同日 21:35〝トラブル〟発生
『とは言えよォ、これでいいのかね』
一階へと階段を下っていきながら、不意に利根がポツリと漏らす。
『え、自信なくすの早くない? 違ったらその時また考えればいいって利根っちが言ったんだよ』
『バカ、そこじゃねェよ』階段を降り、出口への扉を横目に階段室を右奥に進み、一階フロアの廊下に出る。『一応よ、このゲームは競争の体になってンだろ? 複数人での協力は御法度だった筈だ。だけど、オレらは三人の知恵を合わせて答えを出した。それも、何割かは波部からヒントを貰う形で、だ。これって厳密にはルール違反なんじゃねェかな』
神妙な口調で語る利根に、アタシは思わず苦笑してしまう。
『それはもういいんじゃない? 波部君が一位抜けした時点で、後はもう消化試合みたいなものだし。現に、さっきまで何かと監視の目を光らせていた蕗屋君も全く姿を見せなくなったでしょう? もうアタシたちになんて興味ないんだって』
『そんなもんかねェ……』
『利根っち、変なとこマジメだよねー』
『うるせェな。後で蕗屋に難癖つけられたくねェだけだっつの』
三人で話しながら廊下を進んでいく。
消化試合、か。
自分で口にしながら、その言葉の意味がじわじわと沁みていく。
アタシは、負けたのだ。
さっきは謎を解けた高揚感に包まれていたが、それとて鈴と利根と、そして波部の助けあってこそのモノだ。自分の実力ではない。
勝ちでは、ない。
偽物、マガイモノだ。
考えてみれば、この空間は一から十まで偽物だらけだ。ドールハウスは屋敷の、〝ドール〟は人間の偽物だし、壁や天井を覆う写真群は過去の一瞬を切り取った、現実の模造品に過ぎない。それより何より、アタシ自身が久宮カイラの偽物ではないか。
だから、こんなにも現実感が希薄なのだろうか。
そのせいか、物置に到着し、コンベックスを引っ張って0814の数字を入力してそれが認証されても、ああこんなものかと、どこか冷めた感想しか抱けなかった。先程の謎解きが高揚のピークだったらしい。後の時間はただの消化試合だ。鈴と利根の二人は無邪気に喜んでいたけど、一旦冷めてしまったアタシは薄い現実感を抱いたまま出口の通路を目指すだけ。長いようで短かった脱出ゲームも、これにて終演。偽物だらけの空間ともおさらばだ。
アタシの即興劇も、これで終わり。
潮時だ。
いよいよ〝ガワ〟が剥がれる時間が近付いてきた。
階段室を横切ると見える出口扉にはアンロックの表示がされていて、押すと簡単に開く。縦格子が張り巡らされたアクリルの窓を右手に五メートル程の距離を歩き、左に曲がり、その先の観音扉に手をかける。
瞬間、世界は光に包まれる。
ドールハウス内の照明は意図的に抑えられていたらしく、食堂の明るさに軽く目が眩む。アタシたち三人は、あまりにも呆気なくドールハウスからの脱出を果たす。マガイモノではない、偽物ではない本当の世界。何の変哲も無い長机もサイドボードも全てが本物で、ドールハウスから出てきたアタシたちだけが本物ではない。本物になりたい。この〝ドール〟という〝ガラ〟を脱ぎ捨てて、本当のアタシになりたい。ドールハウスは木製の長机に乗っている。散々駆けずり回っても、その全ては食堂のテーブルの上での出来事だったという訳だ。何だか、お釈迦様の掌の上でいい気になっている孫悟空にでもなったような気分だ。
『と言うか、誰もいないんですケド』
首を動かしながら、鈴がボソリと呟く。本来なら、主催者である蕗屋が迎えに来て、ゴーグルの戒めを解いてくれる筈なのだが。
『瑠璃もいねェな。使用人の兄ちゃんも』
『波部っちもね』
利根の言う通り、食堂には誰の姿もない。せっかく偽物の世界を抜け出てきたというのに、この現実感の無さはなんだろう。
『ちょっとこの辺りを探してみない? 案外ドールハウスの影に隠れてたりして』
ここで棒立ちしていても仕方がない。アタシたちはテーブルから落ちないように気を付けながら、ドールハウスの外周に沿って歩く。
『あれ、波部っち、いるじゃん』
扉から左手に回り込んだところに、波部の姿はあった。棒立ちでこちらに背を向けている。
『なんだオメェ、そんなトコに突っ立って――って、オイ』肩に手をかけ顔を覗き込んだ利根が、そのまま固まる。『コイツ、もう繋がってねえじゃん』
利根に並んで顔を覗く。なるほど、目に光がない。〝ドール〟はオペレーターとオンライン状態では、目の部分に作動ランプが灯る仕様になっている。今の波部〝ドール〟には、それがない。つまり、この〝ドール〟は文字通り、ただの人形ということだ。
『フッキーにゴーグル外してもらって、接続切ったんじゃない? すでに波部っちは自由の身ってことだよ』
後ろから鈴が補足説明をしてくれる。
『だとしたら、オレらも早くそうしてもらいてェもんだなァ』
『だけど、肝心のフッキーの姿がないんだよね』
何だろう。何かがおかしい。アタシたち三人はテーブルの縁に立って、辺りをキョロキョロと探し回る。
異変はすぐに見つかった。
鈴がテーブルの下を指差す。
『あれ、何だろ』
彼女が指差す先に、何か落ちている。最初はゴミかと思ったが、そうではないとすぐに分かる。
それは、人の形をしていた。
〝ドール〟だ。
蕗屋透の〝ドール〟が、テーブルの下に落ちているのだ。
うつ伏せで倒れたまま、ピクリとも動かない。
ヒッ、と声にならない悲鳴を上げる鈴。利根は固まっている。
『――あれも、接続の切られた〝ドール〟でしょ?』
口内の渇きを感じながら、何とか台詞を捻りだす。
うつ伏せのために目の光は確認できないし、テーブルの下にあるためひっくり返すこともできない。
どうしようか――と逡巡してると、食堂の扉が開いた。入って来る二つの影。
「みんなちょっと聞いて。大変なことが起きたの」
先に入ってきたのは仁行所瑠璃だ。
いつも鷹揚に笑っているイメージのある彼女が、今は思いつめた表情をしている。口調も固い。まるで彼女らしくない。
瑠璃の変化も気になったが、アタシはそれよりも彼女の座る車椅子を押す後ろの人物に目を奪われていた。
〝ドール〟のための特殊スーツを身に纏ったままで、歳は三十前後、黒縁眼鏡をかけた細身の男性――厳密に言えば初対面になる筈だが、アタシはこの人のことをよく知っている。
『――波部君』
『なんだオメェ、ずっと探してたんだぞ』
『ね、フッキーは? そこに〝ドール〟は落ちてるんだけど、本人はどこにいるのかな?』
口々に勝手なことを言うアタシたちの問い掛けには答えず、波部はテーブルの下の蕗屋〝ドール〟に視線を移し、深い溜息を吐く。
「……みんな来て。見てもらった方が早いから」
固い口調の瑠璃に、嫌な予感しかしなかった。
そこに、蕗屋はいた。
屋敷の外、L字型通路の内側部分に、倒れていたのだ。
『死んでるの?』
ポツリと尋ねたのは鈴だろうか。ひどく遠い所から聞こえる。
「……ああ。脈と呼吸は確認した」
仰向けに倒れた蕗屋の頭にはゴーグルが装着されたままだ。〝ドール〟と接続している状況で奇禍に遭ったらしい。ただ、素人であるアタシたちにそれ以上の詳しいことは分からない。
『警察は』
「今、日野さんが電話かけてるわ。こんな山奥だから、到着まで時間がかかるかもしれないけど」
波部が、利根が、瑠璃が、喋っている。
なんだこれは。
これが現実か?
今、本当に起きていることなのか?
限界まで希釈されていたアタシの世界観は、すでに崩壊寸前だ。
アタシと利根、鈴の三人は〝ドール〟状態のまま、瑠璃の膝の上に乗せられ、車椅子でここまで移動してきた。首を横に向けると、ゴーグルと特殊スーツを着た人物が三人、呆けたようにそこに立っているのが見える。あれが、生身のアタシたちなのだろう。
「でも、なんで……誰かに襲われたって言うの?」
『でも、なんで……誰かに襲われたって言うの?』
「こんな山奥に強盗か? そりゃねェだろ」
『こんな山奥に強盗か? そりゃねェだろ』
向こうに立つ生身の人間と、膝の上の〝ドール〟が同時に喋る。聞き取れはするが、少しうるさい。
「それもこれも警察が調べることだ」
視線を伏せて波部が吐き捨てる。
「でも、状況の把握はしておいた方がいいかもしれないわねえ。きっと、警察の人に細かいことまで聞かれちゃう」
アタシの頭上、頬に手を当てて瑠璃が困惑の声を出す。
「状況把握もそうだけどよォ」
『状況把握もそうだけどよォ』
腕を組んで波部を睨め上げる利根〝ドール〟。向こうで、恐らく利根と思われる男も同様のポーズを取っている。
「いい加減、オレらのゴーグルも外してくれよ。波部のが外せたんだから、何か方法があンだろ。さっきからオレらが喋るとステレオになってうるせェしよ」
『いい加減、オレらのゴーグルも外してくれよ。波部のが外せたんだから、何か方法があンだろ。さっきからオレらが喋るとステレオになってうるせェしよ』
全く同感だ。
しかし幸いにもこの珍妙な光景のせいで、落ち着きも現実感も取り戻してきた。蕗屋の死は不可解だし恐ろしいし不幸なことだとは思うが、波部の言う通り、後は警察の仕事だ。アタシたちは、アタシたちにできることをするだけ。
「……そうだったな。仁行所、外してやれ」
頭をかきながら瑠璃に指示を出す波部。
――ここまでか。
ゴーグルが固定された時点でこうなることは覚悟していた。
〝ガワ〟は剥がれ落ちる。
即興劇は、終わる。
ようやく、〝アタシ〟は〝私〟へと回帰する。
「ああ、ごめんなさいねえ。ゴーグル着脱スイッチ、予備のを渡されてたの。波部くんのはこれで外してあげたのよね。生身のみんながいるトコに連れてきてからと思って、忘れてたわ。さすがに動転してるみたい」
瑠璃も元来の鷹揚さを取り戻しつつある。ゴーグルで顔半分を覆われた間抜けな三人の元に移動し、どこからか取り出したスイッチを向ける。
「……そうだな。状況がややこしいから、一つずつ整理して把握しないと駄目だな」
波部の独り言に、カチリというゴーグル解除音が重なる。
ようやく、顔を覆っていた戒めが解けた。
目の前の光景が、瑠璃の膝の上から、屋敷外の地上へとスライドする。横に立つのは、目付きの悪いチリチリ髪の男性と、小柄で色白な女性。二人とも、口を半開きにして固まっている。
アタシの、顔を見て。
「……え?」
「誰?」
そうだろうな、と思う。
覚悟は、とっくに決まっている。
「まずは、自己紹介をしてもらわないといけないしな」
平坦な波部の声が、ひどく遠くから聞こえた気がした。