龍馬誕生!
ここは土佐の国、高知城下土佐郡上町である。その本丁筋に面した一角に、坂本長兵衛直足と言う土佐では下級武士の身分にあたる『郷士』の屋敷があった。
長兵衛は文武に秀で、性格も温厚で人当たりもよいと評判の武士である。そんな長兵衛の妻が、今まさに臨月を迎えていた。
「幸、体の方は障りないがかえ?やや子はどうぜよ?」
幸は生来の病弱に加え、齢もすでに四十を越える高齢だった。それ故、長兵衛は母子の身を毎日のように案じるばかりだ。
「えぇ、今日は暖かいですき、調子もえいがです」
猫好きの幸は、長兵衛が心配するのもお構いなしに、いつものように猫を抱き上げ、軽くほほえんでみせる。
「けんどのぉ…おまんは体が弱いき、アシは心配で心配で堪まらんがじゃ!」
それでも尚、長兵衛は妻の事が心配なのだ。
「大丈夫ですき。それよりおまさん、アテは早ようお腹の子が見たいがです」
まだ見ぬお腹の子に思いを馳せると、幸は嬉しさが溢れ出さんばかりにニコリと笑う。
思えば、三年前に子が生まれた時も病弱な幸の体を気遣い、これで最後と願掛けのつもりで長兵衛はその時の女児を『乙女』と名付けた。
しかし、長兵衛の思いをよそに幸はその後も次の子が欲しいと願い続けた。そんな願いが天に通じたのか、今また新しい命を彼女は授かる事が出来たのだ。
「元気に生まれて来ぃや」
そう言って、幸は嬉しそうに、ゆっくりと優しくお腹を撫でながら笑った。そんな妻の姿を見ていると、長兵衛も嬉しくて、ついつい笑顔になってしまう。
小春日和の暖かな陽射しが部屋に差し込み、二人を優しく包み込む。幸の笑顔が、その日差しにキラキラと照らされ輝いていた。
それから数日後、一人の男児が産声を上げる。
時は天保六(一八三五)年十一月十五日──
坂本家にとって、嫡男の権平直方以来、実に二十一年ぶりの男児誕生だった。長兵衛は、この男児の誕生を大いに喜ぶ。
ところがである。喜んだのも束の間、長兵衛はすぐ様、赤ん坊の姿に驚愕する。
「何ぜよ?妙ちくりんな子らぁ産まれて来よった…」
長兵衛が嘆くのも、無理からぬ事だった。その子の頭髪は、呆れる程に縮れ、背中には奇妙にも、うっすらと鬣らしき毛まで生えていたのだ。
赤子の誕生を待ち詫びていた家族が、一斉にのぞき込む。
「ち、父上、背中に毛が生えちゅう…」
長男の権平が不思議そうに眉をひそめる。
「こ、こればぁ妙ちくりんな赤ん坊は、まっこと初めてぞね」
長女の千鶴が言葉を続けると、次女の栄と三女の乙女もそれにうなずく。
家族揃って、只々唖然とするばかりだった。
「どういて、こがな風な子が産まれて来たがやろう?」
長兵衛は溜め息をつき、落胆の色合いを露わにする。弱々しく泣き続けるこの男児に、家族の誰しもがその行く末を案じずにはいられなかった。
「この子は、一体どうなるろう…」
まじまじと我が子を見詰めながら、長兵衛がつぶやく。
しかし、長兵衛や家族の嘆きをよそに、母の幸だけはこの弱々しい我が子に大いなる期待を寄せていた。
まだ身籠っていた時分の事、夢うつつの中、自身のお腹に龍と馬が入って来たのだと云う。
「おまんは龍の如く、駿馬の如く羽ばたいて、いつか大事をなすがです!」
幸は、生まれたばかりの我が子を抱き上げ、語り掛けるように優しく言い放った。
男児には、母の大望が込められ『龍馬直陰』と名付けられた。
そして、時は流れ──