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龍の如く駿馬の如く  作者: 九里瑛太
8/10

初めての学問

 乙女(とめ)によって、毎日繰り返される剣術と水練の稽古。その成果は、母の死から龍馬を次第に立ち直らせ、以前のような明るい少年へと戻しつつあった。

 そして今日も、坂本家の庭では龍馬と乙女が竹刀を合わせる音が鳴り響く。

「ほれ、どういた龍馬!?しっかりと打ち返して来ぃや!」

「打ち返せぇ言うたち…イタッ!?姉やん、もうちっくと手加減しとうせ!!」

 容赦ない乙女の打ち込み、龍馬は只々それを防ぐのみだった。

「龍馬のヤツ、元気になったがはえいけんど、相変わらず剣術はカラッきしながじゃのぉ…」

 縁側に出て、二人の立ち会いを静観する八平だったが、あまりに不甲斐ない息子の様子に溜め息が漏れるばかりである。

「お祖父様、まぁた難しい顔をしちゅう…」

 余程、険しく顔を強張らせていたのだろう。春猪が、心配そうに八平の顔をのぞき込む。

「どういた春猪?アシの顔が怖かったがか?」

 表情を柔和にし、八平は優しく孫に語り掛ける。

「お祖父様は、いっつも叔父上を難しい顔で見ちゅう…」

 その言葉に八平はハッとなる。確かにそうだ。末息子の不出来さを憂いるあまり、ついつい表情も厳しくなっていたのだ。

 幼いながら、春猪の洞察力には八平も舌を巻く程だった。

「叔父上は、いっつも叔母上と剣術ばっかりやき、ウチはまっこと詰まらんぞね…」

 四歳の春猪は、今まさに構って欲しい盛りである。特に八歳上の叔父龍馬と遊べないのが、不満で堪らないのだ。

「そうかえ、春猪は龍馬に遊んで欲しいがじゃな?」

 そう言われて、春猪はクリッとした瞳を輝かせながら嬉しそうに「うん」と、うなずく。

「乙女、龍馬、ちっくと休んだらどうながじゃ?」

 八平が声を掛けると、その声に反応するように龍馬と乙女は一旦立ち合いの手を休める。

「お言葉ですが父上、この後は水練が控えちょりますき」

 毅然と返す乙女、八平と言えど全く取り付く島がない。

「ね、姉やん。父上も、あぁ言いゆうがやし…」

「おまんは黙っちょき!ほんだらこれで!」

「イタタタタタ…」

 龍馬の言葉を遮り、乙女は彼の耳を引っ張って水練へと出掛けてしまう。八平と春猪、二人は只々それを見送る。

「ははは…春猪、祖父様が遊んじゃるぞ?」

「お祖父様、ウチも叔父上の水練が見たいがです」

 孫のおねだりに結局、八平達も鏡川へと繰り出す。

「龍馬!何ぞね、その様は!?もっとしっかりと泳ぎや!」

 乙女の檄に反し、龍馬は川面に浮こうとするのがやっとだ。

「ガボガボガボ…」

 剣術に続き泳ぎも全く冴えない龍馬、結局いつものように乙女に竹竿で引き上げられる始末。

「大丈夫かえ?龍馬」

 乙女が駆け寄り声を掛ける。

「乙女、龍馬はいっつもこんな調子ながかえ?」

 先程から、水練の様子をうかがっていた八平は、龍馬の不甲斐なさに驚きを隠せない。

「これでも、ちっくとは上達したがです!」

 しかも、乙女によれば、上達してこの程度である。こんな調子では、龍馬の先行きは不安ばかりが付きまとう。

 ここまで、息子の不出来ぶりを目の当たりにしては、八平も決断せねばなるまい。常々、考えていた事だが、剣術の素養がない龍馬には、もう学問しかない。

 とにもかくにも、八平は龍馬を塾に通わせ、学問の道を極めさせようと決心する。


 そして数日、龍馬は八平の部屋へと呼ばれていた──


「えいか、龍馬!おまんは小高坂(こだかさ)にある楠山塾に通うて学問を修めるがじゃ!」

 いつにも増して、厳しい表情で八平は龍馬に言い渡す。しかも、通う塾まで、すでに決まっている周到さ。

「が、学問ながですか!?」

 あまりに唐突な決定に、龍馬は只々驚くばかりだ。

「そうぜよ!さっそく、明日から塾に通うがじゃ。えいの!!」

 八平が強く念押しする。だが、龍馬は剣術以上に学問が大の苦手だった。事実、乙女の教える事が難し過ぎて覚えられない。

 それだけに、父のこの提案は、彼にとってまさに好ましくないものである。

「剣術の見込みらぁないがやき、おまんには、もう学問しか残っちょらんがぜよ」

「けんど父上、学問らぁすでに姉上に習うちょります…」

「おまんは武士の子ぞ!しっかりとした学問を塾で修めるがじゃ!えいの!!龍馬」

 最後の抵抗を試みるが、八平に龍馬の反論は、全くもって効果がなかった。結局、父に押し切られる形で、龍馬は城下小高坂の大善様町にある楠山庄助の私塾に通う事が決定した。

 楠山塾は、上士下士を問わず、広く門下を募る城下でも評判の塾である。漢学は勿論、蘭学や数式など、学問全般を教えていた。

「はへぇ…」

 八平の部屋から出ると、龍馬は虚空を見詰め、一つ大きな溜め息をつく。

「あぁ…アシは、一体どういたらえいがやろ」

 明日から塾に通わなければならない、そう考えただけで龍馬は、つくづく憂鬱になった。

「どういたがです坊さん?元気がないですよ」

 偶然、廊下を通り掛かるやべが声を掛けて来た。

「あぁ、おやべさん…アシは、しょう(非常に)困っちゅう!」

 ──と、今にも消え入りそうな声で龍馬は塾通いの一件を嘆く。そんな龍馬に、やべは笑顔で話し始めた。

「坊さんにも、旦那様や権平様とおんなじ坂本家の血が流れちゅうがですよ」

 だからこそ、龍馬も何れ八平や権平のように文武に優れた人物に成長すると、やべは言いたかったのだ。

 やべの励ましは嬉しかったが、龍馬は自信が持てなかった。今までの自分を鑑みれば、とてもそうは思えない。

 そんなモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、龍馬はついに翌日を迎える。

「あぁ…ついに塾に通う日が来てしまったちや」

 いよいよ塾初日の当日、龍馬の気持ちは重くのし掛かる焦燥感で一杯だ。

「朝から何を騒いじゅう?」

 不意に襖が開くと、そこに乙女が現れた。

「──ね、姉やん!?」

「『姉やん!?』ではないろうが!朝餉の支度が出来ちゅうき、早ようしぃや」

 龍馬が何故、浮かぬ顔をしているのか乙女は承知している。その上で、敢えてそれ以上の事は何も口にしなかった。

 当然、朝食の時も龍馬はうつむいたまま食事が進まない。すでに頭の中は塾の事で一杯なのだ。

 そして、食事もそこそこに龍馬は楠山塾に向かう事となる。

「えいか龍馬、しっかりと学問に励むがじゃ!」

 期待を込めて八平が見据えた。ところが、龍馬は父のこの視線をまともに受け止める事が出来ず、困惑した表情を浮かべる。事ここに到っても、龍馬は未だ塾に通う事が不安で堪らないのだ。

「龍馬、気張りや!」

 後押しするように、乙女が威勢よく龍馬の背中に喝を入れる。

「痛いちや、姉やん!もうちっくと手加減しとうせ…」

 そうぼやくと、龍馬は不安げな顔付きのまま玄関に向かう。

「叔父上、学問!学問!!」

 玄関では、自身が発する言葉の意味すら分からず、春猪がはしゃいでいる。

「春猪、行って来るきの」

 無邪気さ故に、無責任な春猪の声援が龍馬にはやり切れない。

 門を出る所で、今一度、玄関を振り返る。すると、家族みんなが期待を込めた眼差しで龍馬を見送っていた。

「ふぅ…」

 一つ溜め息をつき、龍馬は重々しく歩き出す。楠山塾がある小高坂は、龍馬の家からも程近く、幼馴染みや知り合いも多い。

 そんな場所へ学問を習いに行くのだ。顔見知りに出会わないはずなどない。

 龍馬が鬱々とした気分で歩いていると、案の定、幼馴染みの望月清平、亀弥太の兄弟、それに池内蔵太と出会(でくわ)した。

「おぉ、龍馬じゃいかぁ!どういたがじゃ?」

 清平が、ニコニコと人懐っこそうな笑顔で近寄って来た。

「何ちゃあ、ありゃあせん」

 清平とは対照的に、龍馬はやや無愛想に返答する。

「何ちゃあない言うて、何処ぞに行きよるがやろ?」

「龍兄やん、一体何処に行きよるが?」

 亀弥太と内蔵太が、立て続けに追求すると、龍馬は仕方なさそうに口を開き始めた。

「アシは、今から楠山塾へ学問を習いに行きゆうがじゃ…」

 龍馬の勉強嫌いは、仲間内でも周知の事実だ。その彼が、学問を教わると言うのだから前代未聞の珍事である。三人は笑いを堪えるのに必死だった。

「おんしの口から、学問らぁ言いゆうとは、全く思いもよらんかったちや…」

 清平の一言につられ、亀弥太と内蔵太は吹き出してしまう。

「みんなぁして、そんなが風に笑う事らぁないろうが…」

 さしもの龍馬も、不愉快そうに眉をひそめ、言葉を続ける。

「アシやち、好きで学問しに行きゆう訳ではないぜよ!父上が無理矢理、決めてしもうたき…」

 龍馬にしてみれば、学問は苦行のようなものだ。それを笑われたのだから、いい気分はしない。

「まぁ、ちっくと気の毒ち思うけんど、おまんく(家)は厳しいき仕方がないろう」

 慰めにもならない言葉を口にしながら、清平は龍馬を後押しするように肩を軽く叩く。

「そうじゃの!清やんが言いゆうように気張るしかないき…」

 ──と自身の両頬を叩き、龍馬は自らを奮い立たせる。

「清やん、亀やん、内蔵太、アシは行って来るき!」

 いよいよ覚悟を決め、龍馬は塾へと向かう。

 こうして、龍馬の塾初日は幕を開けた。一体、彼はどれ程の事を学んで来るのだろう──


 さて、龍馬を塾へと送り出した坂本家では、家族が期待に胸ふくらませ、龍馬の帰りを今か今かと待ち侘びていた。

「えぇい!龍馬は、龍馬はまだ帰えらんがか!?」

 騒ぎ立てる八平、逸る気持ちを抑え切れないのだろう。先程からあちこちと、家中を落ち着きなく右往左往している。

「旦那様、坊さんが塾に行かれてから、まだ半刻(一時間)しか経っておりませんき…」

「わ、分かっちゅう!分かっちゅうぞ!やべ!!」

 などと、八平はあくまでも平然とした態度を装う。だが、龍馬の帰りが待ち切れないのは誰の目から見ても明白であった。

 そして、坂本家にとって、ようやく待ち望んでいた時間がやって来た。日が西へと傾き掛け、そろそろ塾を終えた龍馬が帰宅する頃である。

 程なくして、玄関を慌ただしく開ける音が廊下に響き渡った。

「龍馬、只今戻りました!」

 どうやら、龍馬が帰って来たようだ。直後、廊下を急ぐけたたましい足音が聞こえる。足音は、八平達が待つ部屋へとまっしぐらに向かって近付いて来た。

「父上、しょう大変ぜよ!!」

 いつも、のんびり、ぼんやりとしている龍馬が、部屋の障子を開けるなり、珍しく大慌てで切り出した。

「どういたがじゃ?龍馬」

 これは一大事とばかりに八平が応じると、龍馬はやや興奮気味に話を続けて行く。

「先生の言いゆう事が、ちっくとも解らんがですっ!!」

 その答えを聞き、八平達は愕然とする。翌々話を聞くと、龍馬は楠山塾での講義が全く理解する事が出来ず、授業に着いて行けなかったと言うのだ。

 家族の期待は、ものの見事に裏切られ、一同は龍馬の不甲斐なさに只々呆れるばかりだった。

「おまんの頭は、お飾りか?」

 乙女が、龍馬の頭を揺さぶりながら嫌味たっぷりに言う。

「叔父上、お飾り!お飾り!!」

 言葉の意味も分からず、春猪がはしゃいでいる。

「春猪、学問ゆうがは、げにまっこと恐ろしいがぜよ」

 切々と語ってみせる龍馬だが、春猪はそんな叔父の真面目な表情を楽しんでいるだけだった。


 その後も、龍馬にとって学問と言う試練が毎日のように続く。

 ところが、塾で教えられる事が未だに理解できず、頭に入らない龍馬は自己嫌悪の無限ループへと陥ってしまう。

「このままでは、アシはまっこと廃れ者になってしまうちや…」

 学問と言う大きな壁にブチ当たり、龍馬は日々その恐ろしさを思い知るばかりであった。


 だが、そんなある日、楠山塾で大珍事が起きた──


 それは、いつもの蘭学の授業での事だった。

「先生、それではその文の意味が通らんですろう…」

 突如、手を挙げて発したのは、何と龍馬である。彼の一言に塾生のみんなが騒然となった。

 当然だ。蘭学はおろか、塾での学問が理解できず、今まで勉強に着いて来れなかった龍馬が、何と教師である楠山庄助に意見しているのだ。

 これを珍事と言わず、何を珍事と言おうか。

 静まり返る教室、庄助が文章を確認すると、龍馬の指摘する通り自身の訳し方に問題があった事に気付く。

「龍馬、おんしは、ついに蘭文が分かるようになったがか?」

 あれだけ教えても何も覚えられなかった龍馬が、ようやく学問を理解し始めたのだ。庄助の喜びも一入である。


 ところが──


「いやぁ…蘭文は全く分からんけんども、先生が言うちょった事が何とのう変じゃち思うて…」

 悪びれずに龍馬が笑う。途端、庄助の脳裏に失望にも似た思いが去来する。

「おまん、当てずっぽうだったがかえ?」

 しかし、この蘭文の誤訳は、決してまぐれなどで指摘できる程、簡単ではない。きちんと、文法を理解していなければ、分からないものなのだ。

 その証拠に、塾生はおろか、庄助自身間違いを見落としていた。それをただ一人、龍馬だけが気付き指摘した。

 庄助は、龍馬と言う少年を今一つ推し量れずにいた。

(こればぁ、不思議な奴は初めてじゃ…)

 正直、そんな思いを抱かずにはいられなかった。


 そんな珍事があった一日も終わり、塾生達は帰宅する。龍馬も、家に帰ろうと塾の門に差し掛かった時であった。

「おまん、中々おもしろい奴じゃのぉ!」

 不意に掛けられた声に、龍馬は反射的に振り返る。すると、歳の頃なら同じ年齢くらいの少年が、そこに立っていた。

「アシは、平井収二郎じゃ!」

 同じ楠山塾に通う上士の少年であった。龍馬は、すぐにかしこまり礼を取ろうとするが、収二郎はそれを制止する。

「構んが!アシの家やち、上士じゃゆうても一番下っ端の留守居組じゃ。おんしら下士と何っちゃあ変わりゃあせん」

 収二郎は、そう言って気さくに笑う。身分制度に厳しい封建的な土佐において、そんなものに囚われない珍しい少年のようだ。

「確か、才谷屋の分家筋の次男坊じゃったな?」

 尋ねる収二郎に、龍馬は無言でうなずく。

「今日、おまんが楠山先生に意見しよったがは、まっこと痛快じゃったぜよ!」

 それだけ言うと、収二郎は笑いながら、その場を後にする。

 上士と言えば、威張り散らしたイメージだったが、収二郎はそうした傲りが一切ない気持ちのいい少年だった。


 それからも、龍馬の塾通いは続いた──


 だが、龍馬の成績は一向に上がる気配をみせない。

「アシは、一体どういたらえいがじゃ…」

 一人縁側で佇み、悩み落ち込む龍馬、家族の事を思うと、期待に応えられない自分が嫌になる。

「龍馬!おまん、まぁた塾の事でくよくよしゆうがか?」

 そんな龍馬を見兼ねて、乙女が声を掛けて来た。

「アシは、ちっくとも塾の成績が上がりよらん。父上やみんなぁの期待に応えられん…」

 悩める弟に、姉は豪快に笑って答える。

「おまんは、そんなこんまい事を気にしぃなや!」

「けんど…みんなぁ、ちっくとはアシに期待しとるがやろ?」

「何を言いゆう!おまんはおまんらじゃろう?母上の言葉を忘れたがか?」

 龍馬はハッとなる。今は亡き、最愛の母幸が自分を励ます為に何度も掛けてくれた言葉だった。

「姉やん…」

 母の部屋を見詰めながら、乙女はさらに続けて行く。

「今はゆっくりでもえい!おまんらしゅう、しっかり生きて行くがじゃ!!」

 そう言って、乙女は笑顔で弟の手を取り、その掌に『頑張れ』とおまじないのようになぞる。こそばゆい感触が、何とも心地よく嬉しかった。


 龍馬の塾通いが、坂本家では当たり前の日常となった頃、またまた事件が起こる──


 龍馬が庄助に意見したあの一件以来、塾生の間で龍馬が何かおもしろい事を仕出かすのでは?と、注目され始めていた。

 だが、それを快く思わない者も中にはいる。

「坂本…おまん、下士の分際で生意気ぜよ!」

 席に着いた龍馬に対し、敵意を剥き出しにした声が掛けられた。振り向くと、そこには如何にもと言った風体で上士の少年が立っていた。

「どう言う意味ですろうか?えぇっと…」

「ほ、堀内賢之介じゃ!よ、よう覚えとけ!!」

 飄然とした龍馬の態度が、賢之介の怒りに油を注ぐ。

「まぁまぁ、堪えて、堪えてつかぁさい!」

 制止する龍馬と対峙するように睨み付ける賢之介、二人の滑稽なやり取りを他の塾生達は半ば呆れ気味に眺めていた。

「坂本、下士風情が随分とアシをバカにしてくれゆうのぉ?」

「イヤイヤイヤ…アシは、ちっくとも堀内様の事らぁバカにしちゃあせんぜよ」

 天然ぶりを発揮する龍馬、そうとは知らず賢之介の怒りはついに頂点を迎える。

「こればぁ腹の立つ奴は、初めてぜよ!!」

「イヤイヤイヤ!ちっくと、ちっくと堪えてつかぁさい!?」

 すでに龍馬の言葉など届いてはいない。賢之介は脇差しに手を掛け、今にも抜刀する構えだ。

 途端、塾内の空気が張り詰めたものへと一変する。失笑まじりに二人のやり取りを傍観していた者達も息を飲む。

 そして、賢之介は怒りに任せ、抜き打ち様に龍馬の顔目掛け脇差しを振り抜いた。誰もが目を覆い惨劇を予期した次の瞬間、龍馬は机上にあった自身の筆箱でこれを見事に防いだのである。

 安堵の溜め息が、塾生達の間に広がった。

「刀で斬りよったら、しょう痛いちや!もう止めてつかぁさい」

 何ともズレた龍馬の発言、賢之介は怒りに我を忘れ、もはや見境をなくし闇雲に脇差しを振り回すだけだった。

 騒然となる教室、塾生達はただ逃げ惑う。

 そんな状況でも、龍馬は慌てる事もなく、悠然と賢之介の剣撃を次々に交わして行く。

 そこへ、教室の騒ぎを聞き付けた庄助が現れた。

「おまんら、一体何をしちゅうがじゃ!?」

 その声に、賢之介は反射的に怯んだ。庄助は、その隙に脇差しを取り上げ彼を一括する。

「侍が無闇に抜刀し、刀を振り回すとは言語道断ぜよ!!」

 この時、賢之介は初めて己れの過ちに気付き顔色を失う。

「堀内、おまんはこればぁの騒ぎを起こしたがじゃ!もう塾には置いておけん!!」

 破門を言い渡され、涙ながらに賢之介は塾を去って行く。

「おまんは気にするなちや」

 庄助が、龍馬の肩にそっと手を添えながら言う。それでも、賢之介の事が気掛かりだった龍馬は、帰宅後すぐに事件の詳細を八平に打ち明けた。

 報告を聞き、八平は喧嘩の相手が上士だった事を知ると、それを憂いてすぐ様、龍馬を伴い堀内邸へと急ぐのだった。

 屋敷に到着し八平が事の次第を説明すると、門番は一旦確認を取った上で二人を屋敷の中へ案内する。龍馬達は、そのまま庭先へと通された。

 程なくすると、目の前の障子が開き、賢之介の父である藤兵衛が姿を現した。

「そのガキ(ばら)が賢之介に無礼を働いた坂本龍馬かえ?」

 藤兵衛は鈍い眼光を携え、二人に尋ねた。

「ハハーッ!この度は、我が愚息が御子息賢之介様に無礼を働きましたる件、誠に、誠に申し訳御座いませぬ」

 八平は、龍馬の頭を抑え深々と礼を取らせると、自身も地ベタに額を擦り付けん程に頭を下げ、藤兵衛に対し今回の一件を精一杯に詫びた。

「下士の分際で、上士に楯突くらぁ、どうなるろうか分かっちゅうがやろ?」

 ここは土佐である。上士と下士には顕然たる身分の格差が存在する国柄だ。即ち、藤兵衛の言葉を言い換えれば、龍馬の命は彼の裁定次第と言う事になる。

「そ、そそ、その義は御もっともなれど、どうか、どうか我が子の命ばかりは!」

 再び、八平は深々と頭を下げ、許しを乞う。藤兵衛は、その様をジッとうかがうよう前に身を乗り出した。

「坂本八平、(おもて)を上げぇや!」

 藤兵衛は、八平の前へとにじり寄り、重々しく口を開いた。

「ハハ──ッ!」

 八平が顔を上げると、藤兵衛はのぞき込むようにして不敵に笑ってみせる。

「実はつい先程、楠山庄助が来てのぉ。今回の一件、みぃんな聞かせて貰うたがじゃ…」

 八平も、その話を龍馬から聞き及んでいた。それ故、今こうして謝罪の為に訪れているのだ。

「賢之介が抜刀し暴れ出した時、おまんの息子は賢之介を止めようと諌めたそうじゃのぉ?」

 そう言って、藤兵衛は龍馬の方へと視線を送った。

「坂本龍馬とやら…おまん、刀で斬ったら痛いきに止めろち言うたそうじゃのぉ?」

 藤兵衛の問いに、龍馬は黙ってうなずいた。

「侍の子が痛いち…まっこと、おもしろい事を言いゆう!」

 ──と龍馬を見据え、藤兵衛は豪快に笑い出す。その豪快さに、八平も龍馬も只々呆気に取られるばかりだった。

「今回の一件、双方これ以上異議申し立てをせんちゅう事で、手を打っちゃろう!えいの!!」

 藤兵衛は、念を押すように二人に言って聞かせる。

「か、かか、寛大な御処置、誠にありがとう御座います!!」

 感激のあまり、八平は額を三度も地面に擦り付け藤兵衛に感謝を伝えた。

「賢之介も、軽はずみに抜刀らぁした事を恥じちゅうき、許しちゃりや…」

 最後にそう伝え、藤兵衛は障子の向こうへと姿を消した。

 ともかく、今回の一件は差程、大きな問題へと発展せずに済んだようだ。八平はホッと胸を撫で下ろしたが、それも束の間、今度は楠山塾へと足を運ぶ。

「楠山殿や塾の方々には、今回の一件で大変なご迷惑をお掛けしたがです。その上、龍馬の弁護までして頂き感謝の言葉もない…」

 頭を下げ、礼を述べる八平に、庄助は改めて事件の詳細を話して聞かせる。

「龍馬は、何っちゃあ手出しはせんかったがです!悪いがは無闇に抜刀し、斬り掛かった堀内の方ですき…」

 さらに庄助は続けて行く。

「刀を前にし、臆する事なく行動した龍馬はまっこと立派!これは八平殿の教えの賜物ぜよ」

 だが、龍馬の喧嘩相手が上士とあっては、このまま終わりにする事は出来ない。八平は、その事にはばかり龍馬の退塾を庄助に提案するのだった。

 喧嘩の末、一方の生徒のみ塾を辞めさせられたのでは片手落ちであろう。しかも相手は上士、八平なりに気を遣い、これが最も筋の通ったケジメの付け方だと考えた末の事である。

 思い留まるよう庄助は諭すが、八平の決心は思いの外固く、彼の意見を受け入れるより仕方がなかった。


 帰り道、八平はただ無言であった。重々しい雰囲気の中、龍馬は肩を落としながら父の後を着いて行く。

 申し訳ない思いが重責となり、龍馬の心を締め付ける。

(アシは、みんなぁの期待に応えられんかったがぜよ)

 落ち込む龍馬、すると、八平は突然立ち止まってこちらへと振り返り、珍しく満面の笑みを浮かべながら言い放つのだった。

「龍馬、おまんは立派ぜよ!父はまっこと嬉しいちや」

 喧嘩の際、龍馬が抜刀に応じず毅然と対処した事を八平は嬉しく思った。

「龍馬、おまんは父の教えを心に留め置いてくれたがじゃな!」

 八平は、常に『侍らしく』あれと龍馬に説いて来た。だからこそ今日の出来事が、息子の行いが、誇らしくて堪らなかった。

「父上…」

 龍馬自身、父に褒められた事が何より嬉しかった。いつも厳しく寡黙な父が、こんなにも自分を褒めてくれたのだ。


 しかし気が付けば、塾を辞め、すっかりと落ちこぼれ街道まっしぐらな、悩める龍馬十二歳の秋であった──




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