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龍の如く駿馬の如く  作者: 九里瑛太
9/10

新しい母

 龍馬が楠山塾を退塾して、もうすぐ一年が経つ。

 しかし、当の龍馬は相変わらずマイペースな日々を、のんびりと過ごすのみだった。

 無論、乙女(とめ)による剣術の稽古と学問は続いていたが、そちらの方も進歩がない。

 そんな毎日の中、今日も龍馬はいつもの如く本丁筋をゆったりと気ままに闊歩していた。

「そうじゃ!これから長次郎の所で饅頭らぁ買うて、安田順蔵さんの所に行きよろうかのぉ…」

 思い付いたように、龍馬はポンと一つ手を突く。

 安田順蔵とは、安芸郡安田にいる長姉千鶴(ちづ)の夫、高松順蔵の事だ。

 順蔵は居合いを得意とし、その腕前は殿様から乞われ、披露する程の達人であった。しかも、そればかりか歌や絵も嗜む教養人でもある。

 そうと決まれば善は急げ、龍馬はまず、饅頭を買う為に大里屋へ向かう事にした。

 本丁筋をそのまま進むと、通りの向こうからやって来る平井収二郎の姿が見えた。少女と連れ立って歩いているようだが、収二郎もこちらに気が付いたらしく笑顔で歩み寄って来た。

「龍馬じゃいか!塾を辞めて以来じゃのぉ?あれから、変わりなく息災じゃったか?」

 久し振りの再会、収二郎は顔をほころばせ言葉を掛ける。

「お久しゅう御座います。あー、平井様も、お元気…息災であられられら…」

 上士である収二郎に対し、龍馬は精一杯かしこまった挨拶を試みるが、普段から使い慣れない言葉遣いにその先が続かない。

「もうえいちや!収二郎でえいち言うたじゃろうが」

 相変わらず、身分に囚われない収二郎に親近感を覚える龍馬であった。

「ところで収二郎さん、そちらの方は誰ですろうか?」

 収二郎の後ろに控え、こちらに視線を送る少女が先程から龍馬は気になって仕方がない。

「妹の加尾じゃ!」

「えぇ!?いも、妹ぉ…」

 驚きを隠せない龍馬は、思わず大きな声を上げてしまう。

「何ちや…そんなに驚く事ではないろう?」

「いやぁ…収二郎さんにこればぁかわいい妹がおったとは…」

「どう言う意味ぜよ?」

 二人のやり取りに、クスクスと加尾は笑い出す。

「兄より、予々龍馬さんのお噂はうかがっちょりました。まっこと噂通りのお人ながね」

 そう言って、加尾は再びくすりとほほえむ。一体、どんな噂話を彼女に聞かせているのか気掛かりではある。

「ところで加尾、龍馬にかわいい言われて平然としちゅうが、まさか当然と思うちょったがじゃないろうのぉ…?」

 収二郎が意地悪く言う。

「あっ…」と、思わぬツッコミに加尾は頬を赤く染め困惑する。

「よかったのぉ龍馬!加尾は、おまんにかわいい言われて、まんざらでもないようじゃ…」

 次に収二郎は、からかうように龍馬への冗談を口にした。

「収二郎さん、アシはそんなつもりで言ったがじゃないですき」

 今度は龍馬が困り果てる。確かに加尾は、端整な顔立ちにはんなりとした雰囲気の美少女だ。

「兄上、そろそろ…」

 そこへ、二人の話を遮るようにして加尾が口を挟む。

「おぉ、そうじゃった!」

 つい夢中になってしまったが、収二郎達は今、遣いの最中だったのだ。聞けば、父親の遣いで馬廻り乾正成の屋敷へと向かう途中なのだとか。

「馬廻り言うたら、しょう(非常に)偉いお人ぜよ…」

 龍馬の身分である郷士は、下士の一番上だが、馬廻りは収二郎の留守居組よりもさらに上の身分であった。

「龍馬、おまんも用事があったがやろう?」

 収二郎に問われ、龍馬はハッとなる。彼もまた、大里屋に寄り、高松順蔵の邸宅へと向かう途中だった事を思い出す。

 互いに別れの挨拶を交わし、龍馬と収二郎はそれぞれの目的地へと向かう。


 土佐湾沿いの街道筋を、龍馬はゆっくりと海を眺めながら進む。心地よい風が頬を伝い、潮の香りがほのかに漂う。

 お昼を過ぎた頃合いか、太陽が南の空で燦々と輝いている。

 龍馬は、この時になって『高松の家に行く』と書き置きを残して来るべきだった事に気付く。

「きっと、お乙女姉やんにこじゃんと叱られるがやろうのぉ…」

 帰宅後の心配をしても、今更である。龍馬は気を取り直し、順蔵の屋敷へと向かう。

 行き掛けに買った饅頭を我慢し切れず一つ頬張ると、何とも言えない甘さが口一杯に広がる。

「いやぁ…大里屋の饅頭は、堪るかぁ!」

 そうこうしている内に、龍馬は安田に辿り着く。目的地の順蔵の屋敷まで、もうすぐである。

 見覚えのある景色の中を進んで行くと、七歳下の甥っ子高松太郎と偶然に出会した。

「おぉ、太郎じゃいかぁ!元気にしちょったか?」

「あれ?叔父上、どういてここにおるが?」

 突然の龍馬の訪問、太郎は些か戸惑った様子で尋ねる。

「ちっくとの、みんなぁの顔らぁ見たくなってのぉ…ほい、土産もあるぜよ」

 ──と、龍馬は笑みを浮かべ、太郎へと饅頭を差し出す。

 二人は、そのまま談笑しながら順蔵の屋敷へと向かう。程なくすると、立派な門構えが出迎える。龍馬はようやく高松の邸宅に到着するのだった。

「母上、坂本の龍馬叔父が来たぜよ!」

 玄関越しに太郎が声を掛ける。すると、奥の方から驚いた様子の千鶴が姿を現す。

「龍馬さん、いきなりどういたがです?」

「はは…ちっくと姉上に会いたくなったがじゃ」

 屈託なくほほえみ、龍馬が冗談めかしに答える。

「ふふふ…いつから、そんな風にお世辞を言いゆうようになったがですか?」

 千鶴は意地悪く笑う。その笑顔が亡き母を思い出させる。年の離れた千鶴に、龍馬は昔から母への思慕に近い思いを抱いていた。

「ほんなら姉上、アシはまた縁側を借りますき」

 我が家のように不作法な振る舞いで屋内に上がると、龍馬はさっそく縁側へと足を運ぶ。

 屋敷の縁側から望む海の風景、打ち寄せる波の音や頬をかすめる潮風、龍馬はそのどれもが何より好きだった。ここから感じる大パノラマを堪能していると、心がゆったりと落ち着く。

「いやぁ、まっことえい風が吹いちゅうのぉ…」

 心地よく吹く潮風に、目を細めご満悦な龍馬。眼前に広がる太平洋が自分を大らかに包んでくれるような気持ちになる。

「まぁた、海を眺めちゅうが?まっこと、龍馬さんは海が好きながねぇ」

 毎度毎度、この屋敷に来る度、龍馬は縁側で海を眺め、ぼんやりと佇んでいる。よくもまぁ飽きないものだと、逆に感心するばかりの千鶴であった。

 果たして龍馬は、この海を見て何を思い考えているのだろう。


 さて、時間は経過し、西の空に日が傾き掛けた頃、坂本家では、家長の八平が家族を集め何事かを始めようとしていた。

「みんなぁ揃ったがか?」

 集まった顔ぶれを見渡す八平、ところが、この場に龍馬がいない事に気付く。自室は勿論、屋敷中くまなく探すが、やはり何処にも龍馬の姿は見当たらない。

 当然である。龍馬は、ふらりと高松順蔵の所へ遊びに出掛けてしまっているのだ。そうとは知らず坂本家では、乙女とやべが必死に近所中を探し回る。

「龍馬のヤツは、まだ見付からんがかえ!?」

 日が暮れても尚、龍馬が見付からない。八平は、心配で堪らない気持ちを抑え切れずにいた。

 外は、もうすっかりと夜の闇が辺りを支配する。

 そんな時だった。玄関の戸が、ゆっくりと開く音がした。

「た、ただいまぁ…」

 気の抜けた間のびする声、どうやら、ようやく龍馬が帰って来たようだ。

「龍馬、ただいまち言うて、おまんは一体、今まで何処に行っちょったがじゃ!?」

「まっこと、みんなぁしょう心配しちょったがですよ!」

 乙女とやべが、立て続けに龍馬へと迫る。それだけ心配していたと言う事でもあるのだが…

「安田順蔵さんの所で、ちっくと海を眺めちょりました…」

 にへらっと笑いながら、龍馬は奔放に言ってのける。何とも呑気な物言いに、二人は只々呆れ返るばかりだった。

「もうえいちゃ…父上が、お待ち兼ねぞね」

 乙女の一言に、龍馬はギョッとする。さすがに今日は、八平の厳しい小言が待っているのかと瞬時に頭をよぎった。

 足取りも重々しく、龍馬は乙女に従い、家族みんなが待つ団欒の場へと向かう。

 いよいよ障子が開き、中を見渡して行く。権平に千野、春猪らがすでに八平の前に座っていた。

 一斉に降り注ぐ視線の嵐、特に権平の刺々しいまでの視線が龍馬を捉えて離さない。

「龍馬…おまんは一体、何をしちゅう?何処に行っちょった!!」

 開口一番、権平は龍馬を激しく叱責する。途端、龍馬は居たたまれない気持ちで一杯になった。

「権平、今はもうえいき!乙女、龍馬、おまんらも、こっちに来て早よう座りぃや!!」

 怒る権平を遮り、八平は乙女と龍馬にすぐ座るよう促す。

 二人が座ったのを確認すると、八平は今一度、家族の顔ぶれを見渡し、ゆっくりと話し始めた。

「──実はのぉ…この度、アシは新しく妻を娶る事と相成ったがじゃ!」

 一瞬の沈黙が、その場を包む。そして、次の瞬間だった。

「えぇ───────っ!?」と、一斉に驚く一同。齢も五十を超えた八平が、新たに妻を迎えようと言うのだから尋常でいられる訳がない。

「父上、そ、それは本気ながですか?」

 疑いの眼差しで八平を見据え、権平は恐る恐る尋ねた。

「何ぜ?権平…おまん、異論でもある言うがかえ?」

「いやぁ…異論らぁ滅相もない!けんど、父上も、そのぉ…」

 言いづらそうに口ごもる権平、八平の高齢を考慮し、はばかっているのだ。

 大体、この歳で再び妻を娶ると言うのだから、権平や一同が困惑するのも無理はない。

「みんなぁ、ちっくとアシの話を聞きや…」

 動揺する家族とは裏腹に、八平は至って冷静である。そんな祖父と父のやりとりを、五歳の春猪は不思議そうに見詰めていた。

「お祖父様、妻を聚るが?」

 言葉の意味も分からず、春猪はにっこりとほほえむ。子供らしい屈託のない笑顔、八平も権平も、ついついほっこりとするが、今はそんな状況ではなかった。

「そうです!妻を聚るち言うて、一体、何処の誰を妻に迎えるゆうがですか?」

 改めて権平が尋ねる。まさか、いい歳をして若い娘に入れ込んだ末に婚儀の運びとなったのでは?などと、権平はよからぬ想像までめぐらせてしまう。

「権平…おまん、妙な考えらぁ、しちゃあせんろうのぉ?」

 図星である。権平は瞬時に顔をこわばらせ、視線を反らした。

「まぁ、えいちや!今から、きちんと話すき、よう聞きぃや」

 家族が疑惑の目を向ける中、八平は気を取り直して、ゆっくりと話し出す。

「名前は伊與ちゅうてのぉ、藩の御用人を務める北代平助殿の息女で、お城の女中らぁに槍の稽古を付けちょったそうながじゃ!」

 どうやら、相手の素性は申し分ないようである。権平は、自身の考えが杞憂であった事に胸を撫で下ろす。

「今回の婚儀、アシにとっては、まさしく良縁ぜよ!」

 いつもは寡黙な八平が、饒舌な話しっぷりだ。それだけ、相手の伊與を気に入ったに違いない。

「あ~そうそう…伊與は種崎の回船問屋川島家に嫁いじょったが、今は夫や子供とは死別したそうながじゃ…」

 祝福ムードへとなり掛けた場の雰囲気が、一瞬にして微妙なものに変わってしまう。何と、八平と伊與の二人は、互いに再婚同士だったのだ。

 しかも翌々話を聞けば、伊與は今回が三度目の婚儀だと言う。

 その事もあり、当人の希望で式などは一切執り行わず、坂本家へと輿入れするのだそうだ。

 父の重大発表のおかげもあり、龍馬が散々、家族に心配を掛けた事など完全に吹き飛んでしまっていた。

「アシは、こじゃんと驚いちゅうがよ!」

 龍馬は、父の部屋を出るなり乙女につぶやいてみせる。

「ウチじゃて、おんなじぞね」

 乙女にとっても、それは同様の驚きだった。まさか父が、新しく母を迎えようなどとは思いも依らなかった。


 それから数日が過ぎた──


 龍馬は川辺に座り、きらきらとたゆたう鏡川の水面をぼんやりと眺め佇んでいる。

「どんな人が、新しい母上になるろうかのぉ…」

 八平が再婚すると家族に発表して以来、龍馬は新しく母となる伊與の事ばかりを考えていた。

「お乙女姉やんみたいな人じゃったら、お仁王様が二人になってしまうぜよ!アシは、一体どういたらえいちや…あぁ───っ!!」

 考えれば考える程、悪いイメージが思い浮かぶ。龍馬は頭を掻きむしり、身悶えるばかりだ。

「お乙女姉やんが、一体どういたが?龍馬…」

 ──と、背後から急に声が掛けられる。龍馬は、驚きながらも声のする方へと振り返った。

「何ぜよ!琢磨かえ…」

 ホッと安堵の溜め息が漏れる。声の主は、元服を済ませ『数馬』から『琢磨』へと名を改めた従兄弟であった。

「おまんこそ、何ぜ?一人でブツブツ言いゆう思ったら、いきなり叫びよってに…」

「ま、まぁの…」

 自分の狼狽ぶりを琢磨に目撃され、龍馬は何とも言えない恥ずかしさが込み上げていた。

「そう言うたら、父上から聞いたぜよ!叔父上が今度、新しく嫁を娶るがやろ?」

 琢磨の父である代七と龍馬の父である八平は、実の兄弟だ。それ故、こうした情報の伝達は互いに早かった。

「アシは、最近その事で、ずっと悩んじゅう!学問にも、まっこと身が入らんちや…」

 ほとほと、困ったと言う様子で龍馬がつぶやく。

「何を言いゆう!おまんは、昔っから学問らぁ何ちゃあせんじゃったろうが?」

 およそ、学問とは無縁の龍馬、琢磨が突っ込みたくなるのも当然であろう。

「まぁ、おまんが潮らしいがは、まっこと珍しいけんどのぉ…」

 まるで、他人事のように言葉を付け加える琢磨だが、龍馬にしてみれば一大事の出来事なのだ。

「ウジウジ考えちょっても、仕方がないろう」

 さらに琢磨は言葉を重ねる。

 確かに彼の言う通り、決まった事をあれこれと思い悩むのはナンセンスなのかも知れない。

「そうじゃのぉ…もう、考えるがは止めじゃ止めじゃ!」

 塞ぎ込むのは、自分らしくないと龍馬はそう思った。

 そうと決まれば、龍馬はいつものように大里屋で饅頭でも買って帰ろうと立ち上がる。こうした、切り替えの早さが龍馬のいいところなのだろう。

「琢磨、おまんのおかげで気分が晴れたぜよ!」

 吹っ切れたような、何とも晴れ晴れとした表情を浮かべ、龍馬は鏡川を後にした。

 本丁筋へと戻り、大里屋の近くまで来ると、通りの向こう側から加尾が歩いて来る。収二郎の姿が見えないところをみると、今日は彼女だけのようだ。

 こちらに気付いたのか、加尾もにっこりとほほえみながら近付いて来た。

「き、今日は、収二郎さんと一緒じゃあないが?」

 少し、緊張した面持ちで龍馬が会話を始める。

「え、えぇ…今日は、ちっくと一絃琴を習いに行くだけやき…」

 まるで、つられたように加尾もぎこちない。

 それも無理はなかろう。龍馬と加尾の二人は、そのほとんどが収二郎を頼りに会話を成り立たせていたのだ。それが、今は互いに直接、会話を交わしているのだから緊張しないはずがない。

「い、一絃琴ゆうたら、お乙女姉やんも確か習うちょったぞ」

 加尾の言葉をヒントに、龍馬は閃いたように会話を紡いだ。

「お乙女姉やん?」

「おぉ!坂本のお仁王様ち言われちょってのぉ…こじゃんと大きいぜよ!!」

 どうにか会話が続き、気をよくしたのだろう、龍馬の饒舌ぶりに拍車が掛かった。姉の大きさを伝える為、龍馬は身振り手振りを交え表現する。

 そんな龍馬の姿に、加尾も堪え切れずに笑い出す。

「ウチ、お乙女さんの事、知っちゅうかも…」

 翌々、加尾の話を聞くと、彼女と乙女は同じ一絃琴の師匠に就いていた事が判明する。

「何ぜよ、加尾とお乙女姉やんは同門かえ?」

 龍馬は、この偶然を大層面白がって喜んだ。人懐っこそうに笑う龍馬を見ていると、自然と加尾の緊張感も解放されて行く。

「ところで、龍馬さんこそ今日はどういたが?」

 今度は加尾が龍馬に尋ねる。

「アシは、大里屋で饅頭を買う所ながじゃ!」

「そうなが?」

 嬉しそうに答える龍馬、自然と加尾も笑顔になる。

「加尾もどうぜ?」

「うぅん…ウチは、もう行きますき、また今度!」

 笑顔でそう言い残すと、加尾は一絃琴の師匠の元へと向かった。龍馬はただ、その後ろ姿をジッと見送るのみである。

「ふふふふ…フラれたがですね?龍馬さん」

 えっ?と思い龍馬が振り向く、いつの間にやら、長次郎がいやらしい笑みを浮かべ店の軒先に立っていた。

「フラれたちゆうて、アシはそんなつもりで加尾を誘うたがじゃないき、変な事を言いなや」

 釈明する龍馬だったが、長次郎は全く信じていないのか疑いの眼差しを向けたままだ。

「そう言うがやったら、龍馬さんの顔を立てて、今回はそう言う事にして置きます」

 龍馬にとって、何とも釈然としない引っ掛かる物言いである。

「もうえいちや!長次郎、いつもの饅頭をいくつか頼むぜよ」

 不機嫌そうに言うと、龍馬はぷいっとふてくされるような態度をとってみせた。その様子を見て、長次郎は笑いを堪えながら店内に消えて行く。

「全く、油断も隙もあったもんじゃあないぜよ」

 呆れ顔で龍馬がぼやく。

 少し待つと、饅頭を抱えた長次郎が再び龍馬の元に現れた。

「お待たせしました!」

「ほんだらの!」

 支払いを済ませ、龍馬は饅頭を受け取ると、さっさと大里屋を後にする。

 龍馬が屋敷の近くまで戻ると、何やら庭の方から威勢のよい叫び声が聞こえて来た。

「何ぜよ?一体どういたが…」

 まるで、叫び声に導かれるように龍馬は庭先をのぞき込む。

 すると、千野に乙女、まだ幼い春猪、そしてやべをはじめとした女中数人が勢揃いし、長刀を振るっていた。

「どういた事ぜよ?一体、何が起きちゅう!?」

 掛け声に合わせ皆が長刀を突き出す様は、さながら稽古のように統率の取れたものだった。そんな彼女達の前で、威勢よく声を出し音頭を執る女性がいる。

 凛とした佇まいの背中をこちらに向け、女性は尚も高らかに掛け声を続ける。

「まっことスゴイねや!あの人は一体、何もんぜよ?」

 癖のある坂本家の女性達、それを掛け声一つで見事に束ねる手腕に龍馬は俄然興味が涌く。

 ──と、次の瞬間だった。

「後ろに立つがは誰ですっ!?」

 気配を察した女性は、振り向き様に一閃、鋭い迅さで長刀を龍馬に向けて奮った。

 思わず後退り尻餅を着く龍馬、呆然としたまま女性の顔をジッと見据える。

 すると、女性はゆっくりと歩み寄り、にっこりほほえんだ。

「おまさんが龍馬さんかえ?」

 尋ねられるまま、龍馬は黙ってうなずく。

「ウチが、龍馬さんらぁの新しい母になりゆう伊與です」

「あ、新しい母上なが!?」

 何と、この女性こそが伊與だったのである。

 八平の話では、家にやって来るのは数日後のはずだったのだが、一体どうしたのであろう。

「龍馬さんらぁの話を八平殿から聞きゆう内に、早ようみんなぁに会いたくて、ついつい来てしもうたがじゃ!」

 そう言って、伊與は嬉しそうにはにかむ。

 龍馬は呆気に取られながらも、懐から何かを取り出し、それを伊與に差し出した。

「あ、あのぉ…こ、これ、お祝いですき、食べてつかぁさい…」

 それは、先程購入したばかりの大里屋の饅頭であった。

「あら、饅頭ながね?」

 饅頭を受け取ると、満面の笑みを浮かべ、伊與はそれをパクリと一口頬張ってみせる。

「うん、美味しい!ありがとう、龍馬さん」

 どうやら、伊與も大里屋の饅頭が気に入ったようだ。

 新しく母になる伊與と、共感できた喜びが龍馬を高揚させる。

 快活に笑う伊與、彼女はまるで夏の青空に一際まぶしく輝きを放つ太陽のような女性だった。

 そして、それと同時に爽やかな風を龍馬の心の真ん中へと運んでくれたような気がした──




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