらしい。
砂利の敷かれた駐車場から両脇に欅の植えられたアプローチを抜けると、正面に観音開きの重厚な鉄扉が現れる。これが屋敷の正面玄関だ。右手側を見上げると、石造りの尖塔が夕闇をバックに屹立し、それを玄関脇の照明がぼんやりと照らしている。屋敷の南東に位置するこの塔は、高さにしておよそビル五階分に相当すると言う。外周には扉も窓も見当たらないが、地上一メートル程の高さから上に向けて、等間隔でコの字型の鉄枠が続いている。昇降のための梯子だろう。
時刻は十九時半。作戦通り、開始時間からきっかり三〇分遅れて到着した。幹事の蕗屋には先に始めていてくれと、カイラから連絡がいっている筈だ。同窓会のメンバーはすでに〝ドール〟と接続している。仁行所家の使用人がスタッフとして動いているので、私はその人物の案内で屋敷に潜入し、久宮カイラの〝ドール〟と接続して、彼女に成りすます。そして、写真を探す。その使用人はメンバーとは面識がないので、私が別人だとバレる危険性はない。
一応、サングラスとマスクで素顔は隠してある。カイラは普段からサングラスを着用しているし、マスクだって近頃では珍しくもない。勿論知っている人間が見れば一目で別人だと看破されてしまうだろうが、カイラを知らない使用人相手ならこれで十分だろう。
私は――いや〝アタシ〟は、意を決して呼び鈴を鳴らす。
今この瞬間から、〝アタシ〟は久宮カイラだ。
彼女の思考言動口調の癖をトレースし、馴染ませる。幾層もの〝ガワ〟を纏い、待鳥吉香を中心の奥深くへと埋没させる。この先、喋り動き周囲に認識されるのは、派手で美人でキレ者の久宮カイラだ。幕はすでに上がっている。
「お待ちしておりました」
突然声をかけられて飛び上がりそうになるが、久宮カイラはそんな無様な真似は見せない。
「――はい?」
たっぷり間を取って、返答する。
「久宮カイラ様でいらっしゃいますね……。どうぞ、中へ」
タキシードを着こなし、髪を後ろに撫でつけた男が扉を押さえている。これが件の使用人だろう。年齢は三〇代だろうか。身なりはきちんとしているが、見上げる程の長身で、おまけにやや強面でもある。少し色のついた眼鏡をかけ、右目の横には小さな傷。迫力満点だ。
「ごめんなさい、撮影が長引いちゃって。もう始まってます?」
使用人の後に続いて屋敷に脚を踏み入れながら、アタシはアタシの台詞を吐く。
「ええ。皆様すでに始めておられますよ――〝ドール〟同窓会を」
ボソボソとした声で、使用人の男はそう返す。
「まだ皆様お揃いでないことは承知しておりましたが、先に始めてていい、とのことでしたので……」
「構いません。アタシ一人のために会の開始を遅らせることないですよ――えっと」
「日野と申します。お嬢様の身の回りの世話などをしております」
「日野さんね、久宮カイラです」
我ながらスラスラと台詞が出てくる。久宮カイラという〝ガワ〟が出来上がっている証拠だ。まだ表層ではあるが。
玄関ホールらしき空間を抜け、縦格子に阻まれたガラス張りの窓を左手に見ながら通路を渡り、階段ホールを抜け、廊下に出て一番最初の扉が指定された部屋だった。かつては食堂として使われていたらしい。一同の〝ドール〟と屋敷のドールハウスは、この食堂に置かれているという話だ。
「どうぞ中へ。お嬢様がお待ちです」
日野が扉を開く。
今――何と言った?
アタシがその言葉の意味を吟味より早く、中から声がかけられる。
「久しぶりね、カイラ」
その人物は、車椅子でこちらを向いていた。資産家令嬢、屋敷の当主、演劇部の同級生にして車椅子の人形作家――仁行所瑠璃。
髪を前髪一直線に揃え、和風な顔立ちも相まって市松人形を連想させる。身に纏う桜色のワンピースは、洋装ではあるが彼女の落ち着いた雰囲気によく似合っている。双児館兄での火災によって右脚を失ったという話だが、ワンピースの丈は長く、どのような状態なのかは分からない。フットサポートにスリッパを履いた両足が乗っているところを見ると、義足でも付けているのかもしれない。
でも、何で。
話が違うじゃないか。
「久しぶり――だけど、瑠璃、〝ドール〟は?」
「わたしの〝ドール〟? あるわよ、ここに」
部屋の奥に置かれたサイドボードに並んで座る二体の〝ドール〟の内、右側のそれを手に取る。仁行所瑠璃の高校時代の姿を模した〝ドール〟だ。髪型も顔も体型も、今と大差はない。ただ、高校の制服らしきブレザーを着込んでいる点と、ギンガムチェックのスカートから健康的な脚が伸びている点だけが、今と違う。
「あ、ううん、そうじゃなくて――なんで繋がってないの?」
「この体ですもの。接続したところで動き回れないし、ね」
――迂闊だった。
火事で右脚を失った瑠璃は車椅子を使わないと移動できない。一方、あくまで高校時代の姿を模した〝ドール〟は脚もそのままで、勿論〝ドール〟用の車椅子など用意している訳もない。彼女は、ドールハウスの中を動き回るという今回の企画に、参加したくてもできないのだ。
「でも、せっかくの同窓会なのに……」
「んー、でも、外野で観戦するのも、案外面白いものよ? 蕗屋くんが用意した企画では、わたしにも役割が与えられてるし、ね」
どこかのんびりとした口調で、隻脚のお嬢様人形作家はそう答える。育ちの差だろうか。驚く程に鷹揚としている。
いや、のんびりしているのは私の方か。本来の作戦では使用人以外、誰とも顔を合わせずにさっさと〝ドール〟と接続してカイラに成りすますつもりだったのに。初っ端で瑠璃と鉢合わせしてしまっているではないか。話が違う。失敗だ。いくらサングラスとマスクで顔を隠し、カイラの如き振る舞いをしたからって、旧知の間柄である瑠璃相手ではすぐにバレてしまうに決まって――
「ほら、こっちのがカイラの〝ドール〟よ。よく出来てるでしょう」
周章狼狽して瞬く間に〝ガワ〟が剥がれそうになる私の気など知らず、瑠璃はサイドボードに座るもう一体の〝ドール〟を手に取る。
彫りの深い、日本人離れした顔立ちの美少女――久宮カイラの〝ドール〟だ。瑠璃のそれと同じくブレザーを身に纏っているが、十分の一というサイズ感も相まって、市販の着せ替え人形のようだ。
と、言うか。
――バレてない?
どうやら、目の前にいる私をかつての同級生だと思っているようだ。鷹揚で浮世離れしたお嬢様は、あまり細かいことは気にしないのかもしれない。とにかく、助かった。希望は、まだある。
「よく似ているねえ。これ、写真を元にして作ったんでしょう? 最近の技術はここまできてるんだね」
「ね、一応わたしも人形作家の端くれだけど、とてもこんなの造れないもの。まあ、そもそも分野が違うってのもあるけど、ね」
いける。
私は――いや、アタシはカイラだ。久宮カイラだ。このまま、〝ドール〟接続まで持っていってしまおう。未だに食堂の入り口に立ちっぱなしでいることに気が付き、大股で室内へと踏み出す。久宮カイラはいつだって堂々としているのだ。そして今更ながら食堂を観察する。
部屋自体は八畳ほどだろうか。中央にはドールハウスの置かれた大きな長机が置かれ、その西隣の窓際にはカイラの〝ドール〟を収めたサイドボード。北側の奥にはL字型のソファとテーブルがあって、東側の壁際にはソファとローテーブル、その上にはチェス盤が置かれている。
「チェス盤には触らないでね」
「興味ないわよ」
チェス盤の上には数種類の駒が置かれているが、勝負の途中か何かだろうか。興味がない、と言った台詞に嘘はない。この前もそう言っていた。あれは確か、この会の主催者である蕗屋の人となりを教えてもらっていた下りだったか。
――なんて、今そんなことはどうでもいい。この部屋において最重要なのは、机の上に乗ったこの屋敷のドールハウスだ。アタシはそれへと近付いていく。
幅五〇センチ、奥行き二メートル程だろうか。思ったより大きい。十分の一サイズだという話だから、今アタシがいる屋敷もそれ相応の規模なのだろう。材質は何だろう。スチレンボードが一般的だが、中で複数の〝ドール〟が歩き回ることを考えると、もっと丈夫な素材で作られているのかもしれない。
「これが噂のドールハウス?」
「よく出来ているでしょ? 拘りの出来よ。もうね、みんなこの中にいるの。面白いよお? 窓から覗くと、小っちゃいみんながハウス内をウロチョロしてるのが見えるんだから。で、わたしが覗いてるのに気が付くと、ビクッて体震わせて驚くの」
それはそうだろうな、と思う。
〝ドール〟と接続してしばらくすると、本当に自分が人形の体になったのではないかと錯覚することが頻繁にある。いわゆる没入感というヤツだ。本物の建物そっくりに作られたドールハウスの中にいるなら尚更だろう。〝ドール〟もドールハウスもぴったり十分の一スケールで作られている。つまり、〝ドール〟と繋がった人間の主観では、生身の人間は十数メートルの巨人に見える。巨人が窓から覗いていたら、誰だって驚く。例え理屈で分かっていても、本能が警戒するのだ。それを分かってやっているのだから、瑠璃はなかなかいい性格をしていると言える。
「で、みんなを怖がらせちゃいけないから、いつもはこうしてカーテンを閉めてるの。鍵もね」
そう言って窓の外側に設置されたカーテンを引く。その直前、窓にごく小型のクレセント錠が付いているのが見えた――外側に。
「付いてる場所おかしくない? 普通、内側に付けるでしょ」
「ん、これは蕗屋くんの指示でこうなってるの。詳しくは中に入ってみてのお楽しみー、かな。後で説明があるから」
妙な節を付けながら、何やら不穏な笑みを浮かべる瑠璃。間違いなくろくでもないことが行われているのだろうが、関係ない。〝ドール〟と繋がってしまえばこっちのものだ。幸い、瑠璃はアタシがカイラだと信じ切っている。ならば、後は写真の在り処を探し出して、過去の瑕疵を持ち出し、逃げて、処分するだけ。
「面白そう。じゃ、アタシも早く参加しなきゃだね」
「そうね。カイラちゃんのスーツやゴーグルは別室に準備してあるから――日野さん、持ってきてもらっていいかな」
斜め後ろに立っていた使用人に瑠璃は声をかける。
「承知しました」
彼が部屋を出て行ってすぐ、瑠璃はハンドリムを手繰って音もなく扉の前まで移動し、流れるような手つきで鍵をかける。あまりの素早さに反応が遅れる。
「な、何を――やだなあ。怖い怖い。何する気ぃ?」
「わたしは何もしない。するのはそっちよ?」
至近距離で視線がぶつかり、呼吸が苦しくなる。
「自己紹介してもらっていいかしら?」
瞬間、完全に呼吸が止まった。
「あなたは、誰?」
――バレてた――。
羞恥と恐怖がカオスとなって脳内を駆け巡り、血圧は急上昇し顔は紅潮し膝が震えた。それでも、愚かな私は一縷の望みを捨てきれず、無様な独り芝居を続ける。
「――な、何言ってるの? アタシはカイラよ。久宮カイラ」
「ごめんね」
あっ、と思う間もなく、瑠璃にサングラスとマスクを剥ぎ取られてしまう。相手が車椅子だからって、完全に油断していた。私の〝ガワ〟として機能していた最後の防衛ラインまで奪われてしまった。もう駄目だ。終わった。
「……もう一度聞くわね。あなたは、誰?」
車椅子に座る瑠璃の姿が、何倍にも大きく感じられる。ドールハウスを覗く彼女の顔を見てメンバーは慄いたという話だが、今の私はその何十倍も恐怖を感じている。もう、降参するしかない。
「――待鳥吉香って言います。カイラさんの大学の後輩で、劇団員です。今日はどうしても外せない撮影があるということで、私が代理で来ることになりまして……」
尻つぼみに声が小さくなる。役柄をなくし舞台から引きずり降ろされた役者は、こんなにも弱く儚く小さく惨めなのだ。
「ふうん――まあ、大方そんなことだろうとは思ったけど、ね。別に怒ってる訳じゃないのよ? ただ不思議に思っただけ。カイラのふりしてるこの人はどこの誰で、どんなつもりなんだろう、って」
どうしよう。泣きそうだ。
「あの、ええと、ちょっと事情がありまして――」
「そうでしょうね。カイラに頼まれたんでしょう? あの子、口が達者だし押しが強いから、断れなかったのよね? わたしは別に構わないわよ? みんなには内緒で、あくまで久宮カイラとして同窓会に参加したいのよね? いいんじゃない? それはそれで面白そう。お芝居には自信があるみたいだし」
本当に鷹揚な人だ。でも、今はこの人が希望だ。蜘蛛の糸だ。
「お願い、できますか……?」
「いいわよう? と言うか、楽しみ。流石に生身で同窓生を騙すのは無理があるだろうけど、〝ドール〟使えば欺くこともできるかもね。安心して。誰にも言うつもりはないから。この家、壁も扉も完全防音だから、閉め切っちゃえば内緒話には打ってつけだしねえ」
そう言って、彼女は扉の鍵を解除する。開いた扉の向こうには、スーツ類を抱えて呆然とした表情の日野の姿。
「ゴメンね」
「……何故私は締め出されたのでしょうか……」
「女同士で積もる話もあるでしょう? 割とデリケートな話だから、日野にも聞かせたくなかったの。悪気はなかったんだけど」
「別に構いませんが……」
釈然としない日野越しに、瑠璃がウインクして見せる。せいぜい頑張れと言うことか。
まだ、いける。私は大急ぎで〝ガラ〟を纏う作業に専念する。アタシは久宮カイラだ。今度こそ、アタシはアタシになるのだ。
日野からスーツを受け取ったアタシは、さっさと身に着け始める。スーツは伸縮性の全身タイツのようになっていて、薄手の服であればそのまま着ることが出来る。
慣れた手つきでスーツを着込むアタシの横で、日野はドールハウスに向かって何やら作業している。ドールハウスの食堂にあたる箇所の窓を開け、久宮カイラの〝ドール〟を入れているのだ。
「では、裏のバツ印に立って、腰のスイッチを押して頂けますか」
日野の案内に従い、所定の位置を探す。長机とサイドボードの間の床に、ビニールテープでバツ印がバミってある。きっと、ドールハウスの中のカイラ〝ドール〟も同じ場所に置いたのだろう。オペレーターと〝ドール〟の動きは完璧に連動する。ならば始動の座標軸も完全に一致させる必要がある。
バツ印の上に立つ。後は、ゴーグルとグローブを嵌め、腰のスイッチを押すだけで、アタシは〝ドール〟と繋がることができる。大きく息を吸い、顔の上半分を覆うゴーグルを、そして両手を覆うグローブを身に着ける。今回用意されたゴーグルは特注品らしく、ゴーグルは目元に、一体化したヘッドホンは耳にフィットし、外界からの情報を完全に遮断してくれる。さらに動きでズレないよう、頭の後ろと顎の下、ワンタッチバックルによって固定される。
そして、世界の全てから光が失われた。