08話 いい湯だな
「ポチャ」
水滴が天井から落ちて顔にあたる。
「冷たッ」
翼は湯船に浮かんでいた。両手を広げ天井を見つめている。首には鉄の首輪がつけられていた。あれから二ヶ月が経とうとしていた・・・
驚く程に普通の生活を翼は送っていた。あれ以降はみう達に理不尽な対応をされる事は全くといっていいほどなかった。食事も豪華なものではないが三食ちゃんと出ている。
みう達はこの世界で冒険者ギルドに所属していると言っていた。それは全くの嘘ではないようだが裏では奴隷商を営んでいて奴隷の売買で多額の利益を得ているようだった。
翼はこの二ヶ月の間にみうと屋敷のメイドから奴隷としての仕事の作法やマナーをみっちりと仕込まれた。だがそれ以外の時間は特になにもせずに割り当てられた部屋でボーと日々を過ごした。いやもちろん毎日のようにここから逃げることを考えていた。しかし捕まってもう一度あのような目にあわされるかもしれないと思うと恐怖で体がすくんでしまい結局今日まで逃げ出せずにいる。
翼はものごとを意識的に深く考えないようになってしまっていた。考えることから逃げ出していた。そしてその理由を自分で作りだすようになっていた。
「言うても不自由のない生活をしているじゃないか もうそれでいいじゃん」
そう自分に言い聞かせた。そんなこんなでもう二ヶ月・・・しかしここの生活も今日で終わりだ。
明日になったら翼は王都に行く。そこでボクはオークションにかけられるらしい。今日で最後なのでゆっくりお風呂に入って身体を綺麗に整えるようにと伝えられた。
「逃げるなら今夜しかない・・・」
翼は頭の中で自分に言い聞かせる。
「逃げなくちゃ 逃げなくちゃ 逃げなくちゃ」
なんとか自分を奮いたたせようとする。
「どうせ 失敗するよ」
自分の中のもう一人の翼がそう呟く。
「失敗して 捕まって また牢にいれられるよ もう1度 あんな目にあうのかい?」
「いや 見張られてもいないし 拘束もされてない 逃げれるはずだ 」
もう1人の翼が反論する。同じような会話を心の中でこの二ヶ月間ずっと繰り返してきた。でももう今日しかチャンスはない。ボクはこのままでは一生をこの世界で奴隷として過ごすことになる。そんなのは絶対にゴメンだ。今しかない。明日になったら王都に連れていかれる。夜になったらここを抜けだそう!
やっと翼は決意を固める。
「ガチャ」
物音に反応して全身に強い緊張が走る。動悸が激しくなり胸が苦しくなる。更衣所に誰かが入ってきた!?
ヒロだ。ヒロがまたボクを襲いにきたんだ。翼は湯船から慌てて立ち上がる。胸をおさえる手は震えが止まらない。体を恐怖が支配する。
「逃げなくちゃ」
でもどこに逃げる。足はカクカクして立つことすらおぼつかない。大声をだす?でももしかしたらヒロじゃないかも?
勢いよくドアが開けられる。
「翼さーん そんなところで突っ立って何をしてるんですかー?」
そこにはみうが立っていた。
「バシャーン」
翼の身体が湯船に沈んでいく。腰を抜かしてしまったのだ。水面にみうが見える。かなり慌てていて大声で叫んでいる。
「誰か来てくださーい 翼さんが大変なんです!」
引き揚げようとするが1人ではうまくいかない。翼は息が苦しくなってきた。
「ここで死ぬのか?」
最近何度も思っていることをまた思った。
「ボクはお風呂で溺れて死ぬのか・・・短い人生だった」
もちろん死ぬことはできずにメイド達に引き上げられる。
パジャマを羽織ったみうが翼の手を握りしめて大喜びする。
「もー 本当に心配しましたよ! 翼さんは私の大切な・・・大切な・・・奴隷なんだから 体は大切にしてくださいよー」
翼の中であの時のみうの言葉がリフレインする。
「逆らった絶対に許しませんから」
ガクガクと翼の手が震えはじめる。
「どうしたんですかー 翼さん 寒いんですか?早くバスタオルと服を持ってきてあげてください!」
みうがメイドに命令して取りにいかせる。
「やっぱり今日は逃げるのをやめにしようよ 王都に連れていかれる途中の方が逃げやすいんじゃない?」
恐怖から翼は心の中で妥協案をだす。
「うん そうしよう 王都に連れていかれる途中で逃げることにしよう」
翼はこの二ヶ月間と同じように逃げることから逃げることにした。
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朝が来た。翼は転生してきた時の服を着せられ髪をとかされ軽くメイクを施された。そうして首輪に鎖を付けられ手には手錠がはめられた。
「ほら 早くいくよ」
エリカが急に強く鎖を引っ張る。
「ゴホッ ゴホッ」
首が締め付けられ咳き込む。
「早く しろって」
乱暴に引っ張られて外に連れ出されて小太りで禿の下卑た笑いを浮かべる奴隷商人の前に引きずり出された。横にはガタイの良い護衛が控えている。後ろには馬車がある。
「翼さん 私 翼さんが居なくなることが悲しいです」
みうはそう言って翼に抱きつく。
「ビクッ!!」
翼の体がこわばる。みうは目に涙を浮かべている。翼は恐怖で体が震えるのを必死に抑えていた。みうの行動に突っ込みをいれたら駄目だ。考えるな。
翼は馬車に乗り込む。
「翼さん さようなら またいつか会いましょう 私は貴女のことを絶対に忘れません!」
そう言ってみうは馬車が見えなくなるまで大きく手を振り続けた。
これで第1章は終わりとなります。どうしても戦うことが出来ず逃げてしまう翼ちゃん。彼女の覚醒はもう暫くお待ちください!