第74話 いざ行かん
屋敷の前に立つと楓は身震いした。
「やる人は選ばないとダメよ」
と椿に言われた。
どういうことかは最後までわからなかった。桜に教わったことはうまくいったのか、それともいかなかったのか判断はつかない。
それでも進まなければならない。
茜は今も楓の部屋で寝ている。
楓は家族に対して日常を装っている。
これでいい。あくまでほんの少し変わったことなのだ。
自分に言い聞かせるように何度か繰り返してから、楓は屋敷のドアを開いて入った。
この短期間で存在すら知らなかった向日葵の家への道もだいぶ歩き慣れた。
しかし、楓にはレーダーのような能力はない。
音の反響で何がどこにあるのか把握するスキルも、どんな微細なものも見逃さない目も持っていない。
あるのは桜から教わったもののみ。
そう、今日は手ぶらで来た。持ってきても荷物になるだけだからだ。
どれに、楓は招かれざる客ではないようで、触手が襲ってくることはなかった。
ゆったりとした足取りで移動し、朝顔の部屋の前で立ち止まると、急に心拍が上がった気がした。
体が備えていることがわかった。
来るたび危機におちいっているため、体が覚えてしまったのだろう。
極寒の海に飛び込む前のスイマーのような気分だった。
手も震え、汗ばんでいた。
だが、楓は扉を開いた。
「あれだけ私を拒絶していたから、我が身かわいさに来ないかと思ったけど」
朝顔が言った。
隣には向日葵の姿。
姉妹に対しても容赦はないのか、触手で縛り上げられていた。
「来たよ」
いちべつののち楓は答えた。
「ということは、私の元に留まることを選んでくれたってこと?」
楓は首を横に振った。
「じゃあ、わざわざひま姉の最期を見届けに来たの?」
楓はここでも首を横に振った。
楓の言葉に朝顔は眉をひそめた。
「二つに一つなんだけど、もしかしてまだ抵抗するの? もうあか姉の助力も求められないのに? かえ姉に何ができるって言うの?」
楓は視線を落とした。
「確かに、僕は無力だ。朝ちゃんと関わってよく思い知った。でも、無力だからと言って何もできないわけじゃない」
「そう。残念。とても残念。自分から素直に来てくれることを望んでたのに」
「ああっ!」
突然、向日葵が叫び声を上げた。
「向日葵!」
駆け寄ろうとするも、朝顔の触手に遮られた。
「かえ姉にはひま姉がどうなるのかも見せてあげない」
朝顔が言った。
部屋はすぐさま触手によって分断された。
叩いても叩いても衝撃を吸収するだけで全く穴が開く気配はない。
「かえ姉の力じゃどうあがいても無理だよ」
「知ってるよ」
楓は諦めて一歩朝顔に近づいた。
「最初から朝顔と一緒にいればよかったのに」
「僕もそう思った」
楓はまた一歩朝顔に近づいた。
「今さらそうしたって遅いよ」
「そんなことない」
楓は朝顔との距離を詰めた。
同じ状況。
いや、もう朝顔は逃げようとすらしない。
「だから言ってるでしょ。もう朝顔はそんなことに騙されないよ」
「それならいいよ」
最大の心理的障壁は朝顔によって取り払われた。
あとは進むだけだった。
楓はゆっくりと顔を近づけた。
楓には朝顔の目に今の自分がどう映っているのかわからない。
しかし、ゆっくり確実に顔が近づいてくることで、狼狽の色が混ざり出した気がした。
「本当にするの? ねえ、そのままだとぶつかっちゃうよ? おでこがぶつかっちゃったってやつ? ねえ、何か言ってよ。ちょっと怖いよ?」
「目つむってた方がいいよ」
「え」
朝顔は咄嗟に目をつむった。
最後は一気に距離を詰めた。
楓は、朝顔の攻撃を意図したものではなかったと考えていた。
何故なら、頬をかすった程度の触手をわざわざ切り捨てたからだった。
そのため、朝顔は楓に触れることすらできず、ましてや攻撃もできないという考えを改めることはなかった。
予想通り、朝顔は楓を突き飛ばすことも、首をはねることもなかった。
両手で頬を挟んで行う口づけ。
手からは風邪でもひいているのではと思うほどの熱を感じた。
唇が当たり、頬を手で触られても、朝顔は身じろぎ一つしなかった。
だが、部屋に変化はない。
まだ混乱程度なのだろうと楓は思った。
そこで桜直伝のスキルを発動した。
一瞬びくりと体を震わせたかと思うと、朝顔は体をこわばらせた。
何が起きたのかわからない様子で目を見開いたが、楓は続けた。
やがて朝顔はぐるぐると目を回し、一気に力が抜けた。
同時に壁となっていた触手も縮み上がり、向日葵が床に激突する音が部屋に響いた。
さすがにやりすぎたかと思い、楓は頭をかいた。だが、元々こういうことをしたくて朝顔は求めていたのだろうと思い直し、ラッキーと思ってもらうことにした。
放置するのも気が引けたが、向日葵の様子が心配だったため、楓は朝顔を床に寝かせ、向日葵に駆け寄ろうとした。
その時、足を掴まれるような感覚がして、体が一気に横を向いた。
引っ張られて宙に浮いてるのだと理解した。抵抗できない。
しかし、ふわりとした感覚は長くは続かなかった。急に、力が途切れ、楓は右半身を地面にぶつけた。
ジンジンとする痛みを感じつつ、顔を歪めたが、何が起きたのか把握するために足の先を見た。
見ると、左足首に触手が巻きついている。
朝顔を確認すると、どういうわけか触手と触手の切れ目、楓の足首に巻きついた触手と本体思われる部分の間に手を伸ばしていた。
「朝ちゃんがやったの?」
楓が聞くと朝顔は首を横に振った。
「でも、じゃあ誰が? 向日葵はまだ気絶してるみたいだし」
「わかりません。ですが、私の調子は元に戻ったようです。ありがとうございます」
朝顔が言った。
楓は何が起きたのか理解できなかった。
「えーと、本当に朝ちゃん?」
「そうですよ。かえ姉。でも今は、暴走した触手をどうにかする方が先決です」
初めて会った時に戻ってしまったように、朝顔の話し方が変わっていた。
このタイミングで戻るなら、無理してここまで出向かなくてよかったのではと思ったが、触手が暴走しているらしい。
「暴走って何? どういうこと? あれは朝ちゃんが動かしてるんじゃないの?」
「はい。あれは朝顔の力では動いてません。かえ姉を攻撃した部分を切り離した触手が、独立して動いてるんです」
「全然わからないんだけど」
「つまり、ピンチです。逃げましょう」
朝顔が能力で向日葵を動かしながら走り出した。
楓も続けて走り出す。
ここは朝顔の部屋。ならば、この触手の化け物にも効果があるかもしれない。
「部屋に閉じ込めればいいんじゃない?」
「そうですね。ドアが閉められればですけど」
部屋を出るなり、ドアを閉めようと試みるも、触手が突き破る方が早かった。職種は簡単にこちらの世界へなだれ込んできた。
少しずれていれば体に風穴が開くところだった。
「ダメでしたね」
「他に策は? さすがにあれに有効な手を僕は知らないよ」
「朝顔に心当たりがあります。でも、そのためには一度外に出る必要があります」
「わかった。外に出ればいいのね」
と言っても触手に追われながら外に出るのだ。
向かっているのは階段の方向。
「って、足が動かない」
左足に巻きついていた触手が、地面と合体したように固定されていた。
短いため力はないのか、痛みはなかったがそれでも踏み出せなかった。
「待って朝ちゃん!」
「ええい!」
一度向日葵を床に落とすと、朝顔は楓の足に手を伸ばした。
パンっと弾け一面にねっとりとしたものが飛んだ。
「何これ、うわっ!」
すべりやすい液体のような何か。
その後ちょうど頭上を触手が通り、戻っていった。
「ねえ、これでどうやって外に出るの?」
「かえ姉は朝顔がかつぎます。まずは屋上に向かいましょう」
「屋上あるの?」
「作ります」
わからないながらに楓は朝顔にかつがれた。
ドアやら窓ガラスを割りながら、触手は迫り来る。
物が壊れる音が聞こえるたび、ずり落ちそうになるのを必死にこらえて楓は朝顔にしがみついた。
何階か上がると、やっとのことで屋上に出た。
朝顔は屋上のドアを閉めて中央まで移動すると楓を下ろした。
「来たよ? どうするの?」
他のドアよりも丈夫なのか、触手の衝突でへこみはしたものの、まだ少しの間保ちそうだった。
「その、恥ずかしいんですけど……」
「何?」
「頼みがあります!」
ごんごんと鳴る音、鉄のドアのように見えたが、一生安全というわけではなさそうだ。
「僕にできることならなんでもやるよ」
楓は咄嗟に答えていた。
朝顔は楓の言葉でパッと顔を輝かせた。
「あの触手が片づいたら繰り返してほしいんですけど、さっきのキスをしてください」
「……」
楓は空いた口がふさがらなかった。
この状況で何をねだっているのかと思ってしまった。
瞬間、ドアが突き破られた。
盛大な音を立てて、ドアが地面に衝突した。
見ないでも窮地だとわかる。じっとしていても仕方ない。
楓はうねる触手が空を切る音が聞いた。
その後、パンと風船が割れるような音がして、一面にねっとりとしたものが飛び散った。
背後で何が起こったのか楓にはわからなかったが、朝顔の指示だと繰り返せとのことだった。
口を離してもう一度しようとした時、急に勢いよく押し倒された。
都合よく背中には柔らかいものがあり痛みはなかった。
おそらく朝顔が出したのだろうと思った。
唇と唇は当たり、目的は遂行されたはずだったが、朝顔は離そうとしない。
危機を脱して一段落ついたと思うのだが、全く離そうとしない。
途端、刺激を感じて楓は体を硬くした。




