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龍の如く駿馬の如く  作者: 九里瑛太
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二番目の姉

 龍馬には三人の姉がいる。長女の千鶴(ちず)、次女の栄、そして三女の乙女(とめ)がそれだ。

 上の二人の姉は、龍馬が物心付いた頃にはすでに他家へと嫁いでいた。

 ところが、その内の一人である栄が、嫁ぎ先の柴田家より離縁され出戻りとなった。子供を授からなかった為、夫である柴田作衛門の両親から不興を買ったのだ。

 出戻りと言う肩身が狭い立場の為、栄は家族にも滅多に姿を見せる事なく、自分の部屋に籠り切りったままの毎日を送っていた。

 父の八平も、娘を不憫に思い慰めたが「子が出来なかった自分の責任」と、栄は自嘲めいた笑みをただ浮かべるのみだった。

 坂本家にも微妙な空気が漂い、何となくギクシャクとした日々が続いた。

 龍馬にとっても年が離れ、馴染みの薄い姉である。栄とどう接してよいのか分からない。切っ掛けが掴めないのだ。


 そんなある日──


 その日は天気もよく、暖かい陽射しの差す、小春日和ののどかな一日であった。

 龍馬は縁側で陽射しに抱かれ、柱にもたれ掛かりながら、まどろみに身を委ねていた。

「龍馬さん、こんなが所で寝ちゅうと風邪を引くがですよ」

 不意に声を掛けられ、反射的に龍馬が身を起こす。声の主を探し辺りを見回してみると、庭を挟む反対側の縁側で栄が優しくほほえんでいる。

「あぁ、姉上…」

 龍馬にとって、思い掛けない好機であった。今まで、会話をする糸口すら掴めずにいた栄から話し掛けて来たのだ。

「あ、あの…」

 ところが、とっさの事に龍馬は機転が利かず、気の利いた台詞の一つも思い浮かばない。

「ん?どういたが」

 ──と、栄が問い掛けるも、龍馬は緊張のあまり、どぎまぎして答えられない。そんな戸惑う龍馬に、栄がゆっくりと近付く。

「ほらほら、だらしないがですよ龍馬さん」

 くすりと笑い、龍馬の隣に腰を下ろすと、栄は着物の袖でそっと彼の口許を拭った。

「んん…」

 寝惚けていた為、龍馬は口からヨダレを垂らしていたのだ。とんだ醜態を晒し、恥ずかしさが込み上げて来るばかりであった。

「ふふふ…龍馬さんは、相変わらずながね」

 そう言葉にし、栄は再び優しくほほえんでみせる。

 龍馬の幼い頃を知っている栄に対し、この姉の事を龍馬はほとんど知らない。彼が物心付いて間もない頃、栄はすでに柴田家へと嫁いでいたのだから、当然と言えば当然だ。

「姉上…アシはこんまい頃、どうだったが?」

 まるで、記憶の一部を探し求めるかのように龍馬が尋ねる。そんな質問に、栄は懐かしそうに目を細め、当時を思い返すようにゆっくりと語り始めた。

「龍馬さんはこんまい頃、まっこと泣き虫やったがですよ…」

「ア、アシは、こんまい頃から泣き虫やったがですか?」

 嬉しそうに話す栄に反して、龍馬は些かの落胆を覚える。ガッカリと肩を落とし、大きな溜め息をつく。

「──けんど、龍馬さんが生まれる前の晩、母上は大空を天翔る龍と馬の夢を見たそうながです。そうやき、おまさんは龍馬と名付けられたがですよ!」

 母からも聞いた事のない、龍馬自身初めて耳にする話だった。

「そうなが?」

「そうですよ!龍馬さんが生まれて来ゆうがを、一番に喜んじょったがは母上やき!」

 栄から聞かされた話に、龍馬は感激する。実際、自分の勇ましい名前を龍馬はとても気に入っていた。しかも、それが大好きな母が名付けてくれたと言うのだから尚更である。

「龍馬!おまん、こんなが所におったがか?」

 仁王様のような厳しい顔付きの乙女、どうやら龍馬を探していたようだ。

「あら、お乙女さん!どういたがです?」

 興奮気味の乙女とは対称的に、おっとりと、なだめるような口調で栄が呼び掛ける。

「どういたもこういたも、龍馬はこれから剣術の稽古ですき!」

 逸る気持ち抑え切れず、乙女は前に身を乗り出し、捲し立てるような早口で言葉を返す。

 だが、そんな乙女とは裏腹に、当の龍馬はあまり乗り気ではないらしく、栄の後ろにさっさと身を隠してしまう。

「何をしちゅう、龍馬っ!早ようしぃや!!」

 乙女がけたたましく叫ぶ。すると、そんな様を見兼ねた栄が呆れ顔で口を挟むのだった。

「まぁまぁ、お乙女さん…今日くらい、剣術はえいですろう?」

 そんな栄の言葉を後押しするかのように、龍馬は必死で首を縦に振っている。

「しかし姉上、鍛錬は毎日する事に意味があるがです!」

 どうにも釈然としない乙女は、尚も執拗に姉に食い下がった。

「お乙女さん、龍馬さんには龍馬さんなりの成長する早さがあるがやき、そう急かせるようにしたらいかんぞね」

 栄は、優しく諭すように乙女に語り掛ける。その穏やかな物言いに、流石の乙女も矛を収める以外なかった。

「姉上に免じて、今日のところは稽古はなしにしちゃる…」

 溜め息と共に、乙女はそのまま自分の部屋へと戻って行く。まずは、龍馬にとって一安心と言ったところであろう。栄と互いに顔を見合わせ、ニッコリと笑った。

 栄の優しい笑顔と佇まい、そんな彼女の雰囲気が何処となく母の幸と重なる。龍馬は、そんな姉に親近感を覚えて行く。


 それからしばらくは、栄の言葉が功を奏したのか、乙女から稽古の催促もなく、龍馬はまったりと安穏な日々を送る──


 そしてこの日、才谷屋の帳場に龍馬の姿があった。物思いにふけり、パチパチと算盤を弾く龍馬。そうかと思えば、時折ぼんやりと何事か考え込んでいる。

 実は、龍馬はこの時、栄の事を考えていたのだ。どうしたら、栄との距離をもっと縮める事が出来るのだろうか。そんな事がずっと頭をよぎっていた。

「坊、才谷屋に遊びに来ゆうがはえいけんど、父上にまぁた叱られても知らんぜよ!」

 才谷屋の主人であり、龍馬にとっては叔父でもある坂本八三郎が呆れた様子で言葉にする。

「ごめんなさい。ちっくと考え事をしちょって…」

 不意に掛けられた声に、龍馬はつい、反射的に謝ってしまう。

「考え事をしゆうがやったら、ここでなくてもえいろう!そうではないかえ?」

 龍馬が、才谷屋の帳場をお気に入りとしている事を八三郎も重々承知の上であった。ところが、龍馬の父八平はそれを快く思ってはいなかった。だからこそ、それとなく龍馬に注意して欲しいと八三郎に頼んでいたのだ。

 才谷屋と坂本家は本家と分家の間柄、それ故に子供の教育に関しては互いに手加減はしない。

 まして龍馬は郷士である。才谷屋の分家筋とは言え立派な武士の家柄だ。その武士の子が、商家に出入りしているともなれば、父親として八平の体裁もよくない。

 そうした世間体も考慮の上で、八三郎は龍馬に苦言を呈したのである。

「全く、いっつもぼんやりとしちゅうくせに、今日は何をそればぁ考えちょったがぜよ?」

「う~ん、それは言えんちや」

 龍馬は照れ隠しにはにかむと、逃げるようにさっさと才谷屋から退散した。

 秋晴れの爽やかな空の下、龍馬は本丁筋を進む。栄の優しい笑顔が見たい、その一心で龍馬は大里屋へと向った。

 才谷屋と自宅の間にある大きな角を南に折れると、大里屋の軒先が見える。店の前では、いつものように倅の長次郎が大きな声で呼び込みをしていた。

 威勢のいい声に誘われるまま、龍馬は店先に飛び込む。軒先には数馬や清平達、お馴染みの顔ぶれがズラリ揃っている。

「おぉ、坂本のよばぁたれ(寝小便垂れ)が来たぜよ!」

 まず、清平の容赦ない“口撃”が龍馬を出迎えた。

「清やん、ここ最近アシは、よばれを垂れちゃあせんぜよ!」

 力強く龍馬が否定する。ところが、そんな龍馬を失笑するように清平の弟亀弥太が口を開く。

「そんな事らぁ自慢になるがは、まっことおまんだけぜよ!」

 兄弟だけあって、一糸乱れぬ息の合った“口撃”である。

「龍馬、おまんの負けぜよ!」

 数馬も、只々おもしろがって笑うばかりだ。すっかりと、機先を取られてしまった龍馬だが、そもそも大里屋を訪れたのは栄に土産の饅頭を買う為であった。

「あぁ、もうえいちや!アシは早よう帰らんといかんき…長次郎、今日は五つばかり饅頭をくれんろうか!」

 栄の喜ぶ顔が早く見たい。焦る龍馬は、急いで用件を済ませ大里屋を後にする

「龍馬の奴、逃げよったの…」

 清平がそうつぶやくと、四人は龍馬の後ろ姿を見送りながら笑い合った──


 帰宅後、龍馬はさっそく栄の部屋へと向かう。逸る気持ちがいつも以上に彼を足早にさせた。

「あ、姉上、おられますか?」

 龍馬がそっと尋ねる。すると、障子の内側からクスッと笑う声が微かに聞こえた。

「おりますよ…」

 姉の声に龍馬は内心ホッと胸を撫で下ろす。

「入っても、えいが?」

「どうぞ!お入りなさい」

 澄んだ、小気味のよい声で栄が優しく答える。障子を開け龍馬が顔をのぞかせると、にっこりほほえむ姉がそこに座っていた。

「姉上!今日は、お土産があるがです…」

「お土産…ですか?」

 栄の前にちょこんと座り、龍馬はさっそく懐から饅頭を取り出してみせる。

「大里屋の饅頭ながです。食べてつかぁさい!」

 満面の笑みで龍馬はそれを差し出す。栄も幼い頃、よく口にした馴染み深い饅頭であった。 

「懐かしい…」

 幼き日の記憶が甦り、栄は思わずつぶやく。そして、饅頭をゆっくりと口に運んだ。

「あぁ、美味しい…」

 口の中一杯に広がる程よい餡子の甘さに、栄はつい感嘆の溜め息を漏らしてしまう。

「どうです姉上?」

「龍馬さんは、まっこと大里屋の饅頭が好きながですね…」

 自分の好きなものを相手に贈る行為は、愛情表現の一つなのだと誰かが言った。龍馬の喜びようを見ていると、あながち嘘ではないのかも知れないと栄は思う。

「姉上、その刀は…?」

 栄の部屋に似つかわしくない、何とも立派な刀が一振り刀掛けに掛けられている。栄は、剣術などたしなんではいないので、確かに不自然と言えた。

「これは、柴田の家を離縁された折り頂いた陸奥守吉行と言う名刀です!」

 陸奥守吉行は、土佐藩の鍛冶奉行も務めた名工の一人である。

「そればぁ凄い刀ながですか?」

「ウチは女やき、あんまり刀には詳しくないけんども、大層な業物ゆう話ですよ!」

 事実、土佐では人気の高い名刀として知らぬ者などいない程であった。

「作衛門様は、離縁するウチを不憫に思って、形見分けのつもりでこの陸奥守吉行を下さったのでしょう。けんど、女のウチには宝の持ち腐れながです…」

 一瞬、栄が寂しげな表情を浮かべたように見えた。離縁されたとは言え、未だ嫁いだ先に未練でも残しているのだろうか。

「陸奥守吉行、よろしければ龍馬さんにお譲りしましょう!」

「ま、まっことなが!?」

「えぇ…その時が来たら差し上げますき、きっと龍馬さんのお役に立ててつかぁさい!」

 そう言って、栄はにこりと笑った。姉と交わした何気ない約束、それが龍馬をより一層と高揚させたのは言うまでもない。

 気が付けば、窓からのぞく外の景色は、すでに夕陽に紅く染まり夜を迎えようとしていた。

「龍馬さん、そろそろ夕餉の時間ですよ」

「姉上は、行かんが?」

「ウチは、えいがです…」

 何となく、寂しげな栄を気にしつつも、促されるまま龍馬は団欒の場へと向かった。

 龍馬が去り、さっきまでの賑やかさが、まるで嘘のように静まり返った部屋の中、栄はある決意を秘めていた。

「作衛門様、ウチの心は今も作衛門様と共にありますき…」

 静かにつぶやき、栄はゆっくりと目を閉じた。

「龍馬さん、ありがとう…」

 その日の晩は、涼やかな秋空に月が寂しく輝いていた──と


 翌朝、龍馬は慌ただしさの中で目を覚ます。


 家中が何やら騒々しい。朝から何の騒ぎかと、龍馬が部屋から顔をのぞかせ様子をうかがう。

「何ちや?一体どういたが…」

 ちょうど、部屋の前を通り掛かったやべに声を掛ける。いつもは落ち着いた様子の彼女だが、今朝は珍しく慌てていた。

「あぁ…坊さん、お栄様が、お栄様が大変ながです!」

 瞬間、昨日の別れ際、栄が見せた寂しげな表情を思い出す。言い知れぬ不安が込み上げ、龍馬は栄の部屋へと急いだ。逸る気持ちをぐっと堪え、龍馬は庭を一気に駆け抜けて姉の部屋に辿り着く。

 今更、確認するまでもないが、やはり騒動の原因は姉栄の部屋にあった。その証拠に八平や権平、乙女が揃って部屋の前で立ち尽くしていた。

「みんなぁ、どういたが?何がぁ遭ったがです…」

 尋ねる龍馬に、ゆっくりと乙女が歩み寄る。いつになく厳しい顔付きで、唇をキュッと噛み締め、まるで何かに堪え忍ぶように口を開いた。

「龍馬、よう聞きや!お栄姉様がお亡くなりになったがじゃ…」

 どうやら栄は、昨夜の内に自ら喉を突き、人知れず、寂しくその命を断ったのだと云う。

「姉上が死んだ…どういて?」

 昨日、あれだけ楽しく会話を交わし、笑顔を見せてくれた栄が、今朝は変わり果てた姿となってしまった。龍馬の胸に、何ともやるせない思いが去来する。

 だが、栄の遺書には彼女にしか分からない苦悩や葛藤、様々な思いが記されてあった。

 子が授からなかった事への悲しみと絶望、それ故に離縁された苦悩、そして肩身の狭い境遇など、それら全てが栄にとって責め苦となり、彼女の精神を蝕んで破綻させたのだろう。

 龍馬が目にした、栄の寂しげな表情は、彼女の心の奥深く巣食う闇を投影したものだったに相違あるまい。

 しかし、家の者は誰一人、栄のそうした思いに気付けずにいた。今となっては、遺書を通じ彼女の無念さを知るのみである。

 ただ、ハッキリとしている事が一つだけあった。離縁された身でありながら、栄の遺書には『二夫にまみえず』と言った趣旨の言葉が記されていたそうだ。

 実家に戻されたとは言え、柴田作衛門への操を守り、栄は妻として筋を通したのであろう。

 龍馬の中に、言い知れぬ後味の悪さだけが残った。栄の笑顔は、彼女の寂しさを隠す偽りのものだったのである。

「姉上…姉上は、幸せだったがですか?」

 反芻するように、龍馬は何度も心の中で亡き姉に問い掛けた。答えなど、今更返って来るはずがない事を承知で…


 弘化二(一八四五)年の秋も深まりをみせる九月十三日、栄は様々な思いと共にこの世から去ったのである。

 その後、栄の亡骸は作衛門の計らいで彼の妻として坂本家の墓地の離れに埋葬された。栄の思いに対し、作衛門が出来るせめてもの償いであったろう事は想像に難くない──





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