第4章 episode1『花街の妖力者』 〜月照〜
初めて人を喰らったのは、12歳の秋のことだった。
学校の体裁ばかりを気にかけていた、キンキン声の中学校の教頭先生。
あたしが受けたイジメと、上級生からの性的暴力を、すべてもみ消そうとした。
先生の内から湧き出る、どす黒い感情が見えた時。
自分の心臓が冷たくなっていくのが分かって。
喉がカラカラに乾いて。
彼の欲心をすべて飲み干さなければ……という衝動にかられた。
放課後の指導室で、あたしは何も言わずに両手を伸ばすと、教頭の耳を正面から塞いだ。
恐怖で青ざめる顔をじっと覗き込みながら、直接、脳みそに掌を這わすみたいにして。
ゆっくりと。でも、しっかりと。
彼の脳内にあるものを、ゴクリゴクリと飲み込んでみる。
身体が熱い。そしてとても気持ちいい。
心と体に広がるこの満足感は、
『長く愛されて達したあとに、冷えたミネラルウォーターをいっきに飲み干す』
という感覚に、どうやら似ているらしいのだけど……。
ともかく、その場に倒れこんだ教頭は、埴輪みたいに口をポカンと半開きにして。
今まで生きてきた道も、これから進もうとしていた道も。
「分からなくなった」とだけ、人形のように繰り返し呟いた。
そしてあたしは、やっと思い出す。
自分が『人の記憶』を喰らう、『妖力者』と呼ばれた存在だったことを…………。
「ほらぁ。早く来いやぁ。ほんまに、あんたはしんきくさい」
黄昏時の、京都祇園。お茶屋さんの門前で。
ぼんやりと空を眺めていた月照は、姉さん舞妓にそう強く促された。
中学を卒業して、本格的に花街での仕事についてから半年。
もともと少しテンポのずれた性格がゆえ、忙しい時間にこんなふうに厳しい言葉を投げつけられるのは、すでに日常だ。
「あい。すんまへん…」
だらりの帯を揺らしながら、後を追いかけ。小さく頭を下げる。
4つ年上のベテラン一竹は、呆れたようにわざとため息を落とし。
「今晩のお客さん、あんたをご指名やからって。調子にのってはるん?」
と、こちらを斜めに見下した。
またか……と月照は思う。
見習いとして下についてから、ずっと。何が気に入らないのか、彼女の態度は常に厳しいものだった。
言葉がなっていない。踊りがなっていない。
そう言われるのは仕方ないとして。
男に色目をつかいすぎだとか。猫なで声が不愉快だとか。
細かいことにまで注意を受けた。
でも上下関係が厳しいこの世界で。
見世出し間もない月照が、口答えできるはずもない。
だから……
一竹から滲み出るどす黒い憎悪が、いっぱいになって器から溢れ出すのを。
ただ、静かに待っていた。
「お座敷でじゅんさいなことされたら、かなわんは!」
つり上がった目の奥に、月照にしか見えない負のオーラがゆらりゆらりとしているけど……。
まだ……足りない。
まだ……飲み干すことは、できない……。
そろそろ、ノドが乾いてきたのにな……………。
そんなむず痒さを抱えていた時だった。
お部屋に上げられてすぐ。
いつもひいきにしてくれるお客様から、この男を紹介される。
「いやー! 確かに、べっぴんさんや! あどけなさが残ってるとこが、また可愛いのぉ!」
ペタッとした黒髪と、丸い眼鏡がスケベな。小柄な50代半ばのおじさん。
女をペットのように扱う、成金社長といったところだろうか。
「月照ちゃん、よう顔を覚えてもらいーやー。ここら一体に大きなビルをぎょーさん持っとる、お偉いさんや!」
お得意さんに手を引かれて、畳に膝をつく。
「おいでやす」
無表情にそう呟いてから、男の目を覗き込んで。
すぐ、気付いた。
甘く香る黒い蜜が、ダラダラと流れ出している………。
どれだけの人を蹴落として、頂上へ登りつめたのだろうか。
その過程で、どれほど酷な仕打ちを与えてきたのだろうか。
それでもまだ、何かを欲し続けている……。
『理性』という蓋がすでに外れてしまっている、『欲心』という名の器からは。
妖力にも似た濁ったオーラが、まるで誘うかのように次々と溢れだしていた。
「花街に行けば、たくさんの人間を喰らえるさ」
そう言って舞妓になるよう勧めてくれた、あの方のことを思い出す。
うん。本当にその通りだ。
ここは何て、美味しそうな人が集まる場所なんだろう……。
月照はペロリと舌なめずりをした。
16歳にも足りない、夜の街で舞う美しい娘が見せたその仕種を。
男はどう、受け止めたのだろうか。
ゴクリと生唾を飲み込むと、その場で人払いをして。
月照だけに酌をさせた。
「ワシは金にはいとめはつけんで。社長と名乗っとる、ゴロゴロいるそこらの男とは格が違うんや」
「あい」
「今日も、仕事で東京までいっとった。今度は嵐山で、珍しい天然石を集めた展示館を開くんや。これがまた、えらい儲かる話でな」
「あい」
「もちろん、宝石もぎょーさん揃えとるんでー。欲しいもんがあったら、いくつでもくれたる」
「あい」
「ワシが、お前の『旦那』になってやろか。ん、どや?」
「…………」
後ろから肩を撫でるように抱いて、白い手をこねくり回すみたいに触ってくる中年男。
傲慢で。厭らしくて。自分勝手で。
こういう輩を見ていると、飽きあきせずにはいられない。
人間というものは何故こうも、特別になりたがるのだろうか……。
月照は眉1つ動かさずに、口元だけで微笑んで。
「…こんばん11時に。どんつきまがった町屋のうらてで、お待ちしてはんどす……」
そう艶めいて、男を誘った。
もちろん、喰らうために………………。
そして人気のない路地裏で、静かに男の記憶を飲み干した。
いつものように両手を脳に這わして。
青白い満月の光を背中に感じながら、この甘美なひと時を堪能する。
しばらくして、人形みたいに膝から倒れこむ男。
ほどけて散らばった彼の荷物から、桐の箱に入ったコブシほどの石が音をたてて転がり落ちた。
おこぼにぶつかって、小さく跳ねたソレに。
月照は導かれるかのように、細い手を伸ばす。
「………」
夜の闇で、赤く、鋭く光る、ゴツゴツとした石。
何だか惹かれてしまうのは、どこかあの方に似ているせいだろうか………。
「…キレイ……」
両手ですくい上げたそれを、月明かりにかざしながら。
月照は嬉しそうにニコリと笑うと。
そっと着物の袂に隠して、置屋へと身をひるがえした。
<続く>
今までご覧頂きありがとうございました☆
この作品は推敲を重ね、『赤い鎖』というタイトルで書き直すことを決めました。
設定など多少変更しておりますので、新しい物語としてまた読んで頂けると嬉しいです。
引き続き、どうぞよろしくお願い致します。(2010.2.2 椎名つぼみ)