第87話 不安による迷い
やりずらい。
楓はあくまでも表には出すまいと思いながらも、顔に出ているのだろうなと思った。椿の作業中のため、邪魔にならないよう静かにしているが、それでも言い知れぬプレッシャーを感じていた。
原因は最近の向日葵の嫉妬の激しさのせいだった。
自分で約束してしまったのだから、楓も注意すべきだと思ってはいるものの、それでも不可抗力的にことは起きてしまう場合もある。
先日の桜を羽交い締めにしていたことも、あらぬ疑いをかけられたのだった。
最終的には、
「わかった。楓の言うことを信じるよ」
と向日葵が言ったため、無事解決だと思っていたのだが、今現在、絵のモデルになっていながらも、オーラでも出しているのではないかと思うほど肌がぴりぴりする思いだった。
最初は、ほとんど初めてのことで、完全に素人だから緊張しているのだろうと思った楓だったが、いくらやっても慣れないことから原因が別にあるのではと思うようになった。結果、思い当たったのが向日葵の嫉妬だ。
もちろん、挨拶もすれば会話もしている。日常的にはなんら問題ないように接しているつもりだが、無言になると急に圧力を感じてしまうのだった。
加えて、うーんうーんと唸る椿もまた、今の自分がよくないのではないかと思い、楓は落ち着かないのだった。
「調子はどう? 椿たん?」
桜は自由に動き回り、気になると椿の絵を見に行くのだった。
「動くとまた怒られるよ」
「いいじゃん。ちょっとくらい」
桜の言う通り今回は椿の注意が出ることもなかった。そしてすぐ桜は椿の手元を見て目を見開いた。
「ねえ、すごいよ。わかってたことだけどすごい上手だよ。二人も見てみなよ」
桜の興奮気味の声と、椿が注意しないことをいいことに、楓も椿の手元に回り込んだ。ちらっとみるつもりだったが立ち止まって息を呑んでいた。
「うわあ」
やっとのことで息を吐き出そうとした時、自然と声が漏れていた。
本物だと思った。
記憶の中でさえ心を奪った椿の絵を初めて間近で見た。まだ未完成とはいえだいぶ形ができたものだ。思わず笑顔になってしまうような、心躍る絵だった。
「よく描けてるじゃん」
とよくわからないながら言ってしまってから、楓は口を押さえた。
だが、未だに椿は楓たちに気づいていないのか、納得しないようにうーんと唸り、頭を押さえていた。
「私も描いてみようかな」
向日葵の言葉に、楓は即座に向日葵の肩を掴んだ。
「な、何? どうしたの楓?」
「向日葵は描かなくていいよ」
「なんで? どうして私にはそうやって冷たくするの?」
責めるような、攻撃的な向日葵の表情に楓は言葉に詰まった。もっと別の言い方があったと思うものの、止まることはできない。
「いや、違くて、ほら、向日葵が描いたら僕にとって一番になっちゃうから。文化祭が終わったら僕だけのために描いて欲しいというか……」
言いながら恥ずかしくなって、楓は徐々に向日葵から目をそらした。
顔が熱くなるのを感じていた。桜も椿も見ている前にも関わらず、何を言っているのだろうと、自分を否定する言葉が頭の中に並べ立てられた。
向日葵の能力なら、絵でもきっと一番になれる。そう楓は信じて疑わなかった。決して、嘘偽りない気持ちだった。だからこそ、今は椿の戦いであり、安易な気持ちで部外者が邪魔するのはいかがなものかと思ったのだった。
無論。椿が下手だと思っているわけではない。だが、向日葵が負けるというシナリオが、生まれることはないだろうというのが楓の考えだった。もしあるとすれば、同じ神である茜や朝顔に負けるということだけだ。
現実から逃げるように思考に集中していたため、不意に自らの手が向日葵の肩からすべり落ちて、楓は現実に引き戻された。そして、急にぬくもりを感じて目を見開いた。
だんだんと感覚が鮮明になり、何が起きているのかを理解し出した。向日葵に抱きつかれているのだ。
「もう。やっぱりそういう楓でいてほしいよ」
「え、え、何? なんのこと? どういうこと?」
「照れちゃって。私は覚えてるからね。約束するよ」
「ヒューヒュー」
桜が口笛を吹くようにしていることから、楓ははやし立てられることをしているのだと再度理解した。
しかし、恥ずかしさよりも向日葵の気分が戻ったことで楓としては安心した。
背中をぽんぽんと叩いてから、楓は向日葵から離れた。
それからふうと息を吐き出して、椿に向き直った。今のところ椿の反応はなかった。もう少し何かあってもいいのではないかと思ったが、それだけ重症なのかもしれない。
肩を叩く程度では気がつかず、楓は肩を揺り動かすことにした。
「椿、椿」
「ん。楓さん? みんな動いてどうしたの?」
何度か目をしばたかせてから、椿は声を出した。その声にも覇気が感じられなかった。
「それはこっちのセリフだよ。全然動いてないから様子をうかがってたんだよ」
「そう?」
「うん。何かあったんじゃないの?』
「そうかもしれない。どうも葛と話してから筆が進まないのよね。頭の中がごちゃごちゃしていて、うまくいかないのよね」
「どういうこと?」
「今回はすごい自信ありげに見えたことが不安なのよね。今まで一応負けなしということもあって、今回ばかりは勝てないんじゃないかっていう気持ちでいっぱいで。負けたらどうなるんだろう……」
椿は頭を抱えてうつむいた。
いつも追いかける側だった楓は言葉に詰まった。
大丈夫だよ。と安易に言うこともできた。だが、それは違う気がした。追いかけられる側の人間にしかわからないものだろうと思ったからだった。
「……私がなんとかしようか?」
向日葵のささやきに楓は首を横に振った。それこそ無粋というやつだ。
「スケジュールには余裕があるんだよね?」
「ええ。もちろん。遅れているつもりはないわ」
「じゃあ、今日はちょっと気分転換に外に出ない?」
「え? でもまだ今日の分が描けてないわ」
「ちょっと意地悪な言い方だけど、今のままで今日の分ができると思う?」
「それは、そうね。難しいと思うわ」
「でしょ? たまには休息も必要だよ。別に休んでないって言ってるんじゃないけどね」
「じゃあ、行きましょー」
休みと決まるより早く、桜は自分のカバンをひったくるように取った。
椿は何か言いたそうに見えたが、すぐに飲み込み、一拍置いてから口を開いた。
「あれじゃ、今日は休むしかなさそうね」
「うん。僕たちも行こうか」
二人の顔を見てから楓も荷物を持って教室を出た。
帰り道は各々バラバラだが、今日は寄り道メインで歩いていた。
普段なら向日葵とともに颯爽と帰る楓だが、今日はそうではなかった。学校を出てもぼんやりとしたままの椿を見ながら、ゆっくりとした調子で歩いていた。
今のままでは気分転換にならないと思い、楓は桜から何か口にできるものを聞き出した。
それからすぐに、近くにあるクレープ屋さんでクレープを買い、公園のベンチに腰をおろした。
だが、話すことが見当たらず、クレープを食べ進めるだけで、全員黙り込んでいた。
最初に沈黙を破ったのは椿のため息だった。
「どうかしたの?」
楓が聞くと、椿は自嘲気味に笑った。
「ずるいわよね。聞いてもらおうと息だけ吐き出すのは」
「聞いてとも言いにくいんでしょ?」
「ええ。なかなか相談って切り出しにくいわ」
「あたしたちの仲なのに?」
桜が身を乗り出して言った。
「そうね。緊張するわ」
「しなくていいのに」
「そうね」
一度迷ったようにしてから椿は言った。
「ほっぺにクリームついてるわよ」
「本当? 取って」
椿は狙いを定めるように一度止まってから、桜の頬についたクリームを指で拭った。すかさず桜がクリームのついた椿の指をくわえた。
「何してるの?」
「今度は私がクリーム取ってるの」
「あんまりキレイじゃないと思うけど」
「少しくらい大丈夫だよ。ほら、これくらいしても別に怒らないでしょ?」
「それはそうよ。これくらい桜さんなら日常茶飯事だし」
「あたし達の仲ってそういうことだよ。別に悩みがあって聞いてほしいなら聞くし、言いたくないなら黙って寄り添うし、それも負担ならどこかへ行く。でも言葉にする余裕があるなら、言ってほしいんだよ」
楓には椿がハッとしたように見えた。実際、楓も同じようにハッとした。茶化すつもりなく、桜が真面目なことを話していると思ったからだった。
だが、楓が言いたいことも概ねそんなところだった。筆が止まる椿の支えになりたいということなのだ。
「わかったわ。話すわ」
観念したようにそう言ってから、椿は咳払いした。
「あれもこれもと取り組んでいる自分が不誠実だと思ったのよ。一つのことに全力を傾ける葛や他の人に対して、不誠実なんじゃないかってね。それで、このままじゃいけないのではないかと思うと、それから思考が止まらなくなって。結果、あのザマよ」
「それでいいと思うけど」
間を置かずに向日葵が言った。
「いいの?」
「うん。別に椿ちゃんは完璧な存在じゃないんだしね。そもそも葛ちゃんだってそうだよ。取り組み方は人それぞれ。行き詰まってうまくいかないなら、楓が提案したように、こうして別のことをしてみるのも大切だよ」
「そうそう」
楓は頷いてクレープを掲げた。いつものように、お菓子によるたとえをしなかった向日葵に変わって、何かを言おうと考えた。
「このクレープだって材料から全て一人で作っているわけじゃないでしょ? それに、同じ人がクレープを作ってるわけでもない。一点物の作品を作るのとは訳が違うかもしれないけど、素材の集合という意味では同じだと思うんだよ。だから、今回のポスターだって椿一人だけが背負ってる訳じゃない。もちろん。負担がみんな同じだって言いたい訳じゃないよ」
「そうね。みんなの言う通り、私一人で頑張ってもうまくいかないわね。でも、ありもしない完璧ってものを目指してみたくなるのよ」
「それはそれでいいんだよ。だけど、目指して足踏みしてるんじゃ絶対に作れないでしょ?」
「まさに」
椿は楓を指さすとクレープを一口かじった。楓にはその顔からは思い詰めたようなものがなくなっている気がした。
安心からか、楓も思わず頬がほころんでいた。
「まだまだここからよ。みんなも手伝ってね」
「もちろん」
三人は声を揃えて言った。




