リュックサックの君
「お母さん、それじゃあ行ってくんね」
冬子は狭い玄関で靴紐を結びながら、母に声を掛けた。短くカットし髪にふにゃふにゃとした布の帽子を被り、ギンガムチェックのワイシャツにジーパンという……何とも色気のない格好である。
いったいこの娘はどこに行くつもりなのか。そう聞きたくなるようなリュックを背負う冬子に、寝惚け眼の母・和美が目元を擦りながら、私に娘なんていたかしら?
……なんてとぼけたことを考える。
あたしったら、酷いわね。
心の中で冬子に謝りつつ、欠伸のついでに口を開いた。
「まだ四時じゃない……五時に出れば十分間に合うでしょうに」
欠伸混じりな和美の言葉を聞いて、冬子は
「これだから、母さんは」と小馬鹿にしたように首をふった。
「冬子ったら、せっかちなんだから」
和美は深く溜め息をついた。一泊二日の独り旅だかなんだか知らないが、夏休みなんだからゆっくり行けばいいのに……と彼女は思うのだ。だがキビキビと靴を履ききった冬子は、新幹線の時刻までまだ三時間はあるというのに、さっさと立ち上がって出かけようとしている。
「ま、気をつけて……」
……行くのよ、と続けようとした和美は、ふと奇妙な感覚に捕らわれた。こんな格好をした誰かを……知っている気がする……。冬子じゃなくて、冬子に似た誰か。あれは確か……。
ドアノブに手を掛けた冬子を、和美が引き留める。
「ねぇ、ちょっと今思い出したことがあるんだけど」
「何?」
面倒そうに振り返った冬子に、和美はガウンの襟を合わせる様な仕草をして、眩しそうに目を細める。
「少し昔話に付き合ってくれる?」
茶目っ気たっぷりに手を合わせる和美。冬子は渋い顔をして、
「急いでるから」と素っ気ない。けれど、和美はへこたれない。
「いいじゃない? どうせ時間はあるんだし」
お人好し気味の冬子は、仕方なく腰を下ろすのだった。
…………………………………………………………
冬子のリュックサックを見たら思い出したんだけどね、お母さん……不思議な若者に何度か助けられたことがあるのよ。その若者もね、冬子みたいなリュックサックを背負っていて……小さな頃から、お母さんがピンチの時は必ず助けてくれた。
顔はよく思い出せないんだけど、全然年をとっていなかったっていうのは覚えてる。いつ現れても若いまま。お母さんの初恋はその人だった。
最初に現れたのは、十歳の頃。長野にある叔母さんの家に、泊まりがけで遊びに行っていた時のことだった。叔母さんの家は民宿をやっていてね、お母さん達一家の他にも沢山のお客さんが泊まっていたんだけれど……その一人に、その人が居たの。
長野っていうと、雪深くて有名……よね? 叔母さんの家は山の中にあったから、雪の積もり方が並みじゃなかった。東京育ちの私は、降り積もった雪を見て、大喜びではしゃぎ回ったものだわ。
まぁ、それで本題。
私ったら、あんまりにも嬉しかったものだから……毎日山道を駆け回っていたのだけど……ある日、道を踏み外して、下に落っこっちゃったのね。雪の上に落ちたから、ケガはしなかったんだけど……五メートル近くも、積もった雪の中に埋もれてしまっていたから、帰り道がわからなくて、わんわん泣いちゃった。
そしたらね、ずんて、雪の壁を割って白い腕が伸びて来たの。一瞬幽霊かと思ったけれど、次に現れたのはにかっって笑った背の高い若者だった。
「帰ろっか」
旅館で見かけた青年だったからね、私は更に泣いて、喜んだ。差し出された左手を握って長々長々歩いて………やっと叔母さんの家にたどり着けた頃には、もうその若者はどこにも居なかった。あとで叔母さんに確かめてもね、そんな若い客は泊まってないって言われちゃったし……。
びしょびしょに汚れて帰って来たから、あの後お母さんに散々怒られたのよねぇ。
ふっ、と息をつく和美を冬子が目で促す。
どうやら続きが気になるみたいね。
和美は焦らすように嘘の欠伸をしてから、再び話し出した。
次に現れたのは、それから二年も経った頃。私は小学六年生になっていて、ちょっと小生意気なお年頃。
我が家の門限は五時だったんだけど、友達によっては九時まで大丈夫な家もあった訳で……。今思うとほ〜んと下らない事なんだけれどねぇ……。うん、でも下らない事が結構大事だったりするじゃない?
とにかく、私は門限に不満があって……その日は、逆らって九時迄遊んで帰ったの。
そうしたら…………。
運悪く変質者に車でつけられちゃって、危うく誘拐されるところだった。
そこへ現れたのが例の彼。変質者の頭を後ろから何かで叩いて、気絶させてくれたの。暗くて顔は良く見えなかったんだけど、声が同じだったからわかった。優しい言葉でも掛けてくれるのかと思ってたらね。
「門限は守りなさい!」
怒鳴られちゃった。だから、走って帰宅した。でもこの時、彼を好きになったのよ……何か運命みたいなものを感じて。
後日、変質者は逮捕されたけど、彼の正体はわからずじまい。ほんっとに悔しい、あの時逃げないで住所聞いとくんだった。
落胆した和美を見て、冬子が愉快そうに笑う。
「もう笑い事じゃないんだからね!」
若い娘さんの様に声を高くする和美。冬子は喉をくくっといわせながら、和美が先を話すのを待った。
さて、彼にはそれから度々出会った。いっぱいありすぎるから、もう最後に出会った時の話しをしちゃうね。時間も気になるだろうから。
彼の現れた最後は、私が二十一歳の時。当時の私は生きる気力が乏しくてね、就職活動の真っ最中だっていうのに、将来なんて何も考えていなかった。
周りはどんどん面接に行ったりなんかしててね、私はなんとなくそれが滑稽に思えて……その一歩さえ踏み出せないでいた。
あの時も、いつもの様にぶらぶら出歩いた帰りでね? ほろ酔い気分のサラリーマン集団に侮蔑の視線を送りながら、駅のホームに立っていたの。
そしたら、どんって誰かがぶつかって来た。自分の体が傾いていくのがはっきりわかった、何かを掴もうとしたけど両手は宙を掻くばかり……。
ああ死ぬのね。
じりじり迫ってくる電車に目をやりながら……音が消え失せたスローモーションの世界で、私は諦めて目を瞑った。
けれど、どんなに待っても衝撃は襲ってこない。恐る恐る瞼を開くと、時間が止まっていた。……人々が大きく口を開いたまま動きを止めていて、電車もまだまだ向こうに止まっていた。それに、空には張り付いたみたいに動かない烏がいたから………そうとしか考えられなかった。
私は体を線路に傾けたまま、誰かに左手首を握られてた。誰かってのは言うまでもなく、あの若者のことなんだけど……。若者は……リュックサックの若者は、白い光を背にして、私に微笑んでいた。逆光で細かい表情は見て取れなかったけれど、引き結ばれた唇が優しく弧を描いていたのはなんとなくわかった。
「貴女に死なれると困るんです」
どういう意味?
そう問いたかったけど、ホームに引き戻されて時間が流れ始めた途端、彼の姿は霧の様に霞んでいってしまった。私はどうしても、もう一度彼に会いたいって思ってね? 単純だけど、それが生きる活力になった。
必死に面接受けて、ちゃっかり受かって……でもそれ以来どんなに辛い目にあっても、もう彼は二度と現れなかった。
仕方ないから初恋は諦めて。目出度く明日、壮一さんと結婚式っ…………て?
…………………………………………………………
語り終えた和美は、青ざめて冬子を凝視した。
そうだ、私は明日結婚する。子供を産んだおぼえなどある筈もない。
後退る和美に、冬子は穏やかな笑みを浮かべた。何も持っていなかった左手に、真っ赤なカーネションを握っている。
「あ、あんた誰!」
冬子が虚勢をはる。だが、冬子はふわっと腰をあげてカーネションを床に置くだけで動じる様子は全くない。
「私は女なんですよ。では八ヶ月後に」
そう言うと、和美の腹を指さし満足げに笑って出て行った。
「何よ……」
一人早朝の玄関に残された和美は、さっきの妙な感覚を思い出していた。
あれは既視感というものに違いない……ということは。
ああ、まさか。あの人は……あの人こそがリュックサックの若者ではなかったか。
朧気な記憶を辿ってみても、やっぱり顔を思い出すことはできない。それはさっき見たばかりである、冬子も然り……。
それが何よりの証の様な気がする。
和美はカーネションを拾うと、ふぅっと息を吐いた。目頭が熱を帯びてきて、涙の粒が睫毛から零れた。
「カーネション……」
不思議な不思議な初恋の若者。もうすぐ彼女に会えるのかと思うと、悲しいやら嬉しいやらで……和美は暫く顔をあげることが出来なかった。