金魚姫
「私というものがありながら浮気するつもりなんだ」
その日はうだるような暑い夜だった。
夏祭りに来ていた僕は突然声を掛けられて思わずびくっと肩を震わせる。
「あ……」
と思った時にはもう遅かった。
その反動で手にしていた金魚すくいのポイが破れてその空いた穴からスルリと抜け出すように金魚が元の水槽へと戻っていく。
金魚すくいの屋台のおじさんが「いやぁ、惜しかったね」と言うのに僕は破れたポイをおじさんに渋々返した。
去年の夏祭りでは金魚すくいでうまく金魚をすくう事が出来たから今年もと思ったのに失敗してしまった。せっかくのお祭りなのに幸先の悪いスタートだ。
でも、今のは僕が失敗したというよりも急に声を掛けられたからだ。僕は立ち上がると恨めしいものを見るように隣で僕の手元を覗き込んでいた子を見る。
そして思わずドキっとしてしまう。
すごく可愛い女の子だった。おかっぱの黒髪に赤い着物がとてもよく似合っていた。
「えへへ、残念だったね」
残念と言いながらも、とても嬉しそうに笑っている。
近所にこんな子いたかな。少なくともうちの小学校では見た事がないけど。
僕がジロジロと見ていたからだろう。彼女は照れたように顔を赤くすると着物の裾を摘みあげると、
「どうかな、この赤いおべべ。似合ってるかな?」
上目遣いでこちらを伺うように訊ねてきた。
「おべべ?」
「べべは着物の事だよ」
子供用の着物の事をべべと呼ぶ事があるのだと教えてくれた。
「で、似合ってる?」
そりゃ、似合ってるかと訊ねられれば、
「似合ってる……と思うけど」
「けど?」
女の子の服装について感想を言うという状況に気恥ずかしさを覚えて、僕が口籠もっていると、彼女はずいっと覗き込むように身を乗り出してきた。
「もぅ、君ってはっきりしないよね。似合ってるの? 似合ってないの?」
「似合ってる。すごい似合ってる」
僕が慌てた口調で言うと、赤いべべの女の子はほっとしたように胸に手を当てた。
「よかったぁ。似合ってないって言われたらどうしようかと思っちゃったよ」
そう言うと、彼女は僕の手を取った。
「ね、どこから見て回ろっか?」
「どこからって、一緒に行くの?」
「当たり前でしょ」
当たり前と言われても、何が当たり前なのかさっぱりわからなかったが流されるままに赤いべべの女の子と一緒に夏祭りを見て回る事になってしまった。
よくよく考えると金魚すくいの時の文句をまだ言ってなかったが、射的や輪投げのお店で楽しそうにする彼女を見ているうちにそんな事はどうでもよくなっていた。
「よう、そこの僕。もう一回挑戦してみないかい?」
そして再び金魚すくいの前を通った時、屋台のおじさんに声を掛けられた。
確かに先ほどは失敗してしまったけど、もう一回挑戦してみてもいいかも知れない。そう思って金魚すくいの屋台の方へと引き寄せられそうになった時、ぎゅっと服の袖を掴まれた。
「金魚すくいはだめ」
「え、なんで」
リベンジが、と未練がましく金魚が泳ぐ水槽をちらみしていると、赤いベベの女の子がどこか悲しそうに僕を見た。
「そんなに新しい金魚が欲しいの?」
「いやまあ……」
僕は少し困ってからふと気がついて彼女を見る。
「新しいって、なんで僕が金魚を飼ってる事知ってるの?」
「そ、それは……」
赤いべべの女の子が顔を伏せる。
金魚を飼っているというオーラが出ていたのだろうか。どうして彼女が僕が金魚すくいをする事をそんなに嫌がるのかわからなかったけど、頭の中に一つの事が引っかかっていたのは確かだった。
「実は去年の夏祭りの金魚すくいですくった金魚が家にいるんだけど、やっぱり一匹じゃ寂しいんじゃないかと思って」
「そんな事、私望んでない……」
「え?」
「君ってば、私の気持ち全然わかってないんだから。君のばか。私は君が居てくれるだけでいいんだよ。いつもご飯をくれたり、学校から帰ってくる度に声を掛けたりしてくれるだけで幸せなんだよ。たまに給食のパンを残して持ってきてくれる君が大好きなんだよ。新しい金魚なんて……、新しい金魚なんていらないんだから――――」
そう言い残すと、赤いべべの女の子は目に涙を浮かべて走っていってしまった。
僕は一体彼女が何を言っているのかわからなかった。
彼女の話しぶりはまるで――。
「僕、金魚すくいはしないのかい?」
金魚すくいの屋台のおじさんに声を掛けられてはっとする。
「あ、今はちょっとそれどころじゃなくて。ごめんなさい」
金魚すくいの屋台のおじさんに断ると急いで、僕は赤いべべの女の子を追いかけた。
息を切らして走ると、彼女は夏祭りの端の人通りの少ない丘に立っていた。
僕がやってきた事に気がつくと、気まずそうに着物の裾を握り締めて目を逸らす。僕はそんな彼女に歩み寄ると思いきって切り出した
「君は何者なの? なんで僕が金魚にしてる事を知ってるの? もしかして――」
我ながらおかしな事を思っていると思う。もしかして、僕の飼っている金魚なんじゃないかなんて思っているのだから。
「そうだよ」
しかし、僕が訊ね終わる前に赤いべべの女の子が小さく頷いた。
「そうだよって、本当に?」
僕が確認するように言うと、今度ははっきりとした口調で赤いべべの女の子が言った。
「うん、私は君が飼っている金魚。金魚の神様にお願いして今日のこの夏祭りの間だけ人間の姿にしてもらったの」
「じゃあ……」
本当に金魚なんだ。僕が驚きに目を丸くしていると自分の事を金魚だと言った赤いべべの女の子は頬を膨らませて顔を近づけると、
「本当は、あんな事言いたくなかったんだよ。君が他の金魚に浮気しようとするから」
「いや、それは……」
僕がしどろもどろになっていると、赤いべべの女の子がおかしそうに笑った。
「私の事を思ってくれてるって事はわかったからいいけどね。私は全然寂しくないよ、だって君が居てくれるんだもん」
そう言うと、ふぅと一息をつく。
「本当は、あんな事を言う為じゃなくて、神様に頼んで人間にしてもらったのは君にお礼を言いたかったからなんだよ」
「お礼?」
「そう、お礼だよ。去年の夏祭りで私をすくってくれてから今日まで私の事を大切に世話をしてくれたお礼。可愛がってくれて本当にありがとう」
改まってそう言われると、なんだか照れる。
「君にすくわれてお持ち帰りされちゃった時はどうなる事かと思ったけど」
そして、お礼の後に悪戯っぽく付け加えた。
その言い方はちょっとどうかと思うけど……。
「あ、花火」
その時、ドーンという音と共に夜空に色鮮やかな花が咲いた。
次々と打ち上がる花火を二人で見上げていると、赤いべべの女の子が眉を下げて僕を見た。
「そろそろ時間みたい」
「時間?」
「うん」
どこか残念そうな彼女の表情を花火の色鮮やかな光が照らし出している。
僕がどういう事かを訊ねると、赤いべべの女の子はどこか繕うように笑顔を浮かべた。
「神様に人間になれるのは花火の時間までって言われてるの。もう私金魚に戻らなきゃ」
そう言うと、僕から少し距離を取る。
「今日は君と夏祭りを見て回れてとっても楽しかった。これからも私の事大切にしてよね。それと――」
一際大きな花火が打ち上がった。
「君がどうしても他の金魚も欲しいって言うなら私には止められないけど、出来ればこれからも私だけを見てほしいな」
空を覆う鮮やかな光に一瞬、目を奪われる。
それから視線を戻すと、赤いべべの女の子は消えていた。
「あの子……、本当に金魚だったのかな」
それからお父さんとお母さんが迎えに来て夏祭りから家に帰ると、真っ先に金魚鉢を確認する。
僕が金魚鉢を覗き込むと、鮮やかな赤い鱗の可愛らしい金魚がツンとそっぽを向けながら照れたように時折チラチラとこちらを伺っては落ち着き無く尾ひれを揺らしていた。