第18話 水泳特訓
約束の日が来た。
楓は玄関に座り込み、膝に肘をのせ、手に顔をのせ、今か今かと揺れながら待っていた。
「まだ部屋で待ってたらいいんじゃない? 来たら呼んであげるわよ」
「いいの、もうすぐだから」
母の提案をすぐさま棄却し、楓はなお玄関で待った。
楓の言う通り、間を置かずにピンポーンと家のチャイムが鳴った。すると、勢いよく立ち上がりドアを開いた。
眼前には向日葵の笑顔があった。
「お待たせ」
「ううん。待ってないよ」
「そういうのは外で待ち合わせする時に言いなさいよ」
母のツッコミをスルーして二人はいざ、温水プールへと向かうため外に出た。
道すがらいくらか会話をした。
未だ、女子同士の会話に疑問符が並ぶ楓だったが、なんとか理解しようとは努めていた。
そもそも若者っぽいことへの関心が薄かったため、同年代でありながら話題についていくことに苦心する自分に内心で苦笑する日々だった。
「そのワンピースかわいいね」
「アリガトウ」
なんの前触れもなく喋りがカタコトになった楓に、向日葵はキョトンとした表情を浮かべた。
楓はすぐさまニコッと笑ってその場を誤魔化した。
向日葵がかわいいと言ってくれたため、普段なら照れつつももっと喜んだだろうが、今は安心感が強かった。
「はーよかったー」
と、山に向けて叫びたい気分を必死になって堪えていた。近くに山はないが。
楓としても無難な選択をできただろうという思いだったのだ。
そう、それは遡ること数時間前のことだった。
せっかくのデートと意気込んだものの早速服装に困った。
プールのため、ほとんど水着で過ごすだろうとはいえ、水着だけではない。
今まではテキトーに私服でいいだろと考えていた楓だったが、今では選択肢も多く、制服がでいいならそれがいいという人間の気持ちを初めて理解したのだった。
結局、組み合わせやら何やらは勉強不足だったため、パッと着て簡潔して、季節にもあっているだろうワンピースを着ておけば大丈夫だろうとふんだのだった。
しかし、下手すれば胸まで空気が入り込んでくる構造の衣服に楓は内心ヒヤヒヤしていた。ひとつなぎでできているため、制服とはまた違った無防備さを感じたからだった。
そう、苦手なのは服装も同じだった。常にあるもので済ませてきた楓は、これまで流行を知るということすらしてこなかったのだ。
これからはファッションとやらを個人の自由とか考えず、ある程度勉強しようと思うのだった。
それから、会話に花を咲かせつつ歩き、温水プールについた。
近場で室内で泳げるということで、二人は選んだのだった。
屋内ならば日焼けの心配もいらないだろうと考えてのことだ。
楓は女子は大変やなぁ。と思いつつも自分も特別日焼けした後の肌は無事でなかったことを考え、もっと気をつけていこうと心に決めた。
そうこうしていると更衣室に居た。今度は一度で聞き取ることができたが、だからといって、学校で着替えるよりも何かと落ち着かなかった。
何故なら、向日葵の提案により、スクール水着以外の水着を持ってこいと言われていたためだ。
なんだかんだと布面積があることをいいことに、何度か授業で着る機会のあったスクール水着だが、それ以外となると楓は困った。
貯金も少なく、新しい水着を買ってもらうことも気が引けた。
しかし、手持ちはビキニ一着しかなかった。
これもまたモテるための努力だったのだろうか。
確かに、男子相手なら十分悩殺できただろう。だが、女子相手だと難しいように思った。
もし、相手が向日葵や桜なら充分効果的だろうが、他となると楓には効いている姿の予想ができなかった。
効果があるかは別にして、今は着る水着を決めなければならず、楓は自らと戦った。
これを着れば向日葵は喜んでくれるよ。と片方。いいや、多少母をたぶらかしても、もっといいのを探すべきだぜ。ともう片方。
うんうん悩んだ末、結局すでに持っていたビキニを持ってきたのだった。水泳の練習なのにビキニでいいものか。とも考えたが、スクール水着意外と言われたのだから仕方ないと言い訳した。
これこそほとんど下着ではないかと考えたが、海パンもほとんど下着と同じ形状だから大丈夫だろう。と楓は自分に言い聞かせて納得させた。
「意外と大胆だねぇ」
「ははははは」
やっぱりかと思いつつも、これしかなかったのだ。と言いたい気持ちを収める。秋元楓約束を守る者。
「泳ぎの練習だってわかってる?」
「それはこっちのセリフだ」
向日葵が持ってきたのもビキニだった。
もうここまで来ては葛藤している暇もなく、楓はさっさと身につけると、二人でプールサイドまで歩いて出ていった。
身につけたはいいものの、なんだかんだと体を隠したくなる誘惑に耐え、準備運動の末プールに入った。
「ささ、水に体を慣らしていこうか」
「うん」
向日葵に続いて楓も泳ぎだした。
最初のうちはゆったりと泳いでいたが、途中から慣らしではなかったのかというスピードで泳ぎだす向日葵に楓は追いつけなくなり、自分のペースで軽く泳いで水に体を慣らした。
「やっぱり映えますなあ」
向日葵は目を細めて楓を見た。その視線は頭から足までを舐めるようだった。
「僕が?」
「他に誰がいるの?」
予想通り、向日葵には効果が抜群だった。
「ありがとう。向日葵も水着似合ってるよ」
「いやーよかった。朝はコメントなかったから心配だったんだよね」
つい、似合っているという言葉口を出たが、全てが触らぬ神にたたりなしというわけではないのだと楓は思った。
これからは何かコメントをつけようと決めた。
「さて、この辺で本題に入ろうかね。弟子よ」
「弟子? お、お願いします。師匠」
「うむ。いい意気じゃ」
最近では楓もすっかり向日葵のよくわからない世界観に慣れ、ほとんど即座に対応できるようになっていた。
今日はすっかり師匠気取りの向日葵に合わせ、約束通り、楓の泳ぎの練習が始まった。
楓のフォームの確認、向日葵が手本を見せ、楓が真似る。など、順当に進んでいった。
「どうかね?」
「えーと、早くなったかはわからないけど、泳ぐのがラクになった気はする」
「うむ。その意気じゃ」
「本当に?」
楓は正しいのかよくわからなかったが、それでも二人で泳ぎの練習をだけで楽しく、時々はしゃぐだけでも充分だった。
これで泳ぎも上手くなるのなら、一石二鳥ということで、泳ぎの上達はおまけとして捉え始めていた。
「今さらこれ、意味あるの?」
「うむ。基本は大事じゃ」
「できてなかったってこと?」
「いいや、そうではない。今一度下半身の動きに注意を払うのじゃ」
向日葵に手を引かれ、バタ足の練習をした時は恥ずかしく、
「ねぇ、くすぐったいんだけど、これ本当に意味あるの?」
「姿勢が大事なのじゃ。今の姿勢を忘れるでないぞ」
「わかったけど、指の動き必要?」
「気がそれておるぞ」
「聞いてる?」
楓はプールサイドにつかまってバタ足をしていた。横から向日葵の手がお腹に当てられ、バランスを取っているらしかった。
しかし、そのお腹では向日葵は手をお腹に当てるだけではなく、指をもぞもぞとうごめかしていた。
「聞いてるぞよ。この人肌独特の摩擦がたまらないんだよねぇ」
「なんか猟奇的発言っぽいね」
「やだなぁ、そんな物騒なこと言ってないよ。楓ちゃんのお腹がすべすべってだけでしょ」
「ふ、ちょ、くすぐったい。ふふ、ね、やめて、力抜けるから」
それからもいくらか練習を行った。途中から楓は向日葵の練習メニューを疑いもしたが一通り最後までこなした。
「よし、それじゃあ測ってみるぞよ」
「はい師匠」
タイムを計測。
水に入るとドクドクと心臓の音がした。楓はそれでも向日葵に教わった通りに構えた。
息を長く吐いて吸うを繰り返して呼吸を整え、向日葵を見た。
腕は下げられた。
スタートの合図。
あとは教わった通りに泳ぐだけ、楓は無心で泳いだ。
結果は、来てすぐに測った時よりも大幅にタイムは縮まっていた。
「んー何がよかったんですか? 師匠」
「え? わかんない」
「え?」
後頭部に手を当て、高笑いの向日葵。
教えると言った本人が、
「いやー特別どれがいいとか気にしたことはないんだよね」
と言い出す始末。
「ちょっと! じゃあふざけてたってこと?」
楓は向日葵の肩に掴みかかると前後に大きく揺さぶった。
「ちょ、ちょっと落ち着いて」
向日葵の手が伸びてきたため、楓はさっと身を引いた。
頭が揺られ、少しフラフラしながらも、向日葵はなおおどけた様子で続けた。
「確かに楓ちゃんの言う通り、途中触りたくってやったこともあったけど、結果速くなったんだしよくない?」
「くぅ」
楓は今まで真剣に練習法を調べ、目標達成のため努力を続けてきたにも関わらず、全く結果がついてこなかった。
今日の練習では、楓が調べて出てきたものもあったが、中には楓が全く見聞きしたことがないものもあった。
それが、今。どういうわけか、かつての自分よりも速く泳げてしまったことと、反論できない悔しさから下唇を噛み締めていた。
向日葵の言う通り、どんな高尚な練習でも結果が出なければ意味はなく、どんなふざけた練習でも結果が出れば本物。全ては結果がものをいう世界。
「まあまあ、そう怖い顔しないの。かわいい顔が台無しだよ」
「かわっ、うぅ、わかったよ」
何にしても、これで今後の水泳は大丈夫だろうと楓は思ったのだった。