三日目――迷宮(7)
先述したように、平時におけるモイの装備は短剣のみである。だが、今は短剣のほかにも羽と戦うために鎖鎌を手に持っていた。まもなく、モイと羽との交戦がはじまる。モイならば羽を一人で撃破することも可能であるが、それではほかの下人たちの練習にはならない。適度に攻撃をしながらボクノヤミが来るのを待つ。ほどなくして、ダヨトによって選ばれた下人が控えの下人と変改するために安全地帯へと戻って来た。本来、この下人はモイと変改する予定であったが、すでにモイはネミガナと変改してしまっている。一瞬、想定外の状況に眉をひそめたが、ボクノヤミに事情を説明されると納得した様子でうなずいた。
バシハが口を開く。
「オウギ、あとでいいからボクノヤミにも今の状況を伝えてくれ」
バシハはオウギの異能が安全地帯まで届くとは思っていなかった。だからこその発言である。だが、オウギは自身の異能が安全地帯まで届くことをなんとなくではあるものの理解していた。ゆえに、オウギは「うん」という返事の直後には詠唱を開始していた。
「大いなる存在に謹んで乞う。黄昏を抱く柚子、希う棗――嵐影湖光。戯れに聞き開き給え――下人はオウギ、《拡声器》」
驚くバシハをよそにオウギが尋ねる。
「伝える内容は?」
「あっ……ああ。さっきと同じで構わねえ。モイが中央で交戦していることだけ伝わればボクノヤミなら理解するさ」
うなずいたオウギがボクノヤミに向かって口を開いた。
〈オウギです。モイさんが中央で羽と戦っています〉
つかの間、驚いたように目を丸くしていたボクノヤミであったが、次いで、うれしそうにほくそ笑んだ。ボクノヤミはジウホウミョたちと違って《拡声器》の有効範囲を直接確認したことはない。初日にウノカが説明したのを聞いたのみである。だが、かなり広範囲に有効であろうとは予測していた。ふつうに喋れば声が届くような距離にしか使えないのであれば、異能としての意味合いが弱いからである。そして、その予想は見事に的中した。櫓の位置が戦闘地帯の中ほどにあることはすでに見ている。櫓から安全地帯にまで届くのであれば同様に戦線にまで届くことにも疑いはない。ゆえに、仮にオウギを指揮官にすることができたならば不測の事態に対処することが今よりも格段に易しくなることは明らかであった。ボクノヤミの笑みはそれを理解したからこそのものである。無論、バシハも指揮官という立場ではなく、もう少し今日の挑戦に対して客観的に臨むことができたならば《拡声器》の効果範囲が意味するものに気がつけたに違いない。だが、そうではなかった。オウギの異能を目の当たりにしてもバシハが抱いた感想は「オウギの異能は意外と便利だ」という至って平凡なものだけであった。
ボクノヤミの近くにいたギラクサが不敵な笑みを浮かべたまま動かないボクノヤミを訝しげに見つめ、そんなギラクサの視線に気がついたボクノヤミが咳払いを一つしてから口を開いた。
「失礼、ちょうど今しがたオウギから連絡を受けまして……。驚きました、こんなにも明朗に聞き取ることができるんですね」
息を吸うように嘯くボクノヤミに対し、ギラクサは「そういうものか」と深く考えずに納得した。間を置かず、ボクノヤミが中央の経路へと向かって走りだす。モイが羽と交戦している場所までたどりつくと、羽の攻撃を躱しつづけるモイを横目に時間を合わせて異能の詠唱をはじめた。
「大いなる存在に伏して祈る」
最初の一節を唱えると、すぐさま西側の経路へと向かって駆けだしていく。できるだけ詠唱の速度を落として一節ごとの時間を目いっぱい使い、現場に到着すると同時に異能の内容が成就するように調整していく。
「労う梅雨――最果ての孔雀蝶、縁を結んだ一里鐘。紫電清霜――和やかに実る稗。威厳――これをもって業とする」
詠唱が終了するやいなや、異能の内容が成就する。《威厳》の効果は一定範囲内における魔物の最優先攻撃目標を自分自身へと変更するものである。言うまでもなく、一定範囲内の対象は最初の一節を唱えた時点で決定される。もちろん、今回の対象は現にモイと交戦している羽にほかならない。
ぎしゃあ。
憤怒に燃える羽が激しい威嚇をして顔の向きをモイから変えた。自分の体が戦闘地帯の壁にぶつかるのも気にせずにボクノヤミへと向かって突っこんでいく。その後ろからモイが懸命に羽を追った。無論、モイ一人であっても羽を誘導すること自体はできただろう。ただし、その場合には多少の危険を冒さなければならない。先述したように、羽は下人たちと違って移動可能な部分が多いので、下人側が壁を迂回している間に羽から不意打ちを食らうことがないとは言えないのだ。今日の挑戦にボクノヤミが参加している以上、そのような冒険をわざわざする必要はない。
ボクノヤミが自身の頭上で大きく手を叩く。周囲の注目を集めると、その場の下人たちを安心させるように穏やかな声で口を開いた。
「みなさん、一度落ち着いて。焦らないでください、もう大丈夫です」
その一言で、羽を逃がしてしまったという事態に浮足立っていた下人たちの動揺が急速におさまっていく。絶大な信頼――それを裏打ちする実績、どちらもモイにはないものである。周りの下人たちを的確に導いていくボクノヤミに向け、遅れて現場に到着したモイが熱っぽい視線を送った。モイがボクノヤミを尊敬していることは自他ともに認めるものであるので無理からぬことではあったものの、その視線に込められた情熱は憧れと呼ぶには些か艶やかなものであった。
羽の攻撃。それをボクノヤミは難なく受け流すと、下人たちに打ちかけるように命じる。そのそばでモイもまた下人たちの手助けをするように短剣を振るっていた。




