第35話 帰還
「ただいまー」
「おかえ……」
ドアが開けられ、玄関に現れた存在に楓は固まってしまった。
てっきり買い物に出かけていた母が帰ってきたのだと思い、油断していた楓には核弾頭級の破壊力だった。
口を開けたまま、まばたきだけをする楓に、家に入ってきた存在が心配そうな表情を浮かべたところで、楓はなんとか現実に戻ってくることができた。
危ない。今は女子の秋元楓なのだった。と思い返し、楓はできるだけ自然に笑顔を浮かべ、その場を取り繕おうと躍起になった。
「おかえり紅葉。帰ってきて疲れてるよね。お菓子でも準備してくるね」
とうとう対面した今の楓の実の妹、秋元紅葉を前に楓は早口でまくし立てた。
名前も間違えずに呼べたことをいいことに、気まずさからそそくさとリビングへ逃げようとする。
「お姉ちゃん」
楓はリビングに入りかけたところで動きを止め、ハッと自分が呼ばれているのだと気づいた。
お姉ちゃんと呼んでくれた妹のことを無視することが楓にできるはずもなかった。
生まれて初めて現れた妹から、生まれて初めてお姉ちゃんと呼ばれ、楓はなんとも言えない高揚感に包まれ、満面の笑みを浮かべながら振り返った。
「なあに?」
「今日はギュッてしてくれないの?」
ひかえめにおずおずと言う紅葉は小動物のようなクリっとした目で楓を上目遣いで見つめていた。そんな妹を前にして楓はすぐさま紅葉の目の前まで駆けた。
「いいの?」
「私はいいよ。お姉ちゃんは嫌?」
「ううん。嫌じゃないよ。ただ、紅葉が疲れてるだろうから、すぐに休みたいんじゃないかと思っただけだよ」
楓は抱きつき紅葉の頭を優しく撫でた。
ああ、いい。かわいい。このままシスコンと呼ばれてもいい。と楓は思ったが、本当にシスコンになって戻ってこられなくなると思い、手を止めた。
心を鬼にして紅葉から離れるとまだもの足りなそうに見つめてくる紅葉に、
「続きは後でね。準備してくるね」
と声をかけて今度こそリビングに向かった。
「お姉……」
自分に手を伸ばしてまで向けてかけられた言葉には気づかず、楓はお菓子の準備のため、リビングに入ってしまった。
紅葉は顔に浮かべていたものを安堵から寂しさへと変え、靴を脱ぐと一人自らの荷物を持って部屋へ向かうために歩き出した。
とぼとぼとゆっくりした足取りはまるで楓が戻ってくるのを待っているようだった。
ガチャっとドアの開く音に笑みを浮かべつつリビングを見たが、開いた様子はなかった。
「おっす。楓。夏バテしてないか? スイカ持って来たぞ……楓ちょっと小さくなったか?」
開かれたのは玄関のドアで、やってきた歓太郎は紅葉に声をかけた。
片手に大きな丸のスイカを持ち、満面の笑みを浮かべてやってきたが、紅葉を楓だと見てとると、不可思議現象にでも遭遇したように動揺と困惑で視線をさまよわせた。
「え? 速水くん?」
玄関のドアが開けられたことで楓が急いでリビングから戻ってくると歓太郎は目を丸くした。
リビングから戻って来た楓に紅葉はサッと抱きついた。
状況を理解できない楓はとりあえず体を寄せてくる紅葉の頭を撫でながら、歓太郎の言葉を待った。
歓太郎は楓と紅葉を何度も見比べていたが、やがて腕を組み眉間にシワを寄せた。
「リビングから出て来た方が楓」
「うん」
「よっし」
楓を確認すると何故かガッツポーズをして、歓太郎はズカズカと家に上がり込んだ。
「いやーまさか本当に妹が居たなんてな」
「本当に知らなかったの?」
「おう。楓しか見てなかったからな」
「……速水くんもか」
頭を抱えつつも楓は歓太郎が切ってくれたスイカをかじった。
どうしてこうも恥ずかしいことをスラスラと言えるのだろうか。と楓は疑問に思った。片方は神だからその辺の基準はないのだろうが、歓太郎は人間だ。
二人ともあまり考えて言ってるわけでないのだろうと気楽に捉えることにした。
「どうしたの? このスイカ」
「パーティを開いてくれたお礼にって渡されたから、楓にプレゼントしようと思ってな。今があるのは楓のおかげだからな」
「僕は何もしてないよ」
笑いながら答えたが、歓太郎はいやいやと否定した。
楓としては本当に何かをしたつもりはなかったが、それでもプレゼントをもらうのは嬉しかった。
しかし、楓へのプレゼントと言いつつ、自らもガツガツ食べている歓太郎に楓は失笑してしまった。
冗談を言い合いながら食べ進めたが、さすがに丸々一個のスイカは多く、体が小さくなったこともあって食べてもなかなか減らなかった。
「ま、残した分は後日食べてくれればいいから」
「もう行くの?」
「なんか怯えさせちゃったみたいだし、元々スイカ渡しに来ただけだしな」
「そっか、またね」
「おう。またな。紅葉ちゃんも」
笑顔で手を振ると歓太郎は出ていった。
紅葉もまた、小さく手を振って歓太郎を見送った。
なんだか嵐のようだったと思いながら楓は再びスイカに戻った。
玄関のドアが閉まる音がするなり、紅葉は楓に向き直った。
「今のお姉ちゃんの彼氏?」
「違うよ。ただの友達」
「でも楓しか見てなかったとか、スイカのプレゼントとか言ってたよ?」
「まあ、借りがあるからかな。必死に返そうとしてくれてるんだよ」
「借り?」
「うん。彼との間には色々あったのさ。恋愛的な意味じゃなくてね」
首をかしげる妹を前に、楓は説明することが面倒臭くなり、包括した言葉で締めくくった。
やはり曖昧な言葉では伝わらなかったようで、紅葉の頭の上には疑問符が浮かんでいたが、楓が説明してくれないことを見てとると、それ以上は聞かなかった。
その代わり、スイカを食べることに戻った。
だが、男子一人が少量と女子二人では丸のスイカは食べきれず、結局冷蔵庫へ入れ片付けることとなった。
「お菓子準備するつもりだったのに、まさかスイカをもらうとは。食べないよね?」
コクリと頷く妹を見て、自分は何もできなかったと楓は脱力した。
偶然やってきた歓太郎にいいところを持っていかれたような気分だった。
しかし、妹はそんな楓の様子を見つつもモジモジし出した。
しばらく、口をモニュモニュさせてから紅葉は口を開いた。
「お姉ちゃん。続き」
腕を広げ、甘えるような声を出されると楓はすかさず飛びついていた。
中身は男なのだから、桜みたいな強引な場合や、向日葵みたいな見た目だけ女の子でないなら、そうそう抱きつくのはよくないと思っていたが、今はそんなことを考えるより早く動いていた。
してしまってから、家族でハグをすることはいいことらしい。ということを思い出し正当化してハグを続けた。
「お姉ちゃんは私のこと好き?」
「好きだよ」
「本当に?」
「うん」
ホッと息を吐く紅葉に、楓は首をかしげた。
何か気を遣わせるようなことをしてしまったかと考えたが楓に心当たりはなかった。
紅葉は慌てたようにワタワタすると、また少し口をモニュモニュさせてから喋り出した。
「帰って来てから、すぐ抱きついてくれなかったから、久しぶりで嫌われちゃったのかと思って」
はうと声を漏らしそうになって、すぐに口を閉じると、楓は胸が締めつけられる思いだった。
自重してただけだよ。とは言えなかったが、代わりに胸の内でかわいい妹を用意してくれた神様に感謝した。
向日葵は妹の存在を把握していなかったが、楓の目には、
「感謝せぇ。感謝せぇ」
と言う、仙人のようにヒゲをたくわえた向日葵の姿が映っていた。
代わりに何か答えないとと思い、楓は言葉を探した。
「ほ、ほら、疲れてると思っただけだよ」
「嫌われてなくてよかった」
やはり、こんな甘えん坊な妹が居てよかった。と楓はゆっくりと紅葉を撫でた。
背丈は向日葵より高かったが、それでも年下の妹なのだと一目見た時から感じらせる感触からか、楓は不思議な高揚感に包まれていた。
溶けてしまいそうなほどの笑みでいっぱいだった。
「私、お姉ちゃんと出かけたい」
ハグをやめ紅葉は楓に言った。
「今から?」
突然の発言に困惑の色の混ざった声を出してしまい楓はしまったと思った。
予想通り、紅葉に不安気な表情を浮かべさせてしまっていた。
そのまま、上目遣いで見つめてくるため、いてもたってもいられなくなり、楓は立ち上がった。
一日中楽しむという余裕はないが、時間がないわけではない。
「行こう」
「やったー」
妹の喜ぶ姿を見てから、楓は手早く準備をすると、すっかり行き慣れたショッピングモールへと向かった。
それから、楓は妹との時間を堪能した。
ウィンドウショッピングにスイーツを試し、初孫を得たじいさんばあさんのごとくかわいがった。
そんな態度は家に帰ってからも続き、手取り足取り世話を焼きたがっていた。
だが、あくまで求められるまでに抑えていた。
やはり、進んではいけない一線を越えそうになる気がして、楓は踏みとどまった。
向日葵が突然、お嬢様ごっこをやろうと言い出した気持ちも今ではわかり、なんなら紅葉に仕えたいとさえ思い出していた。
それでも、引かれるほどの行動は控え、なんとか残りの時間を耐え切った。
あくまで姉として毅然として臨んだのだった。
もう安心とベッドに入り、目をつむると楓の体からは完全に力が抜けていった。
夏休みに入れば帰ってくることはわかっていたため、予行演習をしておいて正解だったと考えていた。
しなかったら耐えられなかった。自分は充分耐えたと楓は自分に言い聞かせ、うとうととして眠りにつけるはずだった。
不意にドアが開かれると、廊下から光が差し込み、楓の部屋には影が伸びた。
ハッとしながら目をガン開きにすると、今日一日見てきた妹の姿があった。
とうとうおかしくなって夢にまで出て来たのだと思い、逃げるように壁に背中をぶつけたが、ドアは閉められ、足音はゆっくりと近づいて来ていた。
リアルな夢だなと思っていると、紅葉は楓の布団の中に入りこんだ。
「起こしちゃった?」
目の前の顔を緊張して見つめながら楓は平静を装って、
「ううん。まだ寝てなかったよ」
と答えた。
夢だろうと決めつけてやり過ごそうとしていた楓だったが、さすがにそんな妄想も続けられなくなった。
妹が同じ布団に入ってきた。
その事実だけで眠気が吹き飛ばされていた。
今日一日一緒に過ごして、楓は確信していた。
やはり下の子はかわいいと。
前世ではいいように使われることも多々あったが、甘えてくるようなことなど時の経過とともになくなっていった。
しかし、今はどうだろう。
「どうしたの?」
「一人だと眠れなくって」
妹から甘えてくるではないか。
安心した様子の笑みを浮かべる妹に楓の脳はショート寸前になった。
それでも、脳をはちきれんばかりに働かせて最適解を導き出そうとしていた。
「お姉ちゃんと久しぶりに遊べて楽しかった」
「それはよかった」
ふふふと笑ってみるも、楓の心に余裕はなかった。
お姉ちゃんと言われるだけどとろけそうになる脳になんとか鞭を打ち、再び思考に戻る。
そうだ。自分はもっと弟をかわいがりたかったのだ。
なら、このまま寝てしまえばいいのだ。
何も悪いことはしていない。
楓は思考を手放し、開き切っていた目をつむった。




