夕焼け色には気を付けて
「赤いモノを見ると、それに向かって走り出してしまう病気になってしまったの」
僕はどう返事をしていいものか迷ったが、取り敢えず「闘牛か!」とツッコミを入れてみた。
すると河野は大きくため息を吐き、「やっぱり。どうせ誰も信じてくれないわ」と呟いた。
僕は鞄の中に入っていた赤いマフラーを取り出し、それを向かいに座っている彼女の机の上に置いてみた。すると突然、俯いて拗ねていた河野が机に向かって思い切り頭突きをした。
ゴッっと痛そうな鈍い音が教室内に響き、僕はその音に驚いた。
少し考えてから、今度はそのマフラーをゴミ箱の前にかざしてみた。
額の痛みに呻きながら顔を起こした河野が、その視界の先にある赤いマフラーを見る。途端に、体育の成績が「2」の人間とは思えない程の速さでゴミ箱に突進した。僕は素早くマフラーを手元に引き寄せ、河野はそのままゴミ箱に突っ込んでいった。
確かに、赤いものに向かって突進している。
しかしこれらは、彼女の話が本当かどうかを判断する基準にはならない。この行動は全て演技で、なんらかの理由があって彼女が嘘をついている可能性もあるためだ。何の理由があってこんな演技をするかは皆目見当つかないが、河野は少し変わった女子生徒であるため、僕には想像もつかない変な理由があるのかもしれない。
河野は頭をおさえながらこちらへ向かって歩いてきた。酷く恐ろしい形相だ。
そんな彼女の前に、またマフラーをかざした。河野は僕に向かって走りだした。僕はそのままマフラーを窓から投げ捨てた。マフラーは校舎三階からふわふわと落ちていった。
河野が窓から身を乗り出して飛び降りようとしたので、僕は彼女の目を両手で塞いだ。すると彼女は途端に大人しくなり、窓から突き出していた足を教室の中に戻した。
演技とはいえ、流石にここまですることは無いだろうと判断した僕は、彼女の話を信じることにした。
「なんてことするのよ。私を殺す気?」
河野は怒っていた。
「殺す気なんてこれっぽっちもないよ。実験だってば」
「実験ですって!?死んでいたかもしれないじゃない!ふざけないで!」
僕は河野に殴られた頬を摩りながら、ひとまず謝罪の言葉を口にした。しかし河野は変わらず怒ったままだ。
「しかし厄介だね。いつからこんな症状が出るようになったんだい?」
「一昨日の晩、トマトに頭突きをしたのが最初よ」
河野は眉を寄せてそう言うと、思い出したくもない!と首を振った。
「原因は何だろう……。何か思い当たることは?」
「無いから悩んでるんじゃない」
僕は頬杖をついた。
「精神的なものかもしれない」
「私は正常よ」
失礼ね。と河野はそっぽを向いた。僕はその点について敢えて反論はしないことにした。
「でも放っておくと、さっきのように危険な状況になる可能性があるよ」
「誰が危険な目に合わせたのよ」
河野がもう一度僕の頬を叩きそうな勢いだったので、僕は慌てて口を開いた。
「赤いモノを見ないように、極力下を向いて歩くとか?」
「そんなの、いつも通りよ」
そういえば河野はいつも俯いて歩いているな、と僕は思い出した。
河野は誰とも友好関係を築いていない。単にコミュニケーション能力が欠けているだけなのだが、彼女曰く「女同士の友情なんて煩わしいから、友達なんて要らない」らしい。確かに女子を見ていると大変そうだなぁと思う時はある。しかしその友達のいない河野の相手をするのは僕なのだ。平穏で平凡な生活を望む僕にとっては、河野のような非平穏的非平凡的存在は良い迷惑である。早く彼女に友人が出来る事を心から願っているが、今のところその兆しは無いようだ。
「河野は今日から目を瞑りながら生活する練習を始めたら良いと思うよ」
「あなた、解決する気あるの?」
「解決も何も、原因が分からないんじゃ手の打ち用がないよ。病院で診てもらったら?」
僕がそう言うと、彼女は「病院は嫌いなの」と言い放った。
「我儘だなぁ」
「何ですって?」
「いや、何も」
僕は窓の外を眺めた。落ちていく太陽が眩しくて目を細める。その光を背に受けて、河野は愚痴を吐き続けている。それを半分聞き流しながら、僕はいつ帰れるのだろうかとぼんやり考えていた。
*
翌日、河野は遅刻ギリギリに登校してきた。酷く疲れている様子だった。
「大変な目にあったわ」
席に座りながら河野が言った。
僕達の席は隣同士だ。幸い一番後ろの席なのであまり人に注目されることは無い。
「どうしたの?」
「まず信号。下を向いていなければ赤信号で走り出してしまうの。危なかったわ。もう少しでトラックに轢かれるところだった……」
「なるほど、信号機か……。じゃあ遮断機のライトとかも危ないんじゃない?」
遮断機に向かって突進した河野が電車に轢かれる光景を思い浮かべた。
「幸いな事に、私の近所と通学路には遮断機が無いの。どちらにせよ、遮断機は音がなるから目を瞑っていても大丈夫よ」
確かにそうかもしれない。
「でも、これが一生続くとしたら大変不便だね」
「いっそのこと死んだ方が良いのかもしれないわ」
「さぁ……そうかもね」
「否定しなさいよ」
担任が教室に入って来て、STが始まった。先生が諸連絡をしている間も、僕たちは小声で話していた。
「昨日家で色々試してみたの。ピンクや黄色には反応なし。でも赤色には、どんな小さな物でも反応するの。赤ペンにも頭突きしちゃうわけ」
「それはご愁傷様。君のそのハリー・ポッターのような額の傷は、その時にできたものなんだね」
「あら、傷になってた?気付かなかったわ」
「河野は、朝に鏡を見る習慣がないのかい」
女子というものは、朝に限らず鏡があれば身だしなみをチェックする生き物だと思っていたが、河野は違うようだ。彼女は僕の質問に「そうよ」とだけ答えた。
STが終わったので、僕は一時間目の準備をはじめた。机の中から教科書を出そうとしたとき、河野が「あぁ。そういえば」と話しかけてきた。
「悪いんだけど、私のノートとっておいてくれない?」
口では「悪いんだけど」と言っているが、見る限り河野は全く「悪い」と感じてはいないようだ。
「え、やだよ。なんで僕が」
「だって私、先生が赤いチョークを使うたびに黒板に向かって突進しなきゃいけなくなるじゃない」
それは分かるけど、なんで「僕が」やらなくてはならないのか。こういうのは女友達で頼んだり頼まれたりするものじゃないのか。だから友達を作れとあれほど言っているのに。
「じゃあ、そういうことだから、これよろしくね」
河野は僕にノートとペンを手渡し、机に顔を伏せて目を瞑った。
僕は大きなため息を一つ吐いた。
*
放課後、僕は保健室へ向かっていた。
例の河野が、六限の途中で気分が悪くなったと言って教室を出て行ったのだ。しかし、僕が思うにアレは仮病である。なぜなら午前中まで彼女は僕にいろんな命令をしたり殴ったり、僕以上に元気だったからだ。数学が面倒だっただけだろう。
ともかく僕は彼女に押し付けられたノートやペンを返すため、わざわざ違う棟にある保健室まで出向いている。本当に手間のかかる人だと思う。数学よりも彼女のほうが数十倍も面倒だ。口に出したら殴られるから言わないが。
「あら、わざわざ持ってきてくれたのね」
河野は僕から受け取ったノートをパラパラと見ながら、「私より綺麗な字じゃない。男子のクセに」と理不尽な怒りを僕にぶつけてきた。河野の我儘に付き合って疲れ切ってきた僕は、言い返す気力も起きなかった。
「……僕はもう帰るよ」
「あら、そう」
僕らは保健室の扉を閉めて玄関へ向かった。河野は玄関までずっと目をギュッと閉じたまま僕のマフラーを握り、それを頼りに歩いていた。まるで首輪をつけられ散歩しているかのようなこの状態に、僕は「ペットか!」と心の中でツッコミを入れた。幸いこの棟には人が殆ど来ないため、この姿を他人に見られる事は無かった。
河野が下駄箱から取り出した靴に、もちろん赤い色は含まれていない。
「じゃあね。赤い色には気を付けて」
僕と河野の家は反対方向なので、校門を出た時点で別れる。同じ方向だとしても一緒に帰りたくはない。
「分かってるわ。さよなら」
河野はそう言い残して俯くと、夕陽の差す方へ歩き出した。
振り返る事は無かった。
*
その日、河野が死んだ。
僕は翌日の朝、全校集会でそれを知った。
*
「河野さんは、君と別れる直前、どんな様子でしたか?」
警察の質問に、僕は「いつも通りでしたよ」と答えた。
「何か思い悩んでいるような感じは無かったかな?相談をされたりしたことは?」
「いつも独りで過ごしていましたけど、彼女は単独行動が好きなタイプでしたので……」
それより、と僕は逆に質問することにした。
「どうして河野さんの事故が自殺だと思うんですか?先生からは交通事故だと聞いているのですが」
「あぁ、それがね、運転手の話によると、河野さんが急に路上に飛び出してきたらしいんだよ。横断歩道も何も無い場所なんだけどね」
「急いでいて横断歩道を渡らなかったとかではなく?」
警察はそこで少し哀れみを含んだ表情をした。可哀想に、とでも言いたそうな顔だ。
「そこまでは事故の可能性が非常に高いんだけどね。運転手や通行人が倒れた河野さんに駆け寄ると、彼女は自分で自分の頭を地面に打ち付け始めたらしいんだ。何回も何回もね」
周りの人が止めようとしても、河野は止めなかった。
血が出て、顔の形も歪んで、だんだん動きが遅くなっていった。
最後、河野は地面にうつ伏せで倒れたまま、遠くの物を掴むように震える手を伸ばした。
そして、その場で息絶えたそうだ。
「河野さんは何か悩みがあって、自分から車に飛び込んだ。でもまだ生きていることを知って、更に頭をコンクリートに打ち付けて死のうとしたと、そういうことですか?」
警察は静かに頷いた。河野の死が自殺であることを信じて疑っていないようだった。僕を見る目がそう言っている。
自殺した少女の友人。可哀想に。
「僕は、何も分かりません。女子の方が詳しいんじゃないですかね」
僕は玄関の扉を閉めた。
「警察の人、何だって?」
僕が部屋に帰ろうと階段を上がっていると、母が居間から出てきて声を掛けた。
「同じクラスの女子が事故で亡くなったんだ。最後に会ったのが僕だったから、少し事情聴取されただけ」
心配そうな顔をしている母に、僕は淡々と答えた。
母は僕の答えを聞くと、安堵と哀れみの混じった顔をして「ちゃんとお葬式には出るのよ」と言って居間に戻って行った。
僕は自分の部屋に戻って、河野の事を考えた。
今日の朝、集会で河野の死を知ってから、僕は一日中色々な可能性を考えていた。その中に「自殺」が無かった訳ではない。しかし彼女の性格から考えて、その可能性は低いのではないかと思った。
部活中もその事を考えていた。集中出来なかったので、途中で気分が悪いと言って早退した。
僕は校門を出てから、夕陽の差す方へ歩いた。
河野の事故現場はいつも通り車が行き交い、何事もなかったかのように平凡だった。しかし、非平凡的な彼女は間違いなくこの平凡な風景の中で非平凡的な死を迎えたのである。
事故現場から離れて帰宅し、部屋で考えていたところを警察が訪問してきた。そして彼らの話のお陰で、大体の予測がついた。
河野の死は、事故でも自殺でもない。
彼女は僕と別れてから、夕陽の差す方向へ歩いた。赤いモノを見ないように下を向いて。
事故現場は広い道路だった。だから彼女は少し油断したのだと思う。ちょっと顔を上げて、前を向いた。
きっとそこで見てしまったのだ。
赤く染まった空と、真っ赤な夕陽を。
河野は走り出し、車に轢かれた。
車に衝突し、地面に身体を打ち付けて倒れた。
血が出ただろう。
なんとか起き上がった彼女の目に、道路に付いた自分の血液が映る。
彼女はその赤に向かって頭を打ち付ける。
血が出る。
それを見て更に頭を打ち付ける。
血が出る。
打ち付ける。
血が出る。
弱りきった河野は起き上がれなくなり、動けなくなるだろう。
俯けに倒れたその瞳にまた、赤い夕陽が映る。
最後の力を振り絞って、彼女は赤い夕陽に手を伸ばす。
これは僕の予想に過ぎない。真実は死んでしまった河野にしか分からない。
「さよなら」
河野の最後の言葉が耳に残っていた。
彼女は、その後自分が死んでしまうなんて予想していただろうか?
河野のことだから、きっと夕飯のメニューにトマトが出ていないことでも願っていたのではないかと思う。
彼女が伸ばした手に。
最後の力を振り絞って伸ばした、その手に、夕陽は捕まえることができたのだろうか。
河野の瞳に映った、最後の赤色。夕焼け色。
その風景は、美しかっただろうか。
赤いマフラーを手に取る。
僕は静かに目を閉じた。