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龍の如く駿馬の如く  作者: 九里瑛太
7/10

母の教え

 最愛の母を失って以来、龍馬は悲しみの中に身を委ねていた。

 すでに初七日が過ぎ、坂本家も平静さを取り戻しつつあったが、龍馬だけはあの日から一歩も前に踏み出せぬままであった。

 時折、縁側に出ては遠くをぼんやりと眺め溜め息をつく。あれからずっと、龍馬はそんな風に無気力に毎日を送っている。

 無理もなかろう。幸の存在が、それだけ龍馬にとって大きく掛け替えのないものだったのだ。

 幸はいつも、大きな慈しみをもって龍馬に優しく接してくれた。病弱ではあったが、この先もずっと傍にいてくれるものだと、龍馬自身疑わずにいた。そんな当たり前の日常が、突然終わりを告げたのである。

 今日も龍馬は縁側に座り、亡き母の面影を求め、その部屋をいつまでもジッと見詰めていた。ここ数日、こんな調子だ。

 そんな龍馬を最も憂い、心配していたのは、他ならぬ父の八平であった。

「どういたもんかのぉ…」

 いつも呑気な龍馬が、こんなにも落ち込んでいる。八平も、頭を抱えずにはいられなかった。

「龍馬は、あればぁ幸の事を好いちょったき仕方がないねや…」

 困った表情を浮かべ、つぶやくように溜め息をつく。幸に対する龍馬の思慕が、これ程までに強かった事を今更ながら八平は痛感するばかりだった。

「父上、そろそろお勤めの時間ですき…」

 出仕の時間を迎えた事を権平が伝える。山内家歴代当主の墓所を警護する役目、その廟所番の勤めを果たさなければならない。

「そうかえ…」

 八平が振り返ると、何か言いたげな表情で権平が控えている。

「龍馬の事、心配ながは重々承知の上ですけんども、廟所番のお勤めも大事ですき…」

 権平の言う事は、もっともであった。それが、藩から与えられた郷士坂本家の務めなのだ。おいそれと、その務めを蔑ろに出来ようはずもない。

「そうじゃのぉ!まっこと、おまんの言う通りぜよ。お勤めを疎かにしてはいかんのぉ…」

 息子からの苦言に対し、八平は苦笑する。それ程、的を射た発言だったからだ。

「今は、そっとして置くしかないですろう…」

 言葉にしつつ、権平は縁側で佇む龍馬に視線を送る。兄として、弟を心配する気持ちは権平も同様だった。

「ほいたら、行くかのぉ」

 二人は身支度を整え、玄関へと向かう。玄関には見送りの為、やべが控えていた。

「旦那様、権平様、行ってらっしゃいませ」

「やべ、龍馬の事頼むぜよ」

 そう告げて、八平と権平は廟所番の仕事に出掛けて行く。

 その後、心配した数馬が龍馬の様子をうかがいに訪れる。だが、相変わらず龍馬は暗く沈んだままだと聞き及び、数馬も残念そうに溜め息をついた。

 兄弟のような、相棒のような、数馬にとって龍馬は従兄弟以上の存在だった。その龍馬が、ふさぎ込んだままである。数馬はどうしたものかと思案するが、結局いい考えが浮かばない。

 取り敢えず、龍馬の見舞いにと購入した大里屋の饅頭をやべに渡し数馬は帰宅する。

「あぁぁぁ…!一体、どういたらえいねや!?」

 帰宅の途上、自身の無力さを否応なく数馬は実感した。こんな時だからこそ、何とか龍馬を元気付けてやりたいのだが、何も手立てがない。


 一方、坂本家では、やべが見舞いの品である饅頭を渡す為、龍馬の部屋を訪ねていた。

 つい先頃まで、縁側で佇んでいたはずの龍馬がいない。やべが不思議に思い彼の部屋をのぞくと、案の定、その片隅で龍馬がうなだれているのが見える。

「今、数馬様がお見えになっちょったがですよ」

 そう伝えるが、龍馬は無反応にやべの言葉をやり過ごす。やべは仕方なく、差し入れの饅頭を置いて部屋を退出した。

 いつもなら、すぐにでも飛び付く大好物なのだが、龍馬は饅頭に全く見向きもせずに手を着けようとはしない。

 そして、夜を迎えた──


「龍馬、夕餉の時間ぞ!」

 今度は、乙女(とめ)が龍馬の部屋を訪れるが“どんより”とした室内は相変わらずだ。

「みんなぁ待っちゅうぞ!早くしぃや」

 またもや反応がない。見兼ねた乙女は、龍馬の手を引き無理矢理に彼を立たせる。

「さぁ、行くがぞ!」

 そして、そのまま団欒の間へと引っ張り出した。幸が亡くなって以来、毎日朝夕の食事時に乙女が迎えに来る。正直、これが龍馬にはつらくて堪らなかった。

 家族が待つ夕餉の場へと龍馬が現れる。龍馬はそのまま、無言で自分の席に座った。

「みんな揃ったのぉ?ほんだら、頂くがぜよ!」

 家長である八平の言葉に続き、一同は「いただきます」と食事を開始する。いつもなら、賑々しい坂本家の団欒風景が始まるところだが、幸が亡くなってから龍馬が落ち込んでいる事もあり、すっかりと辛気くさいものになってしまった。

「そ、そう言うたら、おまさん!才谷屋さんにえい舶来物が入ったそうやき!」

 突如、権平の妻千野が、何とか場の雰囲気を明るく変えようと、そんな話題を口をする。

「そ、そうかえ?そりゃあ、今度見に行かんとのぉ!」

 権平も、これに続くように仰々しく驚いてみせた。

「兄上、ウチも見たいぞね!ほら龍馬、舶来物ぞ。おまんも見たいがやろ?」

「……」

 話題に参加するよう乙女が促すのだが、やはり龍馬はうつむいたまま黙っている。八平達一同は、ガッカリと肩を落とした。


 それからも、龍馬は漂うように無為な日々を過ごす。一向に立ち直る気配のない龍馬を今日も数馬が見舞う。

「龍馬のヤツ、まだ落ち込んじょるが?」

 心配そうに尋ねる数馬だが、乙女からの返答は芳しいものとは言えなかった。

「龍馬は、まっこと母上が好きやったきのぉ…」

 生前、幸が危惧していた通り、龍馬は歩みを止め、前に踏み出せずにいた。

(死んだ母上に、申し訳が立たんちや…)

 幸と交わした約束を思い出し、乙女は自身の不甲斐なさを申し訳なく思うばかりであった。

『母亡き後は乙女、おまんが龍馬を導くがですよ』

 今再び、乙女は亡き幸から託された言葉を噛み締める。

(このままではいかんちや!早よう龍馬を立ち直らせんと…)

 今こそ母の代わりを務め、龍馬を導くべき時だと、乙女は自らに言い聞かせ己れを奮い立たせるのだった。

「数馬、おまんもちっくと知恵を貸しぃや!」

「はぁ?そんなが事を言うたち、すんぐにえい考えらぁ、出る訳がないろう!」

 ──と、反論する数馬、確かにすぐにでも名案が思い浮かぶのであれば、苦労などしない。

「龍馬を元気付ける為ぞね!しっかりと考えや」

 考えを集中させる為か、乙女はおもむろに庭先に置いてあった竹刀を手に取り、一心不乱にそれを振り始めた。

「さすがは、お仁王様じゃ!えい振りをしちゅうのぉ」

 戯れを言葉にする数馬に対し、乙女はニヤリ不敵に笑う。

「そんなが風に言いゆうがやったら、立ち合うてみるかえ?」

「ははは…今日は止めとくぜよ!それより龍馬の事ちや」

 話の本筋から逸れた事もあり、数馬はやんわりと乙女の誘いを断ると、これに苦言を呈した。

「そうねやっ!龍馬を元気にするゆう話をしちょったがじゃないかえ…」

 ──と、言いながら竹刀を振り下ろし、乙女はふと庭先に視線を移して行く。すると、蔵の前に龍馬の作った釣り竿が無造作に立て掛けてあるのが見えた。

「どういたが?お乙女姉やん」

 数馬の言葉にも無反応の乙女、ただ一点を見詰めたまま微動だにしない。

「そうちや!これぞね…」

 やや興奮気味に乙女が叫ぶ。

「な、何ぜよ?いきなり大声を出しよって!?」

「ふふふ…しょう(非常に)えい考えが浮かんだちや!」

 言葉にするなり、乙女は庭先にある蔵へと駆け出して行く。どうやら乙女は、妙案を思い付いたらしく、自らの考えを実践すべく、さっそく行動を開始する。

「お嬢さん、あればぁ大きな声を出して一体どういたがです?」

 乙女の叫び声を聞き付けやべが現れたが、すでに彼女の姿はそこにはなかった。

「あぁ、おやべさん!何っちゃあ知らんが、お乙女姉やん急に何か思い付いたらしいちや…」

 今まで一緒にいた数馬でさえ、動転している。一体、乙女は何をするつもりなのだろうか。相手が乙女なだけに一抹の不安が払拭し切れない。

 しばらくすると、乙女は太くて頑丈そうな竹竿と丈夫そうな縄を一組用意して戻って来た。

「お嬢さん、そんなが物らぁ持ち出して何をしゆうがです?」

 やべに尋ねられ、乙女は含みのある笑みを浮かべ「内緒やき!」とだけ言い残し、龍馬の部屋へと向かった。やはり嫌な予感は拭えない。数馬とやべは急いで乙女の後を追った。

 二人の予感はこの直後、見事に的中する事となる。乙女は龍馬の部屋の障子を開け放ち、勢いよくその中へと入って行ったのだ。

「龍馬、ちっくと来ぃや!」

 威勢のよい声が響き渡る。声の調子から、乙女が問答無用で龍馬に迫っている事がうかがえた。

 数馬とやべが慌てて部屋の中をのぞき込む。案の定、乙女が突然現れた事により龍馬はすっかりと萎縮し、その身を竦めていた。

「ほら、早よう立ちぃや!」

 そんな龍馬に構う事なく乙女はその手を取り、無理矢理立ち上がらせる。

「ど、何処に行きよるが?」

 あまりに横暴な乙女の物言いに龍馬は必死に抗う。だが、そんな弟の抵抗など乙女は許さない。

「えいから来ぃや!!」

 いつも以上に強引な乙女、その凄まじい勢いに圧倒されて龍馬はついに部屋から連れ出される。

「お、お嬢さん、ちっくと、ちっくと待ってつかぁさい!」

「えいき、ウチに任せちゃり」

 止めに入ったやべにそう言い、乙女は龍馬を引っ張ってさっさと表に出て行く。

「か、数馬様、坊さんは大丈夫ですろうか?」

「と、とにかく、アシらも後を追うぜよ!」

 このままでは、龍馬がどうにかされてしまいそうな勢いだ。とにかく、数馬とやべはすぐ様二人の後を追う。

 そんな数馬達の心配を知ってか知らずか、乙女は龍馬の手をぐいぐいと引っ張って、そのまま鏡川へと向かった。

「姉やん、そればぁ竹竿で、一体何をしゆうが?」

 龍馬の問いなど気にした様子もなく、乙女は鏡川に到着するなり弟に次の指示を与える。

「龍馬、来ているものをみぃんな脱ぎや!」

「はぁ!?」

 龍馬は真意が分からず、不思議そうな顔をするが、乙女は睨みを利かせ、こちらをジッとうかがったまま仁王立ちである。内心、嫌々ながらも、龍馬は仕方なく姉の指示通り着物を全て脱ぎ、褌一丁となった。

「ちっくと待っちょけ…」

 そう言って、乙女は竹竿と一緒に持って来た縄の一方を龍馬の褌の後ろへ結び付け、もう一方を竹竿に結んだ。

「さぁ、龍馬!行くぞね」

「へ?姉やん、一体何処に行きゆうが!?」

 ──と、尋ねるのも無視して、乙女は問答無用で龍馬を川へ突き落とした。

「えええぇぇぇっ!?」

 叫び声も虚しく、龍馬の体は緩やかな放物線を描き、激しい水柱を上げて川面に沈んだ。だが次の瞬間、激しく手足をバタ付かせ、龍馬が浮かび上がる。

 勿論、龍馬は泳ぐ事が全く出来ない。乙女も、それを承知の上で川に突き落としたのだ。

 目の前の光景に、数馬もやべも凍り付く。二人の予感は、最悪の形で的中してしまう。

「龍馬っ!?」

「あぁ!?坊さんっ!!」

 慌てて走り寄る数馬とやべ、そんな二人をよそに、乙女は平然と溺れる龍馬を見据えている。

「お乙女姉やん!早よう、早よう龍馬を助けんといかんぜよ!?」

 数馬が叫ぶ。ところが、乙女は依然、弟の溺れている様を黙って見詰めているだけだった。その間にも、龍馬は何とか川面に浮かぼうと必死にもがき続ける。

「──お嬢さん!?」

 今度はやべの声が響く。すると乙女は、龍馬が力尽きる頃合いを見計らったように竹竿を使って、彼を川から引き上げた。

 引き上げられた龍馬は、まさに精も根も尽きたと言わんばかりで川辺に大の字になり大きく呼吸を繰り返す。

 見上げると、真昼の日差しが肌に焼け付くように熱く、まぶしく輝いている。その視界にすぐ様、数馬とやべが入って来た。

「龍馬、大丈夫かえ?」

 心配する二人、龍馬は息を整えるのがやっとのようだ。

「どうちや?龍馬」

 続いて、乙女が龍馬の顔をのぞき込み尋ねる。「どう?」と問われても、龍馬は溺れないよう只々懸命にもがいていただけである。何かを考え付く余裕など、あろうはずもない。

「姉やん、あんまりぜよ…」

 溺れ掛けた龍馬が言葉にする、精一杯の嫌味だった。

「けんど、久し振りに表に出て、こじゃんと体を動かしゆう気分はどうぞね?」

 乙女に言われ、龍馬は気付かされる。確かに溺れないように必死ではあったが、不思議と恐怖心はなかった。むしろ、頭の中は真っ白で、何処までも透き通るような感覚に近い状態であった。

 久々に浴びる燦々たる日の光、そして心地よい虚脱感が、龍馬の体を優しく包み込んで行く。

「──姉やん」

 龍馬はゆっくりと身を起こす。今なら分かる。姉の常軌を逸した行動は、母の死でふさぎ込んでいた自分を立ち直らせる為の荒療治だった事を。

「龍馬!おまんは武士の子、いつまでもそんなが風に落ち込んじょったら、この天の何処かで母上もきっと悲しんじゅうぞ!

 先程までの鬼気迫る表情から、一転して乙女は慈愛に満ちた安らかな笑顔を浮かべている。

「母上が言うちょった!おまんはきっと大きな事を成す男になるゆうてのぉ…」

 生前、幸は事あるごとにそう言って龍馬を励まし続けた。

「母上…」

 母の温かく優しい笑顔が、龍馬の脳裏に甦って来る。

「龍馬、自分らしゅう大きな侍になるぞね!」

 そう言いながら乙女は、龍馬を優しく抱き絞める。

「ね、姉やん!そればぁ近いと、着物が濡れるぜよ…」

「構んがよ…」

 まるで、母に抱擁されているような、温かな感覚が龍馬の沈んだ気持ちをみるみる癒して行く。

「これからは、この乙女が母上の代わりに付いちょるき!」

 その言葉に続くように、龍馬達の後ろから声が掛けられる。

「二人共、アシらの事を忘れちゃあせんろうのぉ?」

 自分達を差し置いて勝手に盛り上がる龍馬と乙女、そんな二人に数馬は嫌味たっぷりの言葉を浴びせた。

「まぁまぁ、数馬様…」

 苦笑しつつやべがなだめると、数馬は照れ隠しに頭を掻く仕草をしてみせる。

「坊さん、坊さんにはお乙女お嬢さんだけではのうて、旦那様や権平様、数馬様やアテが付いちゅうがです!みんなぁが坊さんの事を心配しゆうがですよ」

 そう言葉にして、やべはにっこりとほほえむ。

「おやべさん、そりゃあ、ウチが言いゆうつもりだったぞね!」

 いいところを取られ、不満げな顔の乙女、その様子を見て龍馬はつい笑ってしまう。思えば、心の底から笑ったのは母が亡くなって以来、久し振りの事だ。

 そして、龍馬は乙女達の言葉を堪まらなく嬉しく思った。母を亡くし孤独だと感じていた自分が、こんなにも周囲に支えられていたのだと気付かされる。

「母上、アシは母上の期待に応えて、きっと大きゅうなって見せますき!見とうせ…」

 龍馬は、母の言葉を胸に前へ歩み出すべく、今は空にいる幸に心の中で誓うのだった──




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