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第16話 恐怖

 結局、楓はほとんど寝つけなかった。

 だが、楓が思っていたより目覚めは悪くなかった。

 カーテンのすきまから差し込む日差しが顔に当たりながらも、未だ隣で眠る向日葵の顔を見つめ、恍惚とした表情を浮かべていた。

 しばらく楓は向日葵の顔を眺めていた。すると、向日葵はもぞもぞと動き出し、目を何度かしばたかせた。

 目の前に楓の顔があったからか、目を大きく開いたが、すぐに柔らかい笑顔に変わった。

「おはよ。楓ちゃん」

 向日葵が目を開け、挨拶する。

「おはよう。向日葵」

 楓も笑顔で挨拶を返した。

 今日も一日が始まった。

 楓は昨日と同じようにベッドを出ると、カーテンを開け、大きく伸びをする。今日は隣で向日葵も同じような動きをした。

 そして、向日葵に手早く着替えさせてもらうと、階下に降りていった。

「あら、もう、着替えたの?」

 昨日までは寝巻きで降りていた楓だったため、母は驚いた様子だ。

 楓がこくりと頷くと、母は、

「はあー」

 とうなった。

「彼女ができると変わるものね」

「ありがとうございます!」

 リビングに向日葵の元気な声が漏れた。

「さ、ご飯できてるわよ。もちろん向日葵ちゃんも分も」

「わーい!」

「やったー」

 母も笑顔だった。だが、言葉は急かすように放たれた。

 母の言葉通り、すでに朝食は並んでいた。

 しかし、楓はゆったりと食べ始め、正反対に隣の席に座った向日葵は高速で食事を済ませた。

 早くに食べ終えたため、向日葵は手持ち無沙汰になったものの、次の動作には移らなかった。

 箸の進みが遅い楓に痺れを切らし、楓の口にご飯を運び食べさせ始めたのだった。すると、噛むことだけに集中できるためか、楓はペースアップ。二人は食事を終え、さっと洗面所へ向かった。

 楓が歯磨きをする間、向日葵は楓の髪を楽しそうにセットした。これまた目にも止まらぬ速さで仕上げた。

 楓は歯磨きを終えると今度は向日葵の髪のセットをしようとしたが、向日葵は楓の髪をいじった後、手早く自分の髪を結わえると歯を磨きだしたため、何もできずに一人しょぼくれていた。

 二人はそれから楓の部屋へ戻ると、忘れ物がないことを確認して玄関へ向かった。

「今日こそは持って行きなさいよ」

「は、ハイ」

 初めて見る母の睨みに、楓は今になってやっと目が覚める思いで背筋を伸ばし、胸に突きつけられた弁当箱を確実に受け取った。

 特別多くを語りはしなかったが、夕食にも好きなものに混じって、弁当の中身だったと思われるものが並んでいたことを思い出した。

 母はどうやら、昨日、楓が弁当箱を忘れていったことを相当根に持っているらしかった。

 楓は。帰ってきたら何よりも早く、お弁当が美味しかったと伝えようと心に決めた。

「はい。こっちは向日葵ちゃんの分」

「いいんですか?」

「もちろん。二箱でよかったのよね」

「はい! ありがとうございます!」

 いつの間に打ち合わせをしたのか、しっかり分量を理解していた母が向日葵にも弁当を渡した。

 楓は思わず、

「えっ」

 と声を漏らしていた。

「え、じゃないわよ。娘が彼女さんにお弁当食べさせてもらったのにお返ししないのは悪いでしょ。本当なら楓が作るべきだったんじゃなぁい?」

「コンド、ツクッテアゲルネ」

 料理に自信のない楓はカタコトで言葉を並べた。

「本当に?」

「ウン」

「やったー」

 目の前で跳ねて喜ぶ向日葵の様子に、ものすごく胸で黒いものが渦巻くような罪悪感を抱きながら楓は、

「ははは」

 と語りだけ笑った。

「しっかり鍛えてあげるわ」

「精進します」

 楓は一瞬、記憶をチラ見するとこれまで料理をしたこともあり、特別苦手な様子はなかったため、大丈夫だろうとたかをくくった。

 ホッと胸を撫で下ろし、向日葵の目を見つめる。

「じゃ、行こっか」

「うん。行こう」

「いってきまーす」

「いってらっしゃい」

 二人で同時に声に出すと、母の言葉を背に受けて家を出た。

 朝の日差しを受け、楓は手を額に当てた。日差しが眩しく、反射的に目を細めていた。それから周りを見回したが、まだ見知った顔は見当たらなかった。

 今の二人は揃ってポニーテールをして、同じ家から出てきているのだ。

 楓としては見知らぬ人に姉妹と勘違いされるならいいが、クラスメイトに見られたら何を言われるかと内心でヒヤヒヤしていた。

 向日葵と一緒なら大丈夫だとは思ったが、何か言われるなら家を出てすぐよりも、もう少し覚悟ができてからがよかったと思っていた。

「いつもと違うルートで行ってみない?」

 向日葵の提案。

「いいよ」

 間髪入れず答える楓。

 向日葵は、

「元気いいね」

 と返し、二人は歩き出した。

 楓が即答したのは、元気の良さからではなく、ただいつも見ている風景を見たくなかっただけだった。

 歓太郎と遭遇した日には脳がオーバーヒートして、その場で固まってしまうことが目に見えていた。

 そのため、登校の間ゆっくりと向日葵とだべっていられたことが、楓にとっては何よりも嬉しく感じられ、いつもよりも笑顔がはじけていた。


「おいぃ!」

 ガラガラと勢いよく教室のドアが開けられた。

 一瞬にしてクラス中の視線が訪問者へと集まった。

 時刻はもうすぐホームルームだが、まだチャイムは鳴っていないため、ホームルームの時間でないことは明らかだった。

 しかし、声の主は教室に入ってきた。

「おいおいぃ!」

 再びあげられた叫びは楓に向けられており、声の主は怒りの形相で楓に向かって走ってきた。

 とうの楓本人はというと、気にも留めず、というより、気に留めていないフリで教室のドアや訪問者から目をそらし、向日葵と会話を続けていた。

 だが、笑顔は硬く、気づいていることは傍目からもわかった。そして、そんな態度も目の前で机を叩かれては続けられなくなった。

「楓! おかげで遅刻するところだったんだぞ!」

「ご、御愁傷様?」

「ふざけるな。俺は今日も待ってたんだぞ。それなのに、転校生と登校したってどういうことだよ」

「な、なんで知ってるの!?」

 楓はせっかくバレずに済んだと思っていったため素っ頓狂な声を出し、勢いよく立ち上がると聞き返した。

 急に大きな声を出して顔を近づけてきた楓に、歓太郎は一歩引くと、冷めた調子で再び口を開いた。

「楓の母さんに聞いたんだよ」

 意外な答えに今度は楓が身を引き、席に座った。

 歓太郎は楓の家まで行ったわけだ。

 これはいい機会だと思い、楓は口を開いた。

「だから僕は、速水くんは自分のルートで行きなっていつも言ってるよね」

「おう。だが、俺は……」

 歓太郎は言葉を探すように口籠もった。

 だが、すぐに何かを思い出したように顔を上げた。

「いや、それより、転校生と行くなんてどういうことだ? 俺への当て付けか? 嫉妬か? せっかくなら一緒に行ってもよかっただろ。どうして今日に限っていつもの道じゃなかったんだよ」

「どうしてって聞かれたら、初めてだから記念に?」

 楓は小首を傾げて向日葵を見た。向日葵は軽く頷いたため、歓太郎にもわかっただろうと楓は歓太郎に視線を戻した。

 しかし、歓太郎は額に血管を浮き上がらせ、顔を赤くしていた。

「そんなことで!」

 歓太郎は楓の言葉で憤慨したように両掌を上向けると、指に力を入れた。

 まるで真の力でも解放しそうなそのポーズを見れば、歓太郎が激しく怒りと同時に、どうにか物にぶつけないように葛藤しているように楓には見えた。

 そんな歓太郎の様子を見ても、楓には朝から歓太郎がこんなに怒声をあげている理由がわからなかった。

 その代わり、楓は恐怖を感じていた。これが肉体の違いによる差かとまざまざと感じた。

 今朝も楓は外を歩いているだけで、自分が男性からの視線にさらされていることを自覚していた。

 自分もそれだけ見ていたのだと反省すると同時に、常に値踏みされるような視線にさらされることへの恐怖を抱いたのだった。

 それが、今は、男の時には感じなかった別の恐怖にさいなまれていた。

 いや、男の時でも感じられただろう。自分よりガタイのいい人物が目の前で怒っていたら誰だって怖いはずだ。

 そんな、子供の時なら誰でも感じていた恐怖を楓は成長とともにどこかへ置いてきてしまったらしかった。

「……」

 今の楓は声も出せなかった。ただ、口をぱくぱくと開閉することしかできなかった。

「あのさあ、速水くん。もう少し落ち着いてくれないかな? 楓ちゃんが怯えてるよ」

 助け舟を出したのは向日葵だった。

 歓太郎もそこで、周りを見回し、自分が視線を集めていることに初めて気づくと、頭をかいて笑みを作った。

 深呼吸をし額に浮かび上がらせていた血管も収め、怒りを沈めたことが外見からもわかった。

「悪い。熱くなっちまってた。こんな怒り散らすつもりじゃなかったんだ。悪かったよ。楓。夏目さんも」

「うん。わかってるよ」

「楓ちゃんもわかってくれたみたいだよ。まあ、ちょっと頭を冷やしな」

「おう」

 歓太郎は自分の席へ戻っていった。

「……くそっ! 今まではいい感じだったはずなのに……」

 去り際につぶやいた歓太郎の言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。

 向日葵は軽く手を振ってその背中を見送った。

 楓は歓太郎が席まで戻ると、すぐさま向日葵の腕にしがみつき、肩を震わせ、嗚咽を漏らした。

「よしよし」

 向日葵は楓の頭を撫で、背中をさすった。向日葵の何気ない行動が楓には嬉しかった。今の楓は安心感がほしかったのだ。そうして撫でられていると、少しずつ落ち着きを取り戻し、呼吸も安定していった。

 楓は今の一件はいじめではないとわかっていた。双方取り乱してしまったが、ただの日常的ないざこざだろう。だが、楓自身としては、自分がどれだけ男であるというだけで安穏として生きてきたのかを思い知らされた出来事となった。

 そして、それから歓太郎は話しかけてこなくなった。

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