第1話
月の裏には何があるのかな。
連れて行ってくれるって約束してたのに。
ウサギと一緒に餅つき大会しようって。
嘘つき。
「怪物と戦う者は、みずからも怪物とならぬように心せよ」
ニーチェという人が言った。続けて、
「汝が久しく深淵を見入るとき、深淵もまた汝を見入るのである」
終わりを知りえない闇がある。宇宙の漆黒。
〇 〇
人間が長年かけて開拓した月に男と女がベッドで休んでいる。
月に住む人たちは寝静まり酸素供給の機械音や外灯の微かな光が月で活動している。
しばらくすると、日差しが月に当たり辺りが明るくなる。
建物の外壁には太陽光線を吸収する素材が練りこまれている。他にもアジアンテイストの路地が縦横無尽に成長発達している。
人々は目覚めて各々好きなことをやり始める。
人々は月で生きるためサイボーグ化され脳も電子化された。まだ動きがぎこちない。自転車に乗っても上手に右折左折しきれず行きかう人や建物にぶち当たる。壊れた建物や道路はロボットが修復する。
人々はお金を生む作業はしていない。興味のあることに没頭して生を費やしている。
生きる上で必要な作業は全自動の電動化されている。AIたちが活きている。
月の住民はサイボーグ化した人間よりAIなどの非人間の方が多く存在している。
ヨーロッパの城をわが家にしている男がいた。名前はハル。月を島に見立て新しい生命、生活を提供するとある企業のトップ。社員は人型AI。自身もクローンAIを作り月で生活している。オリジナルである生身のハルは機械に繋がれて死も生も認識できない状態で地球に存在している。
月にいるハルは2,30代の容姿をしている。ベッドで裸のまま掛け布団から足と上半身を出しあおむけで開放的に寝ていた。
横には同年代とは言い難い少女といってもいいぐらいの女の子が体を丸め顔を布団の中に埋め男に背を向け眠っている。名前はコワク。
9時。部屋の中にハウスキーパーの人型AIが入ってきてワゴンに朝食を持ってきた。
寝室にはベッドとソファーとテーブル。窓際に丸テーブルと背の高い椅子が2脚置いてある。それ以外のものは絵画や花瓶など。中身が入っていないアンティーク品のタンスやカーテン、絨毯など。もちろん、全部複製品で今となってはオリジナルは存在しないものもある。
ハウスキーパーの料理担当はイタリアのコックのような服を着ている。背の低いコック帽の頭を右にたらし服の淵は紺色。人型であるが目鼻などのパーツはない。手は5本指あるが足に指はない。メタリックな色と質感。けれど、人より滑らかに体を動かす。
ベッドわきの丸テーブルに料理皿やコップや器を置いて、最後に中央にガラスの花瓶を置いた。チューリップが11本。ピンクや紺、白色などで料理担当は主人とその横に眠るコワクのモチーフの色を選んだ。
ハルより先にコワクが物音で目を覚ました。
おはようございますと料理担当が先に言うとコワクも朝の挨拶を返した。ソファーに落ちていたガウンを取ってコワクに渡した。ボタニカル柄のキルティングガウン。コワクには少し大きめでドレスのように裾をひきずる。コワクには大きいですよと忠告したアンドロイドがいたが、駄々をこねて自分のものにした。
コワクは目をこすりながらタンスの中から水墨画のような掌より一回り大きな牡丹のアクセサリーを取り出した。
料理担当が朝食の準備を終え、ワゴンを押して部屋から出ようとすると、
「ねぇねぇ、目瞑って」
立ち止まり近づいてきたコワクの方に体を向けた。
「目がないので瞑れません。目を閉じるというような行為は私には必要ないですし」
「じゃぁ、目の前を見えないようにして」
「シャットダウンしたら再起動に時間がかかります。存在してからまだシャットダウンしたことがないので再起動は可能性の話ですが」
「う゛ーん。上を向いて。それなら出来る?」
「可能です」
コワクは牡丹のアクセサリーを頭に飾ろうとしたが届かなかった。
「しゃがんで」
「跪きましょう」
頭部にアクセサリーを引っ掛けるような髪の毛はなかった。コワクは慌ててBプランを探す。
コックの服の詰まった襟に飾り付けた。感度の機能が無いので料理担当は何をされたかわからなかった。
「もう上を向かなくていいよ」
「了解しました」
「どう?」
「どう?と言われましても、私には何が起こったのか理解できません」
コワクは手を引っ張って鏡の前に連れて行った。
「襟元みてみて」
「目視しました。目はないので正確には違いますが」
「どう?」
「襟元に何かあるということはわかりますが、コワクが何を期待しているのか。応えることは不可能です。理解できず申し訳ありません」
「そっか。とにかく、その襟元の花はずっと飾っていてね。あなたの名前はこの花と同じ牡丹だよ」
「私に名前はありません。固有名詞はAIやロボット。製造番号や型番などの名称ならあります」
コワクは腕を組んで頭を傾げた。名前がないとはどういうことなのか。料理担当が何を言っているのかもよくわからなかった。
「だったら私がボタンっていったら、あなたを呼んでいるということだからね。わかった?」
「了解しました。コワクがボタンと発せば私は応答、反応いたします」
「よかった。ボタン、料理ありがとう」
「当たり前のことをしたまでです」
そして、ボタンはワゴンを押して部屋を出て行った。
様子を一部始終見ていたハル。肘をついてベッドの上で寝転んでいた。コミュニケーションをAIととるコワクを微笑ましくも瞳には凍ったままの心を宿している。
ハルの視線に気づいたコワクはとくに朝の挨拶もせず、朝食の並ぶ席に着きいただきますと手を合わせてからオレンジジュースの入っているコップを手に取って口を付けた。