プロローグ
某キリスト教会
教会。
神の存在を信じて信仰対象を拝み、助けを拒む者達が集う場所。
そんな教会……キリスト教会の薄暗い礼拝堂に、一人の男が居た。
金髪に黒いローブを着こなし、首には十字架を下げているロシア人の男。
男は祭壇に背を向けて後ろに手を組み、扉の方に目を向けて佇んでいた。まるでこれから誰かが此処、キリスト教会に訪問してくることを分かっているかのように。
男は現在の時刻を確認する為、後ろで組んでいた手を解き、左腕に装着していた腕時計を見る。
ーー深夜を回ったか。
男は再び手を後ろに組み直し、瞑目する。
ーーあの二人は今、何処にいる……。
男は瞑目したまま身体を微動だにせず、頭から微量の汗が出始める。
瞑目し始めて数十秒後、彼の頭の中にあるイメージが映し出される。
雨の中を走る一台のタクシー。
そしてその後部座席の右席に三十代前半と思わしき女性が座っており、左席は高校生らしき男性が座っている。
タクシーの映像が見えたほんの数秒後タクシーは停止し、女性が運転手に代金を払った後、タクシーから二人が降りると同時に傘をさして歩き出す。
タクシーの運転手は義務を果たし、その場を去って行った。
男は目を見開き、自分の懐からハンカチを取り出して汗を拭き取り、また再び後ろに手を組み直して扉の方に目を向ける。
そして数十秒後、その扉は開いた。
しかし男は扉が開いたのにも関わらず平常心を保ち、身体を微動だにしなかった。何故なら、扉から出て来たのは先程男のイメージに映し出されていた女性と男性だったからである。
礼拝堂に足を踏み入れた女性は怪訝な顔で祭壇の前に立つ男に尋ねる。
「あれ? 何で神父さん、こんな遅い時間にいらっしゃるんですか?」
すると神父と呼ばれたその男はその質問を待っていたかのように微笑み、彼女の疑問に答える。
「神のお導きですよ」
外国人とは思えない、流暢な日本語で返す。
「成程。神のお導きですか」
女性は懐疑的にならず、神父の言葉を鵜呑みにする。
そして女性と男性は神父の前まで歩き、神父は目の前の女性に問い出す。
「今宵はどうなさったのですか?」
「えぇ、実はですね……」
女性は一歩後ろから付いて来ていた左隣にいる少年の方に顔を向ける。
「神父さんとは初めてですよね? この子、私の息子なんです。ほら、挨拶しなさい」
少年は一歩前に出て母親に促されるがままに挨拶をこなした。
「初めまして。神父さんのことは母から常に聞いております。僕は……」
「初めまして」
少年は母親から促されたとはいえ、あまりにも無感情の挨拶だった。
お互いの挨拶が済んだ後、女性は先程の神父の問いに答える。
「実はこの子……あまり欲を持たないんです」
「はぁ……欲を持たない……ですか」
神父は何を言っているのか最初はよく分からなかった。
しかし彼を見ているとそれを否定する気にはならなかった。神父は先程の男性の言動からその可能性を僅かながら感じ取った。
神父は詳細を求めるべく、その少年の母親に尋ねる。
「詳しく聞かせてもらえませんか?」
女性はその質問を了承し、神父に自分の息子の過去、現在を説明し始める。説明し始めること数分、母親から神父への説明は終わった。
「成程……」
神父は難しそうに顔を向ける。
「だから此処の教会に来たのですね?」
「そうなんです。旦那はそんなに心配なら精神科に連れて行けと言われたのですが、うちの息子の場合それとはまた別の系統だと思いますし……」
「確かに、そうですよね」
「はい。だから神なら、神様ならこの子を何とかしてくれるんじゃないかと、そう考えたら眠る気にもならず、タクシー使って急いで此処まで来てしまいました」
ーーこの女、私が居なかったらどうやって教会に入るつもりだったんだ。
神父は彼女の行動が異常だと感じたが、立場上言えなかった。
「はい。あなたのその選択は間違っていないと思いますよ。神はあなたを見捨てたりなどしないはずですから」
「そうですよね! あ〜良かった!」
神父は彼女が安堵したのを確認した後、彼女の息子の方に目を向ける。
「では少年よ。神に祈りを捧げたまえ。さすれば神は望みを聞き入れてくれることだろう」
「そうよ! 神様は本当に実在するのよ! だからあなたも祈って」
少年は頷き、神父と母親の言う通り手を合わせ瞑目する。神に祈りを捧げ、それに伴って母親も息子に続く。
そんな二人の光景を見た後、神父は瞑目した。ただ神父は神に祈りを捧げる為に瞑目した訳ではない。
少年に意識を集中させ、徐々に神父の頭の中にビジョンが流れ込んでくる。そこには未来の少年の姿が映し出されていた。
ーー……!?
神父は映し出されていた映像に対し、慄然とするものを感じた。ただ、そこに映し出されていたのは確かにあの少年であった。
ーー……本当にあの少年なのか?
そこに映し出されていたのは紛れもなく、現在神に祈りを捧げてる少年だった。
しかし、イメージに映し出されている少年とはまるで『別人』であったのだ。
ーー周りにいる奴らは一体何者だ? ここら辺の連中じゃなさそうだが。
「神父さん?」
ーー何なんだ、この感覚は?
「神父さん!」
ーーこれは……。
「神父さんってば!」
「!?」
神父は意識を集中していた為、彼女の声が届いていなかった。
「神父さん、大丈夫ですか?」
「あ〜はい。大丈夫です」
神父は懐にあるハンカチを取り出して汗を拭く。
拭いている最中に彼女は神父の変化に気付き、疑問をぶつける。
「あの、神父さん?」
「何でしょう?」
「何故笑っているの?」
「はい?」
神父は気付いていなかった。
「私が笑っている?」
「えぇ。祈りを捧げ終わってから神父さん、ずっと笑っているわよ」
女性が見ている神父の顔は笑っていた。
ーーこの私が……笑っている?
「神父さんの笑ってる顔初めてみるわね。いつも笑顔を見せてくれるけど、それは愛想笑いというか」
ーーそうか……私は……笑っているのか。
神父は少年の方に顔を向ける。
その少年の現在を例えるなら、非情と呼ぶべき存在だった。
しかし神父が見たイメージの未来の少年はその逆であり、一人の『人間』らしい姿が映っていた。
神父は胸に手を置き、安堵したかのようなため息を零した。
そしてその青年の母親からに向き直り、救いの言葉を述べる。
「大丈夫ですよ。神は君の祈りに答えてくれることでしょう。」
「本当ですか神父さん! あ〜神様! 神様! ありがとう! うちの息子を助けてくれるなんて! 本当にありがとう!」
神父は少年の前まで歩き、救いの言葉を述べる。
「少年よ……」
神父は少年の左肩に自分の右手を置き、続きを述べる。
「欲望のままに……生きなさい」
ーー彼なら、私の求めている物を見つけてくれるかもしれない。
此処にいる母親、少年は知る由よしもなかった。
神父が告げた言葉をきっかけに、少年の今後の運命を大きく変えることを。
神父はニヤリと笑う。
ーー私も……笑うんだな。