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龍の如く駿馬の如く  作者: 九里瑛太
6/10

母の意志

 梅雨が明け、ここ南国土佐にも暑い暑い夏が訪れる。ギラギラと照り付けるような真夏の太陽が、カラッと晴れた清々しい空に一際まぶしい輝きを放つ。

 そんな夏のある日、龍馬は釣り竿を片手に勢いよく自宅の門を飛び出す。蝉時雨の中、本丁筋を意気揚々と駆け抜けて行くと、通りの向こうから坂本家掛かり付けの医者がこちらに向かって来るのが見えた。

 きっと、いつもの母への往診だろうと大して気にも留めず、龍馬はそのまま数馬との待ち合わせ場所である鏡川へと急いだ。

 だが、この時の龍馬は知らなかったのである。母の幸が、ここのところ体調があまり優れずにいる事など…

 元々体の弱い幸は、乙女(とめ)や龍馬を高齢で出産した事もあり養生を余儀なくされていた。その上、今は労咳(結核)まで患っている身だった。

 この日も、咳き込んでは時折、苦しそうにしていた。先年に亡くなった次女栄の事で心労もあっただろう。

 いつも笑顔を絶やさず、明るく振る舞ってはいたが、病は確実に幸の体を蝕んでいたのだ。それでも尚、気丈であろうとする幸を八平は不憫に思わずにはいられなかった。

 医者が一通り診察を終え、幸の部屋から出て来た。いても立ってもいられず、八平は診断の結果をすぐ様尋ねる。

 しかし、その答えはあまりにも残酷なものだった。八平が想像していた以上に幸の容態は芳しくはなかったのだ。

 ただでさえ病弱な幸だったが、夏の暑さが追い討ちとなり、体がすっかりと衰弱してしまったのだそうだ。とにかく、今は出来るだけ滋養の付くものを摂るしかないと医者は説明する。

 それは即ち、この夏が幸にとっての山場と言う事になろう。この暑さを越せなければ、或いは…

 覚悟をしていたとは言え、直に医者から告げられると、現実味を帯びた重圧となって八平に伸し掛かって来る。

 医者を見送り、気を取り直して八平は幸の元へと向かう。部屋の前で一瞬躊躇するが、妻に余計な心配はさせまいと八平は精一杯の笑顔を作り入室する。

「どうぜ、具合の方は?」

「もう…おまさんは、いっつもそればっかり!」

 軽口で応じ、少し照れたようにはにかむと、幸はゆっくり視線を外の方に移して行く。

「今日は、とってもえい天気ながですねぇ…」

 庭先の景色を愛でながら、幸がほほえむ。そんな妻の姿に八平も自然と心を和ませる。

 ところが次の瞬間、幸の一言が場の空気を一変させた。

「アテは、もう長くはないがですろう?」

 淀みない瞳で、まっすぐ八平を見据えながら幸は尋ねる。落ち着き払った態度から、自身の病状を悟っているようでもあった。

「何を言いゆう!?きちんと栄養を摂って養生すれば、きっとよくなるき!」

 確証などないと知りながらも、八平は妻への思いから自らの甘い言葉にすがるしかなかった。

「まっこと、おまさんは嘘が下手ながね…」

 くすりと幸がほほえむ。何とも儚げな笑顔が、八平の胸に切なさと共に痛みを伴わせる。

「自分の事は自分が一番よう知っちゅうき、もうえいがですよ」

 八平と違い、幸は現実的に自身の境遇を受け入れていた。女は、いつだって男より現実を見据えたリアリストなのだ。

「とうとうアテは、龍馬の成長した姿らぁ見られんがですね…」

 今、幸にとって一番の心残りは龍馬の行く末に他ならない。

 物憂げな眼を再び表へと向け、口惜しそうに幸はつぶやく。そんな彼女の口許には、まるで哀れな自分を嘲笑するかのような笑みが浮かぶ。

「おまさん…この事、どうか龍馬には内緒にしてつかぁさい。お願いします…」

 幸は懇願する。自分の為、龍馬がその歩みを止めて遅らせてしまう事を、母として彼女は何よりも危惧していた。

「分かった…よう分かったちや!おまんの好きにするがえい…」

 長らく連れ添った夫婦だ。幸の思いも、決意も、八平には痛い程よく分かる。だからこそ、妻の気持ちを汲んで彼女の容態は伏せて置こうと八平は考えた。

 今、八平が出来る事が唯一あるとするならば、それは幸の意志に寄り添う事なのかも知れない。

「おまさん、ありがとうございます…」

 ゆるやかに注ぐ、昼下がりの陽射しが心地よく暖かい。

 しかしこの時、廊下を通り掛かった乙女が偶発的に二人の会話を耳にしてしまう。それは十五歳の少女にとって、あまりにも重く、堪え難い程の不安となって襲い掛かった。

「母上…」

 唇をキュッと咬み、心の不安を何とか拭い去ろうとする乙女だったが、多感な時期の少女にそれ程強い精神力は宿っていない。

「どういたがです?お乙女お嬢さん…」

 そんな時、乙女は幸の部屋へと赴くやべとバッタリ出会す。きっと、先程の一件で八平に呼び出されたのであろう。

「な、何っちゃあない…」

 そう答える乙女だが、気落ちしているのは火を見るより明らかであった。幸の部屋へと続く廊下、場所が場所なだけに考え得る理由はただ一つ。それは、やべにもすぐに察しが付いた。

「大丈夫!奥様は、きっとよくなりますき」

 ハッとなる乙女、やべの予想が当たっていた事を物語る。

 だが、すでに事実を知っている乙女にとって、やべの言葉はもはや気休めにすらならない。

「あ、ありがとう…」

 そうつぶやき、乙女はこの場を後にする。もしかしたら、彼女は不安を打ち消す為の言葉が欲しかったのかも知れない。

 さて、やべはそのまま幸の部屋へと向かう。部屋の前に到着すると、障子越しに中の二人へと声を掛ける。

「旦那様、奥様、やべに御座います…」

「どうぞ、おやべさん…」

 幸の声に促されるまま、やべはすっと襖を開けた。

「失礼します」

 一礼を済ませ、やべは部屋へと入って行く。部屋の中では、穏やかに笑う幸と対称的に厳しい顔付きの八平が彼女を出迎えた。

「おやべさん、龍馬は今、釣りに出掛けちゅうがですか?」

 唐突な幸の質問だった。やべは何故、龍馬が釣りに出掛けた事を知っているのかと、逆に幸へ尋ね返す。

 すると、幸は手に持った手紙を開き、それを嬉しそうにやべに見せるのだった。そこには、拙い筆跡で『母の為、魚を釣って来る』と記されてあった。紛れもなく、龍馬の筆跡によるものだ。

「奥様の為じゃあ言うて、張り切っておられました!」

 やべの話を嬉しそうに聞き入る幸だったが、次の瞬間、まるで思い詰めたように、その表情を曇らせて行く。

「おまさん、えいがですね?」

 念を押す幸に対し、八平は黙ってうなずく。部屋の空気が、張り詰めたものへと一変する。

「実は、おやべさんに頼みがあるがです…」

 改まって切り出す幸、やべはそんな彼女に並々ならぬものを感じ取る。同時に、先程の落胆した乙女の顔が思い浮かぶ。不安が急に脳裏をよぎる。

「アテにもしもの事があったら、その時は龍馬の事、よろしく頼みます」

 淡々と語る口調に反して、その内容はやべにとって実に重々しく衝撃的なものであった。

「何を言いゆうがです!滅多な事を口にしてはいけませんろう」

 突然の告白に驚くやべ、あまりの事に狼狽する彼女を八平が諌めるように制止した。

「えいきに、黙って幸の話を聞くがじゃ!!」

 語気の強さが重大さを訴える。八平に言われるまま、やべは幸の話に耳を傾けた。

「正直、ここのところアテは、あんまり体の具合らぁよくないがです。きっと、この夏は…」

 言い掛けたところで、幸はスッと表の方へと視線を移す。外から射し込む陽射しが障子越しにまぶしいのか、幸は目を細めて微かに笑ってみせる。

 乙女が暗く沈んでいた理由を、やべはようやく理解した。彼女は偶然にも、この事実を知ってしまったに違いない。そんな乙女に対し、元気付ける為とは言え、何と安易で無責任な気休めを言ってしまった事か。やべは、どうしようもない程の後悔を覚える。

「おやべさん、この事は他言無用に願います。特に龍馬には絶対に知られたくないがです…」

 幸は、自分の為に龍馬が成長を止めてしまわぬようにと、やべに口止めを願う。

「龍馬には、アテのせいで歩みを止めて欲しくないがです」

 幸の優しい笑顔、そして内に秘めた覚悟に母としての偉大さを、やべは垣間見た。

「──あの子の事、よろしく頼みましたよ!」

 声を微かに震わせ、最後にそう締め括ると、幸は深々と頭を垂れ懇願する。悲しい程の決意、やべは自然と身が引き締まり「はい」と答えた。


 一方、龍馬は母の深刻な状況など露知らず、数馬と釣りを楽しんでいる最中にあった。

「母上、待っとうせ!こじゃんとでっかい魚を釣って帰りますよってに…」

 などと、鼻息荒く意気込んではいるが、今のところ龍馬の釣果は全くの皆無である。川面に垂れる釣糸が、虚しく水の流れに揺られては、何とものんびりとした時間だけが過ぎて行く。

「どうでもえいけんど、何っちゃあ釣れんろうのぉ…」

 辛抱強く当たりを待ち続ける龍馬に対し、数馬はすっかりと暇を持て余している。先程から、口をついて出て来るのはボヤきとあくびばかりだ。

 そんな時だった。突然、龍馬の竿に大きな手応えがあった。

「うわっ!?数馬ぁ、こじゃんと引きゆう…こ、こりゃあ、まっこと大物ぜよ!!」

 ぐいぐい来る引きの強さが、かなりの大物と確信させる。龍馬はすぐ様、数馬に助力を頼んだ。

「何ぃ!?そりゃあ大変じゃ!ちっくと待っちょけ…」

「早よう助けとうせ!」

 急いで駆け寄り、数馬も龍馬を支える。二人は激しくしなる竿に翻弄されながらも、何とかその大物を釣り上げようと、必死に堪え竿を引き続けた。

 しかし、魚も釣られるものかと二人を尚も翻弄する。水面から跳ね上がり、その巨体を露わにしたかと思うと激しい水しぶきと共に再び川面に潜り込み、激しく抵抗し暴れ回る。

 しばしの攻防の末、龍馬達は意を決して力の限り竿を一気に引き上げた。

 ──と、その刹那、竿の先から急に力が抜ける。二人は、勢いあまって派手に後ろへと倒れた。

「あぁ、逃げられたちや…」

 龍馬が竿の先に視線を移すと、釣糸はプッツリと切れ、目当ての大物はすっかりと逃げてしまう。しかも、勢いよく倒れ込んだ弾みで竿は見事にヘシ折れていた。

「あっちゃあ!?権平兄やんの大事な竿がぁ…」

 折れた竿を見詰め、ガックリと肩を落とし、うなだれる龍馬。

「こんなが竿じゃあ、もう釣りは出来んろう…」

 数馬の言う通りである。肝心の釣竿がこの有り様ではどうにもなるまい。折しも空は紅く染まり、いい時間帯を迎える。

 二人は今日の釣りを切り上げ、家路に就く事にした。

「龍馬、権平さんに叱られても、気落ちしぃなや!」

 別れ際、数馬の言葉がズキッと胸に突き刺さる。龍馬にとって、全く余計な一言だった。

「一体、どういたらえいがやろうのぉ…」

 兄権平の怒る様が目に浮かぶ。気分が重くなるばかりだ。少し緊張した面持ちで龍馬が屋敷の門をくぐると、さっそく玄関で権平と鉢合わせとなった。

「あ、兄上っ!?」

 反射的に龍馬は、折れた竿を後ろに隠す。背に回したところで、隠し切れるものでもない。

「おまん、それはアシの竿じゃあないがかえ?」

 当然、そんな悪あがきはすぐにバレてしまう。龍馬は観念したように、折れた釣竿を権平の眼前に差し出す。

「申し訳ないがです。兄上の大事な竿をアシは折ってしまったがです…」

 誠意を込めて謝る龍馬、権平の激しい叱責を覚悟していたが、兄の反応は意外なものだった。

「竿はえいき、早よう足を拭いて中に入りや!」

 てっきり、怒られるものだとばかり思っていただけに、龍馬は体のよい肩透かしを食らったような形となる。

 権平の叱責を免れた安堵感からか、龍馬は兄の些細な異変に気付く事はなかった。

 それからも暑い日は続き、照り付ける真夏の太陽は容赦なく輝き続けた──


 乙女は、あれから母の容態ばかりを気にして不安な日々を送っていた。縁側に座り、向かいにある母の部屋をジッと見詰めては物思いにふけるばかりだった。

「母上…」

 溜め息が口をつく。直後、視線の先にある部屋の障子がスッと開き、何の前ぶれもなく母の幸が姿をのぞかせた。

 一瞬の事に乙女が戸惑う。それに気付いた幸が、にこりと笑顔を向け優しく語り掛ける。

「どういたがです?乙女」

 いつもと何ら変わらぬ母の温かな笑顔、ところが乙女はその笑顔が直視できない。

「な、何っちゃあないです」

 慌てて笑顔を作り取り繕うが、そんな娘の不自然さを幸が見抜けぬはずなどなかった。無論、その原因が自分自身にある事も幸は瞬時に気付いていた。

「乙女、こっちに来ぃや」

 手招きする幸に促され、乙女は部屋に入り、その傍らへと座る。以前にも増して、やつれた様子の母が何とも儚げで痛々しい。

「母上…お、起きちょってもえいが…?」

 心配そうに乙女が尋ねると、幸は満面の笑みで答えた。

「ありがとう。母の事、心配してくれゆうがですね」

 そっと乙女を抱き寄せて、幸は優しくその頭を撫でる。しかし、乙女はもう十五の少女だ。母からの愛撫は嬉しくもあり、また恥ずかしくもある。

「は、母上…」

 思い詰めたような顔付きで、乙女は幸の顔を見上げた。

「今日は、いつもの乙女らしゅうないがですね?」

 甘えるように身を委ね、もたれ寄り添う乙女に、幸は優しく言葉を掛ける。

 思えば、乙女が物心付いた頃にはすでに母は病弱だった。こうして甘えるのは、実に何年ぶりの事であろうか。彼女は、その余韻に酔い知れるように母の温もりを存分に味わう。

 いくつになっても、否、多感な時期だからこそ母親の存在は誰にとっても大きくあるもの。普段から威勢のよい乙女も、それは例外ではない。

「えいですか?乙女…これから母が話す事、よう聞くがです」

 改まって切り出す幸に、乙女は嫌な予感めいたものを感じる。

「母は、もう長うはないかも知れんがです…」

 決して忘れていた訳ではない。だが、こうして、いざ母の口から直に話を切り出されると、やはり胸が締め付けられる。

 先程までの穏やかな時間が、まるで嘘のように張り詰めたものへと変化する。途端、乙女の胸の内がザワザワとざわめく。

「止めとうせ!ウチは、そんなが話、聞きとうない!!」

 娘の悲痛な叫びを聞いても尚、幸は敢えて言葉を続ける。

「えいですか!この事、おやべさんにも伝えてあるがです」

「おやべさん…にも…」

「そうです。龍馬は、乙女とおやべさんにしょう(非常に)懐いちゅうがやろ?そうやき、二人に龍馬の事を頼みたいがです」

 笑顔で言葉を締めくくる幸の瞳には、何ら一片の曇りすらも感じられない。乙女は、その清々しいまでに爽やかな笑顔に母の決意を見た思いであった。

「龍馬は、決して愚鈍な子ぉではないがです。母亡き後は、乙女がしっかりと龍馬を導くがですよ!えいですか?龍馬の事、頼みましたよ」

 乙女はぐっと涙を堪え、母の言葉にうなずく。幸の意志は今、乙女に託されたのである。その事を身震いする程に彼女は感じ取っていた。


 それからも暑い日は続き、幸はとうとう食事を摂る事すら困難な程に衰弱し切ってしまう。医者も手の施しようがなく、八平達家族一同も、日に日に弱り果てて行く幸を只々無力に見守る事しか出来なかった。

 そんな折り、龍馬は折ってしまった権平の釣竿に代わり、ついに自らの釣竿を完成させたのだ。

「ふふん、まっことえい出来映えちや。惚れ惚れするぜよ!」

 自作の釣竿を眺め、何度もウットリとしながら龍馬はその釣竿を誉め称える。

「ほいたら、行くかのぉ!」

 母の部屋の前を通り掛かるが、どうやら幸はまだ寝ているらしく静かな様子だった。

「今日こそ、こじゃんとデッカイ魚を釣り上げて、母上に食べさせて挙げますき!!」

 龍馬は、幸を起こさないよう、いつも通り書き置きをそっと部屋の前の縁側に置くと、足早に鏡川へと繰り出す。

「母上の喜ぶ顔が、目に浮かぶようぜよ!」

 今日こそ大物を釣り上げ、母に食べて貰おうと、その思いで龍馬は無我夢中で釣りに興じた。


 時間が過ぎるのも忘れ──


 やがて、日は傾き周囲の景色が夕焼けに染まる頃、ようやく龍馬は一匹の魚を釣り上げる事に成功した。それは到底、大物とは言えない代物ではあったが、自作の釣竿で苦労の末に釣り上げた初の収穫だった。

 母の喜ぶ顔が見たくて、龍馬は家路を急ぐ。意気揚々と家まで戻ると、やべが門前で待っていた。直感的に、帰宅が遅くなった事を咎められるものだと思い、龍馬は戦々恐々となる。

「おやべさん、ただいま…」

 とにかく、出方をうかがうべく帰宅の挨拶を口にする龍馬だったが、やべはいつも以上に落ち着き払った態度で彼を出迎えた。

「坊さん、お母上が待ちゆうがですよ。さぁ…」

 てっきり、注意されるものだとばかり思っていた龍馬は内心ホッとする。

 やべの後に従い、玄関を上がり廊下を進む。夕飯時だと言うのに屋敷中が静まり返っている。賑々しく、女中達が食事の支度に勤しんでいる時間のはずだが、そんな気配は一切ない。

 不思議に思いながらも、龍馬はあまり気にも留めず幸の部屋へと向かった。ようやく母の部屋まで辿り着くと、出掛ける前に残した書き置きが庭先に落ちている事に気付く。

 いつもなら、必ず幸が読んでくれているはずだが、それがそのまま放置され庭に落ちている。もしかしたら、母は起きたばかりで、まだ書き置きを読んでいないのでは?と、一瞬、龍馬の脳裏をよぎった。

 ならば、釣った魚を見せて大いに驚いて貰おうと、高鳴る鼓動を抑え切れずに龍馬は幸の待つ部屋へと喜び勇んで飛び込む。

「母上、見て下され!母上の為に釣って来たがです。これで、こじゃんと精を付けて下され!!」

 釣った魚を誇らしげに頭上へと掲げ、満面の笑みで龍馬は言い放つ。だが、期待していたはずの母の言葉が返っては来ない。

 シンと静まり返った部屋の中、いつものように横になり、いつもと同じ場所で休む母の姿がそこにある。ただ、いつもと違うのは、その母の顔に白い布が被せられている事であった。

「龍馬、よう聞きや!母者は、幸は亡くなったがじゃ…」

 厳しく、険しい表情で悲しみを堪えるように八平が言葉にする。龍馬は事態が飲み込めず、部屋の中をゆっくりと見渡して行く。

 よく見れば、家族みんなが悲しみの淵にうつむいている。暗く沈んだ部屋の中、母が横たわる姿が一層と目に焼き付く。

「母上に食べて欲しくて、魚を釣って来たがです。釣って…」

 絞り出すような言葉、自分でも何を喋っているのか今の龍馬には分からない。突然、自分を襲った激しい空虚感に龍馬自身なす術がなく立ち尽くした。

 八平や乙女が何かを言っているのが、それすら龍馬の耳にはもう届いてはいなかった。

 周囲の景色がぐるぐると不安定に駆け巡る。気が付くと、龍馬の両目から止め処なく涙が溢れ出していた。


 弘化三(一八四六)年六月十日のこの日、あの温かくも優しい母幸が亡くなった。

 龍馬にとって、一番の理解者であり、心の支えであり続けた幸。その母の笑顔は、もう二度と戻っては来ない。そう思うと、龍馬は無性に涙が止まらなかった。


 最愛の母との永遠の別れ、龍馬十二歳の夏である──




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