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龍の如く駿馬の如く  作者: 九里瑛太
2/10

坂本の“よばぁたれ”

 何処かぼんやりとした“ゆる~い”雰囲気の少年が、高知城下の本丁筋をまるで風にでも吹かれているかのように、のんびりと歩いていた。

 その少年、髪はボサボサにして髷を適当に結い上げ、着衣もだらしなく乱れたままである。おまけに、鼻まで垂らしているのだから始末に悪い。

 一応、二本を差し、武士の身分である事はうかがえるのだが、何とも冴えない風体だ。

「ありゃあ、坂本の次男坊ちや。まぁた、よばれ(寝小便)を垂れたっちゅう話ぜよ!」

「ほれ、今も鼻を垂らして、みっともないぞね」

「あれでも、武士の子ゆうがかねぇ…」

「ありゃあ、武士じゃないろう!町人郷士ぜよ」

 町の人々が、次々に少年の噂を口にする。そのどれもが、失笑まじりの好意的でないものばかりだった。

 しかし、当の本人はそんな噂など全く気にした様子もなく、飄々と往来を闊歩する。

 その手の噂に疎いのか、それとも生来から来る鈍感ゆえなのか、我意に介せずと言った素振りで鼻をほじりながら、何とも呑気なものだ。

「龍馬、おまん今まで何処に行っちょったがぜよ?」

「まっことです(ぼん)さん、心配しちょったがですよ」

 龍馬が自宅に戻ると、その門前で彼の姉と乳母の女性が出迎えに現れた。

「これはこれは、お乙女(とめ)姉やんにおやべさんではないですろうか…アシは、ちっくと散歩に出掛けちょりましたぁ…」

 心配する二人をよそに、龍馬は何とものんびりとしていた。

「まぁた坊さんは、こがな風にだきな(だらしない)格好で…」

 龍馬の鼻を拭き、乱れた襟元を優しく正して行くやべ、そんな彼女の後ろから、乙女が突然割って入る。

「散歩じゃないろう?おまんの仕出かした“アレ”のおかげで、今日も坂本家は笑い者ぞ!」

 そう言って乙女は、家の庭先を力強く指差した。龍馬は姉の促すまま視線を移してみる。すると、そこには見覚えのある布団が干されてあった。

 翌々目を凝らすと、布団の真ん中にデカデカと自己主張するように大きな染みが見て取れる。どう見ても、オネショの染みに違いない事は明白だ。

「仕方ないですろう…アシにも、よばれはどうにもならんき…」

 あろう事かこの龍馬、十歳にもなろうと言うのに未だオネショの癖が治らないのだ。

「おまん、まっこと治そうち思うちゅうがか?」

 そんな姉の問いに対し、龍馬はほんの一瞬だけ思案したような素振りをしてみせる。

「アシじゃち、努力はこじゃんとしちゅう!けんど、アシのここがぁ言う事を聞いてくれんちや」

 まるで、他人事のように無責任な物言いで、龍馬は自分の股間をスッと指差した。

「龍馬!おまんはどういて、ぎっちり(いつも)そうながじゃ!?」

 何とも飄々とした弟の態度が、乙女の怒りを煽る。

「まぁまぁ、お嬢さんも、坊さんも、その辺りで…」

 ──と、二人のやり取りを見兼ねたやべが、これを制す。

「おやべさん、龍馬を甘やかしちょったら困るぞね」

 などと、乙女はまだまだ文句が言い足りないらしい。ところが、いつの世も世間体と言うものは存在する。

「さぁ、お二人共、早ようお屋敷に入りましょう」

 取りも直さず、やべは龍馬と乙女を屋敷の中に入るよう促すのだった。これ以上、門前で姉弟の言い争いが続けば、それこそ世間の物笑いの種となろう。


 ここ、高知城下本丁筋に面した一角に『才谷屋』と言う、商売事は勿論、酒造、金貸しなどを営む大商家がある。その才谷屋の分家筋に当たるのが龍馬の郷士坂本家なのだ。

 坂本家は元々、大浜姓を名乗り長岡郡才谷村で農業を営む豪農の家柄だった。それが八兵衛守之の代に高知城下に出て、質屋を始めたのが才谷屋の始まりとなる。

 その後、龍馬の曾々祖父である三代目才谷屋八郎兵衛直益の代に『郷士株』を購入、長男の八郎兵衛(八平)直海がそれを継いで分家したのが龍馬の“郷士坂本家”の始まりであり、次男の八郎右衛門直清が継いだのが本家“才谷屋坂本家”と言う訳だ。

 そして、郷士坂本家の二代八蔵直澄が養女幸の婿にと迎え入れ、常八郎直足と称したのが、若き日の龍馬の父であった。常八郎は、文政五(一八二二)年八月には長兵衛と名を改め、さらに天保十四(一八四三)年四月十三日に八平と改名する。

 こうして、郷士坂本家は今に至る訳だが、そのルーツは生粋の武士ではなく、金で士分を買った、謂わば『譲り受け郷士』と言う存在だったのだ。

 その為に父八平は、龍馬に対し常々、厳しく武士の心得を説いて来たのである。それは無論、息子の将来を案じての事だ。

「えいか、龍馬?我が坂本家は、ご先祖様が金で士分を買い、侍になったき、その事で町人郷士と蔑む者もおる。そうやき、おまんは誰よりも『侍』らしゅうせんといかんがじゃ!」

 ──と、八平は事あるごとに説いて聞かせたが、そんな父の言葉が虚しい程、龍馬はのんびりとした少年に育った。

「龍馬?おまん、分かっちゅうがか!?アシは、おまんの行く末を心配しちゅうがぜよ!」

「はぁい、大丈夫ですきぃ父上…何とかなりますろう」

 ゆっくりと間延びした口調で、ニコリと龍馬が答える。万事が万事、いつもこの調子なのだ。

 父の心配など関係なく、龍馬は安穏としている。親の心子知らずとは、まさにこの事だ。

「どういて、おまんはこがな風に育ったがかのぉ?」

 庭先の布団を見詰め、八平は溜め息を漏らす。根拠のない自信に満ちた龍馬の笑顔、我が子ながら何処から自信が湧いて来るのか不思議でならない。

 こんな調子では、龍馬の将来は一体どうなってしまうのか、そう考えると、八平は不安で堪らなくなる。

「ほんだら父上、アシは母上に挨拶して来ますきに」

 この通り、龍馬は父の話などそっちのけで母の元へと急ぐ。

「これ龍馬、母者は体が弱いき、あんまり無理をさせたらいかんがぜよ!」

 龍馬の母幸は、生来の病弱に加え、労咳を患っていた。故に普段は養生を兼ねて、日当たりのよい離れで休んでいる事が多い。その為、龍馬の養育は乳母であるやべに任されていた。

「坊さん、あんまり長う時間はいけませんよってに…」

 やべが念を押すと、龍馬は少々不満げな表情を浮かべる。

 まだまだ母恋しい年頃の龍馬、いつもの事とは言え、彼を不憫に思いつつ、やべは諭すように説明を続けるのだった。

「坊さんのお母上は、お体が弱いですき、無理をさせてはいかんがです。えいですね?」

 龍馬は無言でうなずくと、幸の部屋へと急いだ。部屋の前に辿り着き、逸る気持ちをグッと堪え、そして声を掛ける。

「母上、龍馬です。入ってもえいが…?」

 障子の向こうから、小さな影がのぞく。幸と龍馬にとって、母子が触れ合える唯一の楽しいひとときである。

「ふふふ…お入りなさい」

 誘われるまま、龍馬は静かに障子を開き、そっと部屋の中をうかがう。すると、優しくほほえむ幸が迎え入れてくれた。

 龍馬は、母のこの笑顔が大好きだった。母の笑顔を見ていると、不思議と心の奥底が温かく満たされて行く。

「龍馬…今朝も、まぁたやりましたね?」

 そう言いつつ、幸は必死に笑いを堪える。不思議に思う龍馬は、母の視線の先に気付き、しまったと後悔する。

 何と、開けっ放しなっていた障子から自分のオネショ布団がのぞいていたのだ。

「いやぁ、あれは…」

 慌てて障子を閉めたが、すでに後の祭りである。しっかりと幸に目撃されてしまった。

「えいがですよ龍馬…おまんは、おまんらしゅう生きなさい!それでえいぞね」

 龍馬をそっと抱き締め、幸は優しくほほえでみせる。

「母上は(ぬく)くて、えい香りがするぜよ」

 幸の腕の中、龍馬はその温もりに深く身を委ね、母の言葉を反芻して行く。

「おまんは、きっと大きな侍になるぞね!そうやき、今は焦らず、ゆっくりと自分らしゅう生きなさい」

 龍馬にとって、幸は一番の理解者であり、また彼を支えてくれる唯一の存在であった。それは龍馬が生まれた時から、ずっと変わる事なくだ。

 息子の将来に期待し、少しも疑わず彼を慈しみ続けて来た。だからこそ、龍馬は町の人達の陰口を気にする事なく、自分らしくブレずに振る舞えたのだ。

 母がいたからこその自分だと、龍馬は幼いながらも彼なりに理解していたのかも知れない。

「母上、早ようよくなってつかぁさい」

 龍馬の言葉に、幸は嬉しそうにほほえみ、ゆっくりと静かにうなずくのだった。

「おやべさん…」

 幸は、部屋の外に控えるやべに声を掛ける。

「はい、奥様」

「龍馬を…お願いね」

 そう言って、やべに龍馬を託し二人を悲しげに見詰めた。愛しい我が子に思う存分の愛を注ぐ事の叶わないもどかしさ、その葛藤が狂おしい程の苦痛となって、幸の身体中を駆け巡る。自分の体の弱さをどれ程呪ったか知れない。

 二人を見送った後、幸は人知れずさめざめと涙を流した。

「母上、早よう元気になるとえいのぉ…」

 幸の部屋を後にした龍馬は、ポツリと一言やべにつぶやく。

「まっこと、そうですねぇ…」

 寂しそうな表情を浮かべる龍馬を見ていると、やべは切ない思いでやり切れなくなる。

 幸と龍馬の母子は、互いに互いの事を思うが故に一緒にいる事を許されない。まるで、ハリネズミのジレンマの様に…

「大丈夫。坊さんの優しさが、神さんにもきっと届きますよってに奥様は必ずようなります」

 やべの言葉に安心したのか、龍馬は笑顔を取り戻す。この笑顔を見て、幸の早い快気をやべも願わずにはいられなかった。そして、思う存分、この母子が触れ合えるようにと切に願う。

 幼い頃から、実母の幸に代わり育てて来た龍馬だ。やべも、今や実の子のようにこの少年を思っている。そんな龍馬が、心から笑顔になれる日をやべも強く望んでやまない。

 そんな龍馬とやべが、幸の部屋を後にして廊下を進んでいると、そこに乙女が現れた。どうやら、二人が幸の部屋から出て来るのを待ち構えていたようだ。

「龍馬、ちっくと来ぃや!」

「何ぜ?姉やん…」

「えいき、ちっくと来ぃや!」

 乙女に無理矢理と手を引かれ、龍馬は姉のなすがまま、後ろを着いて行く。

 見れば、乙女の腕には竹刀が二本携えられている。何となく嫌な予感がする龍馬であったが、こんな時の姉には逆らえない事を彼は十分に悟っていた。

 その刹那、乙女の素早い突進から、龍馬の頭部へと痛烈な一撃が見舞われた。

 途端、バチンッと乾いた竹刀の音が響き渡る。

「いっ、痛いぜよ!」

「何を言いゆうがじゃ!武士の子がこればぁの事で情けない!!」

 龍馬の悲痛な叫びにも、乙女は全く容赦がない。

「痛いがは痛いがじゃ!」

 もう、龍馬は半泣きである。

「そがな事ゆうても、手加減はせんきにの!」

 乙女は、たるみすぎて見兼ねた弟を剣術をもって鍛え直そうと言うのだ。

「たんま!たんまじゃ、姉やん」

「待っちゃあせんぞ!龍馬!!」

 弟の涙の懇願にも、問答無用で乙女は竹刀を打ち込む。

「ぎゃひぃぃぃぃぃぃっ!!」

 後に“坂本のお仁王様”と徒名される乙女のしごきに龍馬の叫び声が天高くこだまして行く。


 幕末の時代を駆け抜けて行く坂本龍馬。その英傑のまだまだ多難な十歳の頃であった──




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