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龍の如く駿馬の如く  作者: 九里瑛太
3/10

土佐の身分制度

 坂本家は大家族、しかも大変な女所帯である。

 男衆は、家長の八平と長男の権平、そして末っ子の龍馬の三人、それに対し女性陣は、病弱な母の幸を筆頭に権平と龍馬の間に三人の姉妹がいた。今は高松家へと嫁いだ長女の千鶴(ちづ)と柴田家へ嫁いだ次女の栄、そして龍馬より三つ年上の三女乙女(とめ)がそれだ。

 その上、権平の妻千野やその娘である春猪に加え、龍馬の乳母やべをはじめとする数人の女中を坂本家は養っている。

 上の二人の姉が、すでに嫁いでいるとは言え、龍馬はそうした女所帯の中で成長して来た。

 そんな、坂本家の賑々しい一日が今日も始まる。

 いつものように、この日の朝も坂本家の庭先には龍馬のオネショ布団が干されていた。

 その布団を見詰めながら、龍馬は考え込む。さすがにこの年での寝小便はまずいと自覚したのか、珍しく難しい表情で悩む。

「う~ん、どういてアシのここは勝手によばれ(寝小便)を垂れるがやろうのぉ…」

 自分の股間に目をやり、一向に治る気配のない寝小便を龍馬なりに憂いているらしい。

 しかし、そんな悩みも、朝餉が始まれば何処吹く風、龍馬は喜び勇んで自分の席に着いた。

 さぁ、坂本家の賑やかな団欒が始まった。

「どういて、叔父上の布団は毎日お庭に干してあるが?」

 まだ二歳の春猪が、辿々しい口調で龍馬に尋ねる。今朝の話題は彼女のこの一言から始まった。

「春猪、よう聞きや!アシは綺麗好きながじゃ。そうやき、毎日布団を干すがぜよ」

 などと、龍馬はいつになく真面目な顔付きで答える。

 八歳下の姪が、何気なく投じた疑問に対し、もっともらしく答える龍馬だったが、そんな彼の耳に女性陣の失笑が聞こえて来た。

「龍馬さんは、まっこと綺麗好きやき…」

 まず、権平の妻千野が、聞こえよがしにそう言いながら龍馬に視線を送る。

「何言いゆう!綺麗好きが聞いて呆れるぞね」

 乙女が呆れたように言葉を続けると、女性陣ばかりか八平や権平まで笑い出す。

「はや(もう)、みんなぁして、そがな風に笑わんでつかぁさい!」

 真っ赤になる龍馬を見て、家族の失笑が爆笑へと変わる。

 当時、武家は慎ましく食事を摂るのが当たり前の時代、そんな格式には囚われず、女性陣の会話と笑い声が絶えない明るい食事風景が坂本家にはあった。

 病弱な幸と他家に嫁いだ二人の姉が食卓の場にいないとは言え、賑々しい事に変わりはない。龍馬は、この家族団欒のひとときが大好きだった。

「龍馬!おまんは、まぁた飯をこぼしちゅう。まっこと、だきな(だらしない)ぞね!!」

 食事中、ボロボロと飯やおかずをこぼす龍馬に乙女の容赦ない叱責が飛ぶ。幼い頃からの悪癖なのだが、全く治る気配がない。

「お乙女姉やん、これはアシがだきなんじゃのぉて、アシの口がだきなちや」

 などと言っては、飄々とした態度の龍馬、毎度繰り返されるそのやり取りを呆れ気味に一同は傍観するのみだった。

 そんな賑やかな朝のひとときが終わると、八平と権平は土佐山内家代々の墓を守る廟所番の勤めに赴かなければならない。それが、郷士坂本家の勤めなのである。

「アシと権平は、廟所番のお勤めがあるき、二人共アシの代わりにしっかりと遣いをするがぜよ」

 龍馬と乙女は、八平の代理として父の実家である潮江村の山本家へ遣いに行く事となった。

「やべ、二人を頼むぜよ」

「はい、旦那様」

 龍馬と乙女の事を頼むと、八平は権平を伴い玄関を後にする。

「いやぁ、数馬は元気にしちゅうかのぉ…」

「何を言いゆう!四日前にも会うたばかりじゃろうが」

 はしゃぐ龍馬に乙女がツッコミを入れる。ここまで来ると、もはや阿吽の呼吸である。

「はや、姉やんはちっくとこんまいちや!」

 悪態を付く龍馬に対し、乙女が不敵な笑みを浮かべた。

「ほほぅ、どの口が言いゆうがじゃ?」

 危険を察知した龍馬は、すぐ様やべの後ろに隠れる。

「はや、お嬢さんも、(ぼん)さんも、えい加減にして山本様のお屋敷に参りますよ」

 いつものやり取りが始まった。やべがそれを見兼ねて、やはりいつものように仲裁に入る。

 とにもかくにも、三人はようやく山本家に向かうのだった。


 山本家は、代々武芸に秀でた家柄で、父の八平も槍と弓の免許皆伝を有する遣い手である。数馬の父代七は、八平の実兄に当たり、龍馬は幼い頃から数馬とは年が一つ違いとあって、兄弟のように仲がよかった。その山本家のある潮江村は、鏡川に掛かる天神橋を渡り、すぐなのだ。

「坊さん、そんなに急いだら危ないですよ」

 逸る気持ちを抑え切れない龍馬は、道中ずっとはしゃぎまくって落ち着きがない。やべが注意するのだが、その言葉は全く届いていないみたいだ。

「龍馬、おやべさんが言う事を聞きや!」

 堪り兼ねて乙女も注意するが、有頂天の龍馬には効き目がなかったらしい。

「姉やん、おやべさん、早よう、早よう!」と、二人を急かすばかりだった。

 そんな龍馬のはしゃぎっぷりに乙女とやべは顔を見合わせ、只々呆れたように苦笑した。


 さて、それから程なくして、ようやく三人は父の実家である山本家に到着する。

「ごめん下さい。父、坂本八平の遣いで参りました」

 乙女が玄関先で慇懃(いんぎん)に言葉を掛けると、奥から数馬の母佐尾が出迎えに現れた。

「あらあら、お乙女ちゃんに龍馬さん、それにおやべさんまで…よう来られちゅうねぇ」

 やべが会釈し、乙女が八平から預かった遣いの品を渡すと、佐尾はにこりと笑い、家で休んで行くよう龍馬達三人を迎い入れる。

 間もなくして、数馬もようやく帰宅した。玄関に並んだ履き物を見て、龍馬達が来ている事を察し喜び勇んで客間に姿を現す。

「龍馬、よう来たのぉ!」

 まるで、久方ぶりの再会を喜ぶように抱き合う龍馬と数馬、つい先日も会ったばかりだと言うのに全く大袈裟なものだ。

「これ、数馬!まずは、きちんと挨拶しぃや」

 はしゃぐ息子を一喝する佐尾、腕白な男児を持つ母の悩みどころであろう。

「あ、こりゃあ、お乙女姉やんにおやべさん、いらっしゃい!」

 龍馬への歓待ぶりに比べ、何とも粗雑な扱いである。あまりの格差に乙女もつい不満を漏らす。

「何ちや、おいさがし(乱雑)な挨拶ながねぇ…」

「こりゃあ、お乙女姉やん!相変わらず手厳しい…」

 乙女の嫌味にも、数馬は怯む事なく軽口で応戦する。幼い頃から続く、長い付き合い故のやり取りだった。

「さて龍馬、ちっくと表に行きゆうかね?」

 ──と、数馬は龍馬を誘う。

「龍馬、あんまり遅うなっては、いかんがやきの」

 乙女が釘を差すが、二人は遊び盛り、話半分にさっさと表へ飛び出してしまう。

「龍馬。おまんまだ“よばれ”を垂れとるが?」

 その話題に触れると、とたんに龍馬の表情が曇り始める。

「今朝も、お乙女姉やんにその事で、こじゃんと(かなり)叱られたがよ…」

 相変わらず寝小便が治っていないと知り、数馬は腹を抱えて笑うが、その都度、乙女から怒られる龍馬にとっては何とも深刻な問題であった。

「お乙女姉やんは、怒るとおとろし(恐ろしい)いきのぉ…」

 同情する数馬だったが、必死に笑いを堪えている。

「そうぜよ!姉やんは、お仁王様ぜよ!!」

 龍馬は頭の上で指を立て、角を作る素振りを見せながら険しい顔をして数馬の笑いを誘う。こうして、二人は乙女の事を笑い飛ばしていた。

 そんな時だ。道の向こうから、早年の侍がこちらへ近付いて来るのが見える。着ている衣服からして、どうやら上士のようだ。

「い、いかんちや!さっさと道を空けんと、斬られるがぞ!早ようしぃや、龍馬…」

 数馬の声に慌てて龍馬も従う。二人は道の端に寄り、その上士に対して深々と礼を取った。

 段々と近付く上士、それに比例するように龍馬と数馬の鼓動も速まって行く。向こうも、先程からこちらに気付いているらしく、鋭く刺さるような視線を向けながら歩み寄って来た。

「ふん!郷士のガキが…」

 そう言うと、上士は龍馬と数馬の前でその歩みを止める。二人の鼓動は極限へと達し、激しく脈打つ。恐怖で体が凍り付いたように身動きが取れない。

「相変わらず郷士のガキ(ばら)は、まっこと貧相な面をしちゅうのぉ…」

 龍馬と数馬の顔をのぞき込み、まるで品定めでもするかのように上士が睨み付ける。

 吐息がやけに酒臭い。まだ幼い龍馬達にとって、酒気を帯びた上士の呼気は堪え難い程の苦しさを伴わせた。

 そして、上士は次の瞬間、龍馬の頭髪に注目する。

「何ぜよ?おまんのその頭、しょう(非常に)クシャクシャじゃいか!?」

 今度は、龍馬の癖っ毛をワシャワシャと揉みしだき、まるで面白い物でも見るように笑いながら言い放った。

 龍馬は、泣き出しそうなくらいの恐怖に囚われる。

「目障りじゃ!早ようアシの前から消えや!!」

 笑っていたかと思えば、上士は突然不機嫌になる。二人を追い払う仕草をし、不服そうにその場を後にした。遠ざかる後ろ姿を見送りながら数馬がつぶやく。

「ありゃあきっと、お小姓組山田様が嫡男広衛様じゃ…」

「──山田広衛…?」

「父上から聞いた事があるちや…広衛様は、若うして剣の腕は滅法立つが、ちっくと酒癖が悪いそうながじゃ…」

「ちっくとではないろうが?おとろしく酒癖が悪いちや…」

 龍馬は、ドッと疲労感が押し寄せて来る思いだった。未だ周囲には、微かな酒の匂いが残る。

「げにまっこと(実に本当に)、上士ゆうがは恐ろしいのぉ…」

 土佐山内家は、他国と比べ特に身分差別の厳しい封建的な国柄と云われている。

 元々、土佐の国は長宗我部家が治める土地だった。それが関ヶ原の戦いで西軍に属した為、戦後その領地は没収され、代わって国入りしたのが山内家である。

 新しい土佐の国主となった山内一豊は、長宗我部の旧臣を抑える為に厳しい身分制度を設けた。

 譜代の家臣を上士、長宗我部の旧臣を下士と定め格差を徹底したのである。勿論、上士は様々な点で優遇され、下士は全てにおいて贅沢が認められなかった。

 暑い日も日傘は許されず、雨の日も裸足に草履、衣服も木綿など質素で粗末な物しかまとう事が許されない。そうして下士は、冷遇され続けたのだ。

 龍馬の身分である郷士は、下士では一番上の身分で騎乗も許されてはいたが、所詮は下士である。登城はおろか、政に参加する事すら許されてはいなかった。

 要するに土佐では、下士は侍として認められてはいないのだ。

 その上、上士には無礼討ちが許されていた。無礼討ちを行うのも上士次第なのである。龍馬達郷士からすれば、何とも理不尽な決まり事と言えた

 そんな差別が、この土佐で二百六十年以上もの長きに渡り、未だ続いている。

 しかし、厳しい身分制度もそれだけ長く続くと、敷いたげられて来た者の不満も募り、制度自体に歪みが生じ始める。そこで、その問題を解消しようと考えられたのが『白札』と言う制度だ。

 白札は、階級的に上士と下士の間の身分であり、下士からの取り立てもある“上士格”の懐柔的な身分として急場凌ぎで生み出された制度なのだ。

 だが、この制度により表向きは解消されたかにみえた不満も、その全てが解消するまでには至らなかった。内々に問題を抱え、そのまま今日を迎えているのが土佐の国と言う訳だ。

 このように、代々山内家は厳しい身分制度を設けて下士を抑え付けて来た。その為、上士と下士の対立は深まり、今やその不満は暴発寸前と言ってもよかった。


 そんな因縁が、この土佐では長く続いていたのだ──





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