第89話 踏み込み不足
ゲームの準備は順調に進み、絵の方も心機一転してからは椿も調子を狂わすことはなかった。
むしろ筆が乗るとでも言うのか、ペースが上がり、余裕が生まれたようにすら楓には見えた。素人ながら、モデルの方も慣れてきて、絵の手伝いをすることも楽しくなってきていた。
実力が評価される世界。時に運が激しく絡む険しい世界。楓が一歩踏み入ることさえできなかった世界。その一端に触れることができていることに、楓は喜びすら覚えていた。
他方、実行委員になったこともあり、桜はせわしなく働いていたが、それでも椿との絵の時間を欠かすことはなかった。
「今日は遅れちゃってごめんね」
桜が謝った。欠かすことがないとはいえ、どうしたって予定があるため遅れることは避けられなかった。
「私の方こそ無理を言って申し訳ないわ。ギリギリまでよくしたい私のわがままに付き合わせちゃって」
椿が言った。
「いや、椿たんのせいじゃないよ。そもそも、楓たんがあたしに任せなければ、こんなことにはならなかったんだけどね」
「僕のせい? いや、それを言うなら、桜が僕に任せたのが先じゃん」
「でもあたしに振る必要なかったでしょ」
「まあまあ、絵は順調に進んでるから大丈夫よ」
「そう? でも聞いてよ。歓太郎くんのことなんだけど、クラスの出し物をできる限り実現しようとするから、仕事を自分で増やしてそのツケがあたしにまで回ってきてるんだよ」
桜は大きく息を吐き出した。
どうやら、普段はあからさまに態度には出さないが、仕事が集中しているせいもあって疲れているのは本当らしい。
楓としては、桜がここまでどっと疲れているように見えたのは、今までで初めてのことだった。
「でも、楽しそうでいいじゃない」
「まあね。楽しくはあるよ。それに、仕事は増えてるはずなのに、こうして椿たんの絵の方に顔を出させてくれてるしね」
「そうね。ありがたいわ」
「うん。口だけじゃないって思ったね。あとは、何よりもこういう行事に積極的に関わる娘は可愛いからね」
女子の話になると、急に息を吹き返したように調子を取り戻し、桜はしばらく語り続けた。
あの子は顔がいいやら、あの子はスタイルがいいやら。見た目の話ばかりじゃないかと思ったが、それに加えて普段の姿勢がいいということや、スポーツに打ち込む姿が素敵など、ただの面食いではないらしく、個々人の特徴にあった褒め方をしているのだろうかと驚かされ、よく観察しているのだなと楓は思った。
無論、顔はいい方が桜としてはいいのだろうが、決してそれだけではないことがわかった。
話を聞く限り、委員の仕事は辛いだけではないようで、押し付けた身として、楓は少し安心していた。
今日の作業を終え、
「じゃあね」
と言って別れてから、楓は向日葵と帰路についた。しばらく黙って歩いてから、何か話した方がいいと考え、口を開いた。
「椿ってすごいよね。今までなんとなく背景と人物って別物だと思ってたけど、椿はどっちもうまいもんね」
「それは、人が真っ白世界にいることって、なかなかないからじゃないの?」
至極当然な回答に、楓はまばたきを繰り返した。
「どしたの?」
「確かになと思って。そうだよね。よく考えれば漫画も背景ついてるし、どっちかだけってわけでもないか」
「やっぱり私も描こうかな?」
「それは、落ち着いたら頼むから」
「冗談だって、わかってるよ」
向日葵のいたずらっぽい笑顔を見てから、楓は息を吐き出した。
絵に関しては詳しくない楓だが、向日葵に言われて背景と人物の関係は勝手な決めつけだったのだと思った。
今はまだ桜が覗き込んで以来、椿の絵を見ていなかった。
楓だけが見ないようにしているわけではなく、完成までは見せたくないと言う椿のこだわりらしかった。
それでも記憶の中にある椿の描いた絵を思い出すだけで、十分にワクワクしてきて、完成したらどれだけのものになるのかということが気になって仕方がなかった。
再び楓は浮かれ気分になったが、向日葵とはいまいち感情を共有できていない気がした。どうしてか向日葵は澄ました顔をして黙って前を向いていた。
「向日葵今日静かだね」
「そう?」
「うん。何かあった?」
「わからない?」
向日葵は口を尖らせた。
しかし、楓には思い当たる節がなかった。何かの記念日というわけでもなく、何かの過ちを犯したというわけでもない。
だが、何かに気づいてほしいということはわかった。それだけを頼りに楓はしばし考えた。
「風邪ひいてるとか? 熱あるんじゃない?」
楓は当てずっぽうで口に出した。手を向日葵の額に当てるとなんだか熱い気がして、目を見開いた。
「やっぱり熱あるんじゃない? 無理してるの? 気づかなくてごめん」
「違うよ。これは、その、楓が急に触ってくるからで」
「そう?」
「そう。熱じゃないよ。私が言いたかったのは、楓が他の子のことを話してると、胸の辺りで何かが渦巻く感じで落ち着かなくなることなんだけど。これは何? わからなくて戸惑ってて」
「僕は体感してないからよくわからないけど、もっと何かない?」
「朝顔が楓を閉じ込めようとしてから、取られちゃうかもって思うようになって、それから起こるようになった気がする」
「多分、嫉妬じゃない?」
「嫉妬?」
「多分ね。ずるいとか、羨ましいとか、他の子ばっかりっていう感情を嫉妬って呼ぶ気がするけど」
「それかな?」
そう思って見ると、向日葵が嫉妬によって口を尖らせ、不機嫌になっているのだというように楓には見えてきた。やけに自分を見ろと主張してくるのはそれかと納得がいった。
「大丈夫だよ。急に気持ちは変わらないって」
「でも、信頼は簡単になくなるってどこかで聞いたよ?」
「確かにそうも言うけど、うーん。そうねぇ。でも、色々あったし、向日葵との関係を切るつもりにはならないけどな」
「うーん」
今度は二人して考え込んだ。
日によっては肌寒くなる日も出てきて、そろそろ衣替えも近いのかもしれないと楓は思い始めていた。
こんな風に季節が変わるように、気持ちは徐々に冷めてしまうものなのだろうか。
そう思うと寂しくなった。今も向日葵が危惧するように、冷めてしまっているのかもしれない。確実に慣れてはいた。だが、それは安心であって、心が離れていることではないと思った。
もし季節のように気持ちが移り変わるなら、また春が来て、夏が来るはずだ。
それでも、うまいこと形にする方法は簡単には思いつかなかった。
「そういえば、嫉妬してても椿とか桜を、洗脳するようなことはしてない気がするんだけど」
煮詰まった時は別のことを考えようと思い、楓は言った。
「うん。楓が嫌がるかなと思って。あと、それはつまらない気がして。力で支配すると人らしさがなくて、楓に嫌われそうだし」
「そうだね。本当に気にせずやってたら全力で逃げてたかもしれない。」
「でしょ? だから余計、二人の時間が戻ったと思ったら、文化祭の準備でまた減って、不安になって」
「なるほど。今、時って止められる?」
「できるよ」
前の仰々しい感じではなく、軽い感じで指を鳴らすと簡単に世界から色が失われ、情報が失われた。
家まであと少しというところだったが、楓は立ち止まった。
「こうすればいくらでも話せるんじゃない? というかこれならいつでも二人に慣れるんじゃない?」
「お姉ちゃんや朝顔に破られたらおしまいだよ?」
「無敵の力ってわけじゃないんだね」
「まあね。でも、こうすればいつでも二人きりになれるんだね」
「そうだよ」
別に時間を止めないと二人きりになれなかったわけではない。げんに今も少しの間だが、二人で帰り道をともにしていたのだ。
「僕ももっと気遣いは必要だったよね
「そうだよ。もっとぐいぐいきてほしい。私、楓の彼女だし、楓のこと好きなんだよ」
「そうは言うけど、どこまでならいいのかいまいちわからないんだって」
「友達よりも深い関係ってことだよ」
少し興奮気味に向日葵は手を打ちながら言った。
どうやら気持ちを説明する言葉が見つかったようで嬉しそうだった。笑顔がはじけ元の向日葵に戻ったような気がした。
「じゃあ、文化祭は二人で回ろう」
「いいね」
「そういうのも彼女っぽいんじゃない?」
「嬉しい」
向日葵は素早く接近するとともに、楓の背中に手を回し、そして続けて唇を頬に当てた。
「どうしたの? そんなに?」
「うん。態度で示さないと。それに、これくらいなら毎日してくれていいよ」
一瞬、起きたことに楓は目を白黒させ、過呼吸気味になりながら口を開いた。
「これを?」
声がうわずっていた。
「うん。これくらいはしてほしかった。というか、してよかったんだよ?」
「そうだったんだ」
「楓あったかい」
「まだ熱いくらいだと思うけど」
「いいの。ほら、楓も」
向日葵は手をつなぐだけでなく、ハグにキスまでご所望だった。
もちろん楓も機をうかがうことはあった。だが、いまいちタイミングがわからず行動に移すことはほとんどなかった。それを急に毎日という。
何にしてもまずは、一歩を踏み出すことだと楓は考えた。今は誰も見ることはできない。外だが時が止まっている。
人に見られていると思うと、すぐにはできなかったが、誰の目もなく、求められているという状況に流され、楓はハグとともにキスを返した。
密着したせいか急に情報量が多くなった気がした。
「あ、あ、あー」
どこからともなく声まで聞こえてくるほどだった。
「え?」
少し間があったものの、声に飛び跳ねるように反応し、楓は顔を向けた。
多くなった情報量は、楓と向日葵二人だけの情報量ではなかった。
驚きに目だけでなく口まで大きく開いて、朝顔がそこに立っていた。
「あ疲れ様でした!」
何かを言いにきたのではないかと手を伸ばしたが、楓は朝顔を捕まえることはできず、走り去る背中はみるみる小さくなっていった。
世界に色が戻っていることに気がついた。




