ごく当たり前な日常 三
龍園
片桐蒼次郎は依頼人佐藤雄二が酒場から立ち去ったのを見た後、個室から出て一番奥のカウンター席に移り座った。
座った後、板前であるいかつい顔をした中老の男。龍園の店主に注文を促す。
「親父、いつもの頼むよ」
「金はあんのか?」
「あるさ、前付けてもらった分も含めて」
蒼次郎は親父である片桐金次郎に、先程佐藤から受けとった二十万円の札束を懐から出して見せびらかす。
「ふん」
龍園の店主は一分ほどで蒼次郎の前に日本酒と酒盗みを置いた。
酒盗みは日本酒の肴として常に一緒に注文している。
蒼次郎は主に依頼人からの用件は此処龍園で聞いている。交渉が成立した後はこうやって時間を掛けてちびちび飲んでいる。
蒼次郎は何回か龍園で取引をしているうちに、この何気ない時間と空間が気づいたらは虜になっていた。
「相変わらず、この日本酒と酒盗みはよく合うよ」
「それはもう聞き飽きた。蒼次郎、依頼人から頭金を要求するなと、何回言ったら分かる」
「ハッハハハ! その話しはもう聞き飽きたよ」
「だったらするな、依頼に失敗したら後が面倒だろ」
「俺が依頼を受けて失敗したことあるか?」
「過去に何回もあるだろ」
「それは餓鬼の頃の話だろ?」
片桐金次郎。今は龍園という酒場の店主だが、かつては片桐と同じ殺し屋の組織『ムベンガ』に所属していた殺し屋である。
すると今度は蒼次郎が父親に対して思っていたことをぶつける。
「どうなんだ親父、第二の人生ってのは?」
「悪くねーよ」
「左様ですか」
「……急に何だ?」
蒼次郎は日本酒をクイッと飲んだ後、その質問に答えた。
「別に、気にしないでくれ」
「はぁ?」
金次郎は何を言ってるんだとまた手を止めて訝げに蒼次郎を見る。すふとそこには蒼次郎が飲んでいた日本酒と摘んでいた酒盗みはいつのまにか空になっていた。
「ごちそうさん」
席を立った片桐を、金次郎は静止させる。
「待て蒼次郎。お前……ムベンガから足洗うつもりじゃないだろうな?」
蒼次郎は何も言わずに出入口のドアを開け、父親の前から立ち去った。
龍園を出た蒼次郎は星が見えない夜空を見上げた。
先が見えない、暗い暗い夜空を。
「悪いな、親父」
蒼次郎は夜空を見上げるのを止めるとジーパンのポケットに両手を入れて街の方へ歩き始める。
その思いを胸に、蒼次郎は暗澹たる通りを抜け、真っ暗な夜空とは真逆な、明るい喧騒の街へ向かって。
そして、背後に忍び寄る黒い影の存在に気付きながらも。
「フッ」
蒼次郎は鼻で笑いながらも歩を進め、まるで背後にいる黒い影をこちら側へ誘うかのように、深夜の飲み屋街へと消えていく。