すれ違い出会いと別れを繰り返す
男は今年で40歳になった。未だ独身を続けている男だが、恋愛とは無縁の人生だったかと言うとそうではない。男はこれまでに何度か女性と付き合った事があった。
しかし、長続きする事は無かった。遊びのつもりはまったく無かったが、結婚したいとは思えなかった。結婚が嫌だった訳でも無い、彼女達とも将来結婚するつもりで付き合っていた。
だが、結婚に踏み切れず何度も別れを繰り返した。
男には、理由がわかっていた。今でも時々夢に見る、幼稚園の時から仲の良かった幼馴染。彼女の事をまだ思い続けていた。
幼稚園、小、中、高と一緒だった彼女。家が近所で帰り道もずっと一緒だった、部活で男がどんなに遅くなろうと彼女はずっと待っていた。
「俺に時間を割きすぎると彼氏出来ないぞ」
あの時どんな気持ちで言ったのかわからない。恐らく冗談で言ったのだろう。軽口を言い合うのが普通の関係だった。その言葉を聞いた彼女は、男の顔を見ずに雲の間に隠れた三日月を見上げながらこう言った。
「その時は……☓☓に養って貰おうかな」
思わず驚き彼女の顔を見ようとするが、彼女は歩幅を広げ男の少し前を歩き始めた。男は、何か上手い返しを考えたが何も思いつかなかった。帰路の間、二人は無言だった。
「じゃあ、また明日ね」
自分の家の前に来た彼女は、いつもと同じ台詞を口にした。いつもと違う所と言えば足早に家の中に入って行った事くらいだ。彼女が家に入るのを確認した後に自宅へ戻った。男はその日一晩考えた、あの時の彼女の台詞は冗談だったのかどうか。
翌日彼女と再び顔を合わせるのが気恥ずかしかったが、彼女はいつも通り平然としていた。男はホッとしたが、少しモヤモヤした感情を覚えた。その後も彼女は暫く変わらなかった、学校のある時は毎日登下校を共にして、休みの日は互いに暇なら遊びに行く。当時周りにいた恋人達と変わらない事をしていた。
当時はこの環境に満足していた。告白してもしこの日常が壊れてしまう事を考えると、下手な事は出来なかった。女は星の数ほどいるとか、ダメでも次があるとかそういう考えはありえなかった。男には彼女しかいなかったのだから、一度失敗したらもう次は無かったのだ。
しかし、そんな男だが彼女に告白する決断をした。いつまでも変わらない日常を信じていた男だったが…………いつからだろう、彼女の態度が変になったのだ。
高校3年の春頃だろうか……今までずっと登下校していたのに突然忙しさや体調不良を理由に拒み始めたのだ。
最初の頃は、あまり気にもしていなかった。むしろ今までがべったりすぎた、受験シーズンだし、自分の時間も欲しいはずだ。しかし、彼女の変化はそれだけではなかった。
学校内で会っても目を逸し会話も少なく、接触を避けるようになった。その変化は、周りのクラスメイトにも感じ取られたようで喧嘩したのか? 早く仲直りしろよ。と言われるようになった。
彼女を不快にさせる様な事に心当たりがまったく無かった男は、困り果てて友人達に相談した。その内の1人がふざけ気味にこう言った。
「彼氏でも出来たんじゃないか?」
あくまでも冗談で言ったのだろうが、その言葉が脳内で反響した。火花が散ったように目がチカチカした感覚を今でも覚えている。
男は、その日部活を休み帰路につく。一人で歩く寂しさに慣れる事は最後まで無かった。歩きながら彼女と話していた日々を思い出す。男は決心した。彼女に告白する事を。
放課後、友達のつてを使って彼女を人通りの少ない校舎裏に呼び出した。彼女は、来るなり男の顔を見て驚いた。呼び出した友達は男がここに居る事を伝えなかった、それほどまでに彼女は男との接触を避けていたのだ。
驚きの表情を浮かべた彼女だったが、直ぐ俯き男から視線を逸らす。男は、久しぶりに近くに来た彼女を見てどこか違和感を覚えた。雰囲気が大人びて落ち着いているような気がしたからだ。
両者無言のまま5分ほど過ぎた時だろうか、しびれを切らしたように彼女が口を開いた。
「……こんな所に呼び出して何か用ですか?」
男の違和感は更に増した。彼女は今まで男に敬語など使ってこなかったからだ。男は彼女に一体何があったのか気になった……。しかし、自分がここに来た目的は彼女の詮索ではない事を思い出し、ゆっくりと深呼吸をしてこう言った。
「……今までずっと曖昧にしていたけどしっかり言うぞ。お前の事がずっと好きだった! 俺と付き合ってくれ!」
彼女は、その瞬間俯いていた顔を上げた。男は彼女の目をしっかりと見据える。すると彼女の目からは、涙が溢れ始めた。男が驚き戸惑う中、彼女は両手で顔を覆いしゃがみ込んだ。
「…………ごめんなさい、あなたの事は好き。大好きだけど……あなたとは付き合えないです」
目の前で泣き続ける彼女、桜の木から落ちる緑色の葉、近くの池で鯉が跳ねる水音。彼女の台詞を聞いた瞬間、その全てがどこか他人事のように思えた。彼女が涙を流し続けている間、男は一滴の涙すら出なかった。
男は無言でその場を離れた。好きなのに付き合えない理由、何故態度が急に変わってしまったのか、聞きたい事は沢山会ったが聞けなかった。当時の男は若すぎたのだ。
彼女の泣き声を背中で聞きつつ男は、自分の人生を振り返る。殆どが彼女と一緒だった。そんな彼女に振られた。自分の人生は一体何だったのだろう……男は自分の存在意義がわからなくなった。
大人からしたら十年ちょっとしか生きていない人生など鼻で笑ってしまうかもしれない。しかし男にとってその十年ちょっとの人生が全てであり、その全ての大半を一緒に歩んだのが彼女だったのだ。
男はその日から彼女に一切話しかける事は無くなった。彼女も一切男に話しかける事は無かった。男と彼女は、それぞれ別の大学に進学した。そしてもう二度と会う事は無かった……。
今でも考えてしまうIF、もっと前に彼女に告白していれば……今隣にいたのは彼女かもしれない。そんな事を考えてしまう、だがどんなに考えた所で仕方がないのだ。人生は1度しかない、学生時代に誤った選択はもうどうしようもないのだ……。
たまに彼女の夢を見た後に、自分への後悔の念に駆り立てられるが、今日はやけに気持ちを切り替えられなかった。少し嫌な予感がしたが、とりあえず気分転換をするためにテレビを付けた。テレビに映ったニュースの画面を見て男は、持っていたコップを思わず落としてしまった。コップが砕け散る音は、一切耳に入ってこなかった。男の耳はニュースの情報を聞き取るために神経の全てを割いていた。
『今朝、○○県○○市の○○町でトラックが乗用車に衝突する事故がありました。乗っていた○○さん(40)が全身を強く打ち、搬送先の病院で死亡が確認されました』
幼馴染である彼女の名前だった。男は同姓同名の別人だと思った、いや脳がそう思わせた。何故彼女が死ななければならないのだ……別人に決まっている。しかし、男のモヤモヤは収まらない、頭を抱えて何とか彼女本人かどうか確認する術はないか考えた。
ふと突然男の頭に浮かび上がった数字、彼女の実家の電話番号だ。携帯電話が無かった学生時代、何か話したい時があった時はわざわざ彼女の実家に電話をしていたのだ。
完全に忘れていた電話番号が何故か突然頭に浮かんだ。あの時何度も使った電話番号……ゆっくりとスマートフォンを取り出す。
しかし、数字を打ち込もうとすると指が震えた。昔遊んでいたとは言え、他人の男が突然自宅に電話するのは気持ち悪くないか? 死んでいるとも限らないのに、突然娘さんの生死を確認するのは無礼ではないか? まだご両親は在命しているのだろうか、そもそも自宅自体がまだ存在しているのだろうか? 様々な疑問が頭に浮かび入力する事を男に躊躇わせる。
だが男は決心して数字を打ち込んだ。ここで行動しないと絶対に今後後悔する、それなら変質者扱いされても構うものか。
ゆっくりとスマートフォンを耳に当てる。心臓の音と共にコール音を聞きながら、男は汗ばむ手をズボンで拭った。
そしてコール音ではなく雑音が聞こえ始めた……繋がった。
「も……もしもし、あの○○さんのご自宅ですか?」
舌が乾き、脂汗が額に出る。相手の返事を待つこの数秒の時間を男は、数分のように感じていた。
「あぁ……そうですが、どちら様でしょうか?」
良かった、彼女の実家だ。男性の声だが掠れてかなり聞こえづらいが聞き覚えがあった、彼女のお父さんの声だ。男は、名前を名乗るべきか迷ったが話を進めるためにも名乗る事を決めた。
「☓☓です。昔○○さんと一緒に遊んだ……」
「あぁ! ☓☓君か! 懐かしいなぁ……昔は、娘がよくお世話になったもので……」
「い、いえ、とんでもないです……。僕の方こそ彼女に色々助けて貰って……」
彼女のお父さんは男の事をしっかりと覚えていた。警戒を解いたのか、声のトーンが一瞬上がった相手の声を聞いて、男は心の中でホッと一息付いた。
「ところで……電話してくれたのは、娘の事かな?」
声のトーンは直ぐに低くなった。その台詞を聞いてツバを飲み込む男、嫌な予感がする。脳内が警告を発する……これ以上踏み込むな、今電話を切って全て忘れれば日常に戻れるぞ。もうお前とは縁の切れた女だ、知る必要は無いあの女の事は忘れろ。
男の脳内に様々なメッセージが流れ込んでくる。だが、男は浮かんでいた考えを全て振り払った。彼女を忘れる事は出来ない、きっと死ぬまで思い続けるだろう。あの時間違えた選択の結果を男は知る必要があると思った。
「……はい、○○さんの事です。ニュースで見ましたがあれは本人ですか?」
しっかりと言えた。違うと言って欲しい、彼女は知らない場所で幸せになっていて欲しい。相手の返事が来るまでの間、男は必死に願っていた……だが。
「……あぁ、娘は今朝に亡くなったよ」
覚悟はしていた──していたはずだった。だが男はその言葉を聞いても現実として受け入れられなかった。あの時と一緒だ、あの振れられた時と同じ。流れたままのテレビの画面も壁に掛けられたスーツも電話の先の声も全てが他人事のように思えてくる。
電話先の相手は泣いていた、だが男は泣けなかった。悲しくないはずがない、だが男は結局彼女に振られた時も彼女が死んだ時も泣く事が出来なかった。
40年生きてきても何一つ変わらなかった、男は彼女に振られた時点で抜け殻になっていたのだ。
葬儀の時には、是非来て欲しい。来るのが辛かったら線香だけでもあげに来てくれたら娘が喜ぶと伝えてくれた。電話を切ってその場にしゃがみ込む、先程落としたコップの破片が身体に食い込んだが痛みさえ今は、どうでも良かった。
彼女は独身だったらしい、今まで誰かと付き合った話も聞かなかったようだ。あの時好きな人が他に出来たと思っていた、そうでないなら彼女はあの時何故自分を拒んだのだろう、彼女は何を思って生きてきたのだろう、男は答えのない問題を頭の中で解こうとしていた。
男が天井をぼんやりと見上げていた時だった。黒い霧が天上から降りてきたのだ、男は幻覚かと思って目を手で擦った。それでも黒い霧は消えなかった、ゆっくりと立ち上がり目を凝らすが黒い霧はしっかりとそこに存在していた。両手を広げた幅ほどの黒い霧は、上階の火事かと思い焦る男を尻目に人語を発した。
「○○が死んだのはお前に原因がある」
黒い霧から低く唸るような声がした。突然黒い霧が人語を発した事よりも男はその内容に驚いた。幼馴染の彼女が死んだ原因は自分にあると言った黒い霧に、男は会話を試みた。
「俺が原因……何故だ! 俺が一体何をしたって言うんだ!!」
「詳しい事はお前には教えられない、規則だからな」
何が規則だと男は思った。この黒い霧は、自分の精神が壊れてしまった事による幻覚で声が聞こえるのは幻聴だと男は認識していた。俺もついに壊れてしまったかとしみじみ他人事のように思う男であったが、不思議と会話は止められずにいた。
「……お前は一体何だ? 俺の幻覚だよな」
「いや、俺は悪魔だ。お前に取引を申し込みに来た」
「……取引?」
40歳にもなって悪魔を召喚してしまった自分の妄想力に呆れた男であった。悪魔と名乗った黒い霧は、そんな男の考えを知っているのかわからないが話を続ける。
「お前を高校時代に時間を巻き戻してやろう」
「本当か!?」
その言葉を聞いて思わず学生時代の彼女を思い浮かべた。あまりにも自分に都合の良すぎる言葉、これが今自分の望んでいる事なのだと認識する男であった。
「あぁ、だが対価を頂く」
「……対価?」
「お前の寿命を半分頂く、貴重な学生時代をまた味わえるんだ。お得だろ?」
どこか楽しそうに発言する悪魔。どうせ戻れる訳がない……が戻れるものなら寿命の半分を差し出しても戻りたいものだ、この先どれだけ生きられるのかわからないが、彼女が死んだ事を引きずりながら生きていくのは目に見えていると考える男だった。
「寿命の半分をあげても良い! だから俺を学生時代に戻してくれ!」
男は叫んだ、心からの叫びだった。その言葉を聞くと同時に黒い霧の悪魔は、男の身体を包み込む。男の身体は宙にゆっくりと浮かぶ、その光景を見て現実感を取り戻す。
「……う、うそ。まさか、本当に悪魔!?」
「契約は成立した、サービスだ。戻る時間を指定しろ」
男は慌てた、だがこの悪魔が本当なら自分は戻れるかもしれない。男に取って思い出したくない記憶、彼女に振られた日。あの結果を変える事が出来たら……。
「……高校2年の冬に戻してくれ」
「承知した。では時間を巻き戻してやろう……あぁ、言っておくが次巻き戻した時は減った寿命の更に半分を対価として頂く事になるからな」
その言葉の後に、男の視界は漆黒で包まれた。身体はまるで浮遊しているような感覚、だが突然男の浮遊感は消え奈落の底へ落下する。
「うわぁああああ!?」
ガッシャーン。という音と共に後頭部と背中に衝撃を受けた。痛みで背中を擦り、周囲がやけにざわざわしているので起き上がると……。
「☓☓お前、寝ていただろ。何がうわぁああだ! 後ろで立ってろ!!」
視界に映ったのは、高校時代の数学教師……。数学教師なのに何故か白衣を着てメガネを掛けていたおっさん。そして周囲には……。
「☓☓やべー! 叫びすぎ!」
「☓☓まだ、寝ぼけてるよ。おーい、起きてますかー?」
高校時代のクラスメイト達、そして景色は当時の教室だった。慌てて自分の服装を見る……男の服は、高校の制服だった。あまりの出来事に呆然と立ち尽くす男。
「……おい、☓☓大丈夫か? 体調が悪いなら保健室に行って来ていいぞ」
男の様子を見て異常を感じたのか、心配する数学教師。男は、何を言って良いのかわからず無言で立ち尽くしたままだった。さすがに周りのクラスメイトもおかしいと思ったのかざわつき始める。
「あー、○○。……お前☓☓を保健室まで連れて行ってやってくれ」
「わかりました」
教師に指定されたのは、幼馴染の彼女だった。そうだ、高校2年の時彼女とは同じクラスだった。ゆっくりと自分に近づいてきた彼女の姿を見て、男は涙を流した。彼女に振られた時も彼女が死んだ時も流れなかった涙だったが、再開した時に初めて流れた。
その様子を見て増々ざわつく教室内、彼女は慌てて男の手を掴んで強引に教室の外に連れ出した。教室を出て直ぐに彼女は男に声を掛けた。
「一体どうしたの? 頭強く打ちすぎた?」
保健室を目指し歩きながらも男の顔を心配そうに見る彼女。男の涙は止まらなかった、今まで溜め込んでいた分を全て吐き出すように流し続けていた。男は何か言おうと思ったが、何も言えずにただ無言で彼女の手に導かれながら保健室にたどり着いた。
「保健室の先生不在かぁ……ちょっとまってね、とりあえずここで横になって!」
保健室のベッドは全て開いていた。その内の1つに男を座らせ、氷枕を持ってきた彼女。
「とりあえず、これ使って頭冷やそ。先生に何か言われたら私が伝えるから」
言われるがまま横になる男。表情や仕草、全て変わってしまう前の彼女のままだ。心配して覗き込む彼女の顔を見ながら、男はまだ涙を流し続けていた。
「大丈夫……? とりあえず、私先生探して来るから待ってね!」
そう言って背を向けた彼女の手を咄嗟に掴んだ男。驚いて男の方を向き直る彼女。現実なのか精神が壊れた先に見ている幻覚なのか男にはわからなかったが、男はもう彼女を失いたくなかった。彼女の手を掴んだまま上半身を起こす。
「ずっと……ずっと、君の事が好きだった。時々夢に見るほど、君を忘れる事が出来なかった……僕と、僕と付き合ってください」
涙でくしゃくしゃの顔だったが、男は彼女の顔を見つめ続けた。彼女は、ポカーンと口を開けていた。男の頭の中で振られた時の情景がフラッシュバックして吐き気をもたらす。
彼女は、片手で口元を抑えて沈黙を破った、それは彼女の笑い声だった。
「ふふふ……ちょ、ちょっと笑わせないでよ! 君……とか僕……とか誰だよ!? って感じ!」
男の生涯を掛けた思いを全て込めて口にした発言だったが、彼女からしたら冗談にしか聞こえなかった。男は、巻き戻しても結末は変わらないのかと落胆した。掴んでいた彼女の手を離して、両手で顔を塞ぐ。
その様子に気がついたのか、彼女は笑うのを止めた。少しの間、保健室が静寂に包まれた。そして再び口を開いたのも彼女だった。
「……まぁ、今の言葉本気なら凄い嬉しいよ。私も☓☓の事好きだから」
ゆっくりと涙を手で拭いながら彼女の顔を見上げる男。彼女は恥ずかしそうにもじもじしていた。
「本気なら……。今度の土曜日……家遊び行くから、その時もう一度言って」
そう言った後足早に保健室を去っていった彼女。……男の涙は止まっていた。
土曜日に男の家に遊びに来た彼女、ベッドに座る男の直ぐ横に座りぼーっと天井を見上げる彼女。静寂を嫌いテレビのリモコンに手を伸ばそうとする男の手を軽く叩く彼女。40歳まで生きた男の目論見は簡単に彼女に看破された。男は意を決して口を開いた。
「…………今までずっと曖昧にしていたけどしっかり言うぞ。お前の事がずっと好きだった! 俺と付き合ってくれ!」
当時の台詞をそのまま言った。この言葉を言うことは、男に取って様々な意味を持つ。フラッシュバックしてくる過去の映像をかき消す。こみ上げる吐き気を抑える。男は、ただただ彼女の返答を待ち続けた。
「…………」
彼女は無言のまま……涙を流した。その光景を見た瞬間に、顔を殴られたような衝撃を受け気絶しそうになる男。だが、気絶する暇を与えず彼女は言葉を口にした。
「本気だったんだ……私もずっと好きでした」
その言葉を聞いた瞬間に男が受けていた衝撃は消えた。男は泣いた、泣いて彼女を抱きしめた。自分の人生は、あの時からずっと止まっていた。それが動き始めたのを実感した。男はやり直す事を決めた、この瞬間から自分の人生が再始動する。そしてもう二度と彼女を手放さない、死ぬまで離さない事を心に決めたのだった。
……
…………
………………
男は38歳になった。二人の関係は続いている。彼女の身体の問題もあって子供はいなかった、だが男は彼女が傍に居てくれるだけで十分だった。男は白いベッドの上で、窓の外の景色を見る。緑色の葉が付いた桜の木……葉がゆっくりと落ちていく様をどこか寂しげに眺めていた。
ベッドの横の椅子には、彼女が座って俯いていた。まるで枯れ木のように細くなり冷えた男の手にぬくもりを取り戻そうとするかの如く両手で優しく包み込む彼女。
男の身体は癌により蝕まれていた。気がついた時には、手遅れだった。この年齢の時には健康だったはずなのもあって油断もあった。男は、黒い霧の悪魔を思い出す……寿命はしっかりと半分取られていたようだ。
後悔は無い、あのまま人生を続けていても自分は壊れていたはずだ……だが残された彼女の事を考えると男は申し訳なくなる。自分の命が短い事は知っていた、だから彼女に出来る限り多くの物を残せるように死ぬ気で頑張った。自分が死んだ後も遺産だけで彼女は遊んで暮らせるだろう、彼女が事故死した土地から遠く離れ彼女には免許を取らせなかった。
これでもう彼女が悲惨な結末を辿る事は無いだろう……男はそう信じていた。
夕日が窓から差し込んでくる時、男は臭いを感じた。土と木が混ざりあったような臭い、男はこれが死の臭いである事を理解した。横に座っている彼女の手を握り返した。
「…………」
何かを口にしたかったが男は言えなかった。彼女は、そんな男の反応を見て察したのか涙を流しながら立ち上がる。
「いかないで……」
男は、声を出そうと思ったが出なかった。あぁ、もう終わりか……と悟った。合計で78歳まで生きた男だったが、二度目の人生は中身のある物だった。
そして男の脳内には、人生の記憶が2周分流れていた。今になって何故彼女があの時自分を振ったのか気になる男だったが、その答えは謎のままだった。
…………男はゆっくりと息を引き取った。彼女は男の亡骸に抱きつき泣いた、泣き続けた。泣き終えて顔を上げた時に気づくだろう、彼女の頭上に黒い霧が立ち込めている事に……。