第三章 気づかぬ想い
秋葉原の改札を出た瞬間、俺は来たことを後悔した。日曜のアキバは、人、人、人。人で溢れかえっている。もちろん、ソッチ系の人達が大半である。
ちなみに統麻とは現地集合。以前来た時に、メガネ、リュック、カメラ、そして『オタク道』と書かれたTシャツという完全なオタクスタイルの統麻と共に電車に乗ったことがトラウマになり、今回は現地集合にさせた。統麻はまだ来ていない。
「メイド喫茶、あいるんでーす。よろしくおねがいしまーす」
突然、向こうから歩いてきたメイドさんにチラシを渡される。着ているミニスカートは、風が吹けば中が見えてしまいそうだ。いい、メイド服いい。にゃーこに着せて、いつもみたいにご主人様って呼ばせてみるか。いや、いかんいかん。何を考えているんだ俺は。これではまるで統麻みたいじゃないか。だめだ、だめだ。ああなったらお終いだ。
でも、ちょっとぐらいなら。幸い、そこの店の店頭にそれらしき物も売っている訳だし……
(家の扉を開けると、そこには胸元の大きく開いたミニスカメイド服に身を包んだにゃーこが立っている。
「ご主人様、お帰りなさいにゃ♡ ご飯にするにゃ? お風呂にするにゃ? それとも……」
にゃーこは体を前屈みにして聞いてくる。そこからは大きくて柔らかそうな胸の谷間がばっちりと見えていた。
「そうだな。とりあえず……」
そう言って、俺は……)
パシャ、そんな俺の妄想は、スマホのカメラシャッター音でかき消された。
「なーに、考えてんだ。この変態」
いつの間に来ていたのか、振り向くとニヤニヤと笑みを浮かべる統麻が立っていた。
今日も前回と同じく、オタクスタイル万全である。ただし、Tシャツに書かれた文字は『我が生涯に一片の悔い無し』という、真の漢の死に様みたいな言葉であった。
「な、なんにも考えてねーよ」
「嘘つけ。にゃーこちゃんにメイド服着せようか悩んでたじゃねーか」
ギクッ!
「な、なんでそんなことお前に分かんだよ?」
「あんだけでかい声出してりゃ当然だろ。まあ、おかげで俺もお前の居場所が分かって助かったけどな」
統麻はカラカラと笑う。俺、でかい声なんて出してたっけ?
それ以前にこいつ、にゃーこに会ったことあったかな?
「まあいいや、早く行こうぜ。売り切れちまうかもしれないからさ」
まだ若干困惑している俺を統麻が急かす。
「なんだよ。予約してねーのか?」
「してない、ほら、行くぞ」
そして、俺達は歩き出した。
ゲームセンターの前で統麻が止まる。しかし、アキバはほんとにすごい。どこを見ても萌え、萌え、萌え。そこら中に萌えが溢れていた。
「凍士、こっからは別行動だ。ほい、これ」
統麻が俺に一枚の紙といくらかの金を渡す。
「何だ、これは?」
「お前のノルマだよ。この紙に書かれたのを買ってきてくれ」
紙を見ると、いくつかのエロゲーのタイトルとフィギュアのキャラクター名が書かれていた。
「なになに、『いちゃいちゃ妹パラダイス』、『許婚は妹様』、『禁断の束縛、お兄ちゃんやめて』『妹陵辱日記』って、買えるかぁ!」
俺は、もらった紙を地面に叩きつける。
「あー、何やってんだ! せっかく俺が一晩寝ないでピックアップしたのに」
「黙れ、この変態。こんなの買えるわけねーだろ。お前が行け!」
「馬鹿者。俺には他にやることがあるんだ。大事な任務がな」
「とにかく、なんと言われようが俺は嫌だ」
「どうしてもか?」
「どうしてもだ」
「それなら仕方ない」
統麻は一旦言葉を切り、ニヤリと笑って言った。
「お前がメイドさんを見ながらヘラヘラして、あまつさえにゃーこちゃんにメイド服を着せようとしていたことを由希乃に話す」
俺は何を言い出すのかと一瞬呆れた。
「あほか、お前は。そんなの由希乃が信じるわけないだろ」
「フッフッフッ。甘いな。確かに俺の言葉だけでは信じないかもしれん。だが、これを見よ!」
そう言って統麻が見せたスマホには、先ほどメイドさんにチラシをもらっていた俺の写真が。
「おまけにこいつも付けようか?」
とどめは、自分でも明らかに締まりがないと分かる、先ほどの俺の妄想中の写真であった。
「どうだ? これでもまだ行く気にはならないか?」
統麻が悪代官の笑みを浮かべる。こ、このヤロウ。
「くっそ。行きゃいいんだろ! 行きゃ!」
「分かればいい。じゃあ、よろしくな。親友よ」
「だから、親友じゃない!」
統麻は上機嫌で消えて行った。くそ、卑怯者め。
俺にとってこのミッションは地獄だった。フィギュアはまだいい。店員が男だったからな。
しかし、問題はエロゲーの方だった。紙に書かれたタイトルを手にレジへと向かう俺。
なんとレジには女の店員さんが。しかも、結構可愛い。
普通、こういう売り場には男の店員しかいないと思っていた俺は、泣きそうになりながらもソフトをレジに置く。もちろん目は合わせない。というか、正確には合わせられない。
とてつもなく長い二分間だった。バーコードを読み取りながら、チラリとこちらを見る女性店員。その目は口よりも雄弁に「ふーん、この人こういう趣味なんだ。キモッ」と語っていた。
俺が、心に深刻なトラウマを負ったのは言うまでもない。
なんとかミッションをコンプリートした俺は、統麻との待ち合わせ場所に着く。
意外にも、統麻は時間通りに現れた。何故か手ぶらで。
「よう、待ったか?」
「いや、時間通りだけど。そっちは売り切れだったのか?」
「えっ。何が?」
統麻は手ぶらにも関わらず、満足げな様子でニコニコしている。
「何がって、なんか買ってくる任務があったんだろ?」
「いや、買ってくるもんはお前に渡したリストで全部だ」
「は? じゃあ、お前はどこに行ってたんだよ」
「メイド喫茶」
「は?」
「だから、メイド喫茶だよ。お気に入りの梓ちゃんが今日出勤日でさ。久しぶりに会いに行ってたわけ。ほら見ろよ、一緒に写真もひでぶっ!」
俺の怒りの○竜拳が統麻の顎に命中する。あ、初めて当たった。
「やるな。さっきのは避けられなかったぜ」
統麻が鼻血を拭きながら立ち上がる。ちっ、浅かったか。
「黙れ。決着着けてやる」
一触即発の空気を破ったのは、統麻のスマホの着信だった。
「ちょっと待て。あ、由希乃だ。もしもし、うん、うん。何? 分かった。言っとく。じゃあな」
そう言って統麻がスマホを切る。そして、俺に向き直った。
「帰るぞ」
「何?」
「由希乃がカレー作り過ぎたから、お前も誘って帰って来いってさ。今晩は家で食べていけよ」
ふむ、由希乃は料理が上手い。特にカレーは、悶絶カレーというそのネーミングはどうなんだと質問したいくらいの微妙な名前ながらも、味は絶品である。
「分かった。由希乃に免じて今日は引いてやる」
「はいはい、そりゃどうも」
そう言って、歩き出す統麻。
「おい」
俺は後ろから声を掛ける。
「何だよ。まだ何かあんのか?」
「半分持て。お前のだろ」
帰り道、満足げな表情の統麻を横目に、俺は悪態を付く。
「やれやれ、これが日本を守ってる秘密組織のエースだとは。何か泣けてくるな」
「何だよ、それ?」
統麻は笑っていた。こいつはそういうことにはあまり関心が無い。
「だってそうだろ。世間から見たら、俺達は正義の味方ってやつだろ? それがこんなところでエロゲーやフィギュア漁りとは。文句の一つも言いたくなるさ」
「はあ? 何言ってんの、お前?」
統麻が立ち止まった。その顔からは笑みが消えている。その変化に、俺の方が困惑した。
「お前、まさか今までずっと、自分達を正義の味方だなんて思ってたんじゃないだろうな」
統麻が無表情のまま問い掛ける。喉が、渇く。
「まさか。あくまでもこれはビジネスだ。俺達はただ単に自分達の食い扶持を稼ぐためにこの仕事をしているに過ぎない」
「何だよ、分かってんじゃん」
「俺が言ってんのは世間一般から見た時の話さ。どう見たって正義の味方だろ?」
「それは違うな」
「えっ?」
きっぱりとした否定。俺は二の句を告げることができなかった。
「確かに俺達のやっていることは、結果として今の平和を守ることに繋がっている。しかし、それが必ずしも正義というわけじゃない」
「ど、どういうことだよ?」
「では、逆に聞くが、この世界を守ることがお前の正義なのか?」
「い、いや、あくまでも一般論の話を……」
「では、仮にお前の大事な者を殺すことが、お前が先ほど言った世間一般の正義であった場合、お前はその大事な者を殺すのか?」
「そ、それは……」
「じゃあ、言い方を変えよう。仮にお前の大事な者を殺すことがお前の食い扶持を稼ぐことだった場合、お前はその大事な者を殺すのか?」
「…………」
俺は、真剣に話す統麻に何一つ言い返せなかった。
「だとしたら、お前にとっての大事な者は、世間一般の正義やもしくは金よりも価値が低いことになるな」
「…………」
「お前は今、何も答えられなかった。今はそれでいいかもしれない。だが、もしいつかその答えを出さざるをえない時に、今と同じように何も答えられないようなら、お前は永遠に俺には勝てないぞ」
俺は平静を装うのが精一杯だった。それほどに、今の統麻には静かな迫力があった。
「な、何マジになってんだよ? らしくもない」
そこで、統麻がようやくいつもの表情に戻る。
「たまにはいいだろ。もう言う機会なんて無いかも知れないからな」
「何言ってんだ。縁起でもない」
「はは、確かに。帰ろうか?」
そして、俺達は再び歩き出した。
都庁への帰り道、不意に統麻が口を開く。
「お前さあ、由希乃のことどう思ってる?」
唐突だった。俺の思考が一時停止する。
「ど、どうって何が?」
「惚れてんのかって聞いてんだよ」
統麻の表情は真剣だった。今まで見たこと無いくらい真剣な顔。
「い、いや、別になんとも」
「ふーん」
統麻は明らかに不信顔だ。
「な、なんでそんなこといきなり聞くんだよ?」
俺はなんとか話題を逸らそうと必死だった。
「いや、由希乃は家でもお前の話ばっかりだし。お前らふたり、すげー仲良さそうだったから、気があんのかなーと思って」
統麻が俺の顔を伺いながら聞いてくる。試しているかのような口調だった。
「そりゃ、いつも組織に行けば会うんだし、仲良くなるのは当然だろ」
「ふーん、つまりその気はないと?」
「ある訳ない。ていうか、お前は平気なのか?」
「何が?」
「あのな、俺達みたいな仕事している奴が、由希乃に近づいてもなんとも思わないのかってことさ。お前、あの子をこっちの世界に関わらせたくないんだろ?」
俺の言葉に、統麻は軽く首を振った。
「そういうことを聞いてんじゃないんだけどな」
不意に統麻は笑った。とても悲しそうに。その顔は、俺には泣いているように見えた。
「オッケー。分かった。お前は由希乃のことをなんとも思ってないってことで。この話はこれでお終い。悪かったな、変なこと聞いて」
統麻は少しだけ頭を振ると、何事もなかったように歩き出した。そうさ、惚れてなんかいない。俺には、由希乃を好きになる資格なんてないんだ。
▲▲▲
YUKINO SIDE
ご飯よし。カレーよし。サラダよし。お部屋も綺麗にしたし。うん、完璧。
もうすぐ兄さんが凍真を連れて帰ってくる。私の心臓はさっきから鳴りっぱなしだった。
今まで一緒に食事をしたことは何度もあったけど、手料理を食べてもらうのは今回が初めて。
絶対に失敗したくなかったから、メニューは私の得意な悶絶カレーにした。
今まで悶絶カレーで外したことはない。でも、凍士辛いの大丈夫かな?
兄さんが辛いの好きだから、家のカレーは他のよりもちょっと辛め。凍士がダメだったらどうしよう? でもこの前一緒に食事した時、凍士、カレー食べてたっけ。私もあそこのカレーを食べたことあるけど、結構辛かったよね。うん、大丈夫。自信出てきた。これを食べた凍士が……
(「うん、うまい。由希乃、このカレー最高だよ。きっといいお嫁さんになれるな」
「え! じゃあ、凍士もらってくれる?」
「もちろんさ。大歓迎だ」)
なんてことになったりして。私はいつの間にか一人で悶えていた。
あ、私は大丈夫かな? どこか変なとこないよね。
慌てて自分のコンパクトの鏡で身だしなみをチェック。うん、大丈夫。問題なし。
あ、でもちょっと汗かいちゃったから、念のため下着替えとこう。
ね、念のためなんだから。で、でも、もしも凍士が……
(「由希乃、その下着可愛いね」
「え、やだ、エッチ。見ないでよ」
「食べちゃいたいくらいだ」
「……いいよ。凍士なら。食べちゃっても♡」)
な、なんてことになったらどうしよう。やばい、パンツ可愛いのにしなきゃ。えと、お気に入りのが……
そして、私が下着を脱ごうとしていた時、後ろでガチャリとドアが開いた。
▲▲▲
「おっ!」
「何だよ?」
部屋の前に着くといきなり統麻が声を上げた。そして、すぐさま俺に向き直る。
「凍士、凍士」
「だから、何だよ?」
「悪いけど、お前がドア開けてくれ」
「何でだよ? お前の部屋だろうが」
「いいから、早く。俺は荷物持ってんだよ」
「俺も持ってんだろうが! お・ま・え・の荷物を!」
俺はぶつくさ言いながらも、不毛な気がしてドアを開けた。
「はッ?」
「えっ?」
そこにいたのは下着姿の由希乃だった。程よい肉付きの太ももに、染み一つ無い素肌。き、着やせするタイプなのか結構胸も大きい。下着の色はライトグリーンですか。いいですねー。
ちょうどパンツを脱ぐところだったのか、指を掛けたまま固まっている。
お互い硬直したまま動けなかった。
「よっ、由希乃、今日は出血大サービスだな♪」
統麻が荷物を持ってない方の手で親指を立てる。由希乃は真っ赤になって自分の部屋に駆け込んだ。統麻が楽しそうに俺に話しかける。
「どうだ、興奮したか?」
「興奮してんのはお前だろーが! 鼻血出てんぞ!」
俺は赤くなった自分の顔を隠しつつ、部屋に置いてあったティッシュを統麻に投げた。
「おっと、これは失礼」
統麻は、ティッシュを鼻に押し込みながらしみじみと呟いた。
「いや、我が妹ながら惚れ惚れするほどおいしそうな体だ。彼氏もいないみたいだし、今度この兄が大人へのステップアップをお手伝いする……うおっ!」
いつの間にか俺は部屋にあった包丁を統麻に向かって投げていた。統麻が寸前で受け止める。
「あぶねーな! 殺す気か!」
「あれ、変だな。いつの間に」
「とぼけんな、このボケ!」
「とぼけてねーよ。ていうか、お前は妹に何しようとしてんだ」
「いいだろ、別に。血は繋がってねーんだから」
「駄目だ」
「何で?」
「何でも」
「あほくさ。子供か、お前は」
統麻が付き合ってられないとばかりに手をヒラヒラと振った。
「ジョーダンに決まってんだろ。本気にしてんじゃねえよ」
「お前の冗談はいびつすぎんだよ」
「まあまあ、そう怒るな。それよりどうだ。お前、由希乃の裸見て興奮しなかったのか?」
「…………した」
夕食を終えた後、俺は自分のアパートに帰るためにエントランスホールに向かった。
由希乃も見送りに付いて来てくれる。エントランスの前で由希乃が声を掛けた。
「ねえ、凍士、今度遊びに行ってもいい?」
「は?」
由希乃の唐突な一言に、俺は唖然となる。
「え、すまん。良く聞こえなかった」
「だから、今度遊びに行ってもいい?」
「どこに?」
「凍士の家に」
「何で?」
「だって、心配なんだもん。たまに顔を傷だらけにしてやってくるし、この前見たお弁当は、煮干だけだったし、時々何かにうなされてるし。いったい、どんな生活してるの?」
由希乃は俺の顔を覗き込みながら聞いてくる。近い、近い。
俺の顔と由希乃の顔は一〇センチも離れていない。この距離だと息遣いすらはっきりと伝わって。ちょっと近づけば、唇が触れてしまいそうだ。
最近の由希乃は、二人きりになると途端に距離を縮めてくる。
正直由希乃は可愛い。ぱっちりした目に、整った顔立ち。腰まで届きそうなほどの艶やかな黒髪はまるで人形のようだ。しかも、今は私服の胸元から形のいい谷間が覗けてしまっている。
それに、何故だろう? 由希乃を見ていると、こっちの顔が熱くなる。頭がぼうっとして、無意識の内に抱きしめたくなる。変だな、にゃーこや命の顔を見てもなんともないのに。
俺は、なんとか内心を悟られないように、目を逸らしながら答えた。
「ダメダメ。俺の部屋ちらかってるし、狭いから無理」
「そんなの全然平気だよ。兄さんの部屋の掃除だって、いつも私がやってるんだから」
由希乃はなかなか引き下がらない。だから、近いんだよ。
「あのなー、年頃の娘がホイホイ男の部屋に行きたいとか言うんじゃありません。何かあったらどうするつもりだ?」
俺の言葉を聞いた由希乃が、悪戯っぽく微笑んだ。
「襲っちゃうんだ?」
由希乃の言葉に、俺は内心ギクリとする。
「私にえっちいことするんでしょー♪」
由希乃はますます楽しそうだ。
「ばか言え。誰がお前なんか」
俺は、目だけでなく顔も背けて答える。赤面した顔を由希乃に見られたくなかった。
「じゃあ、行ってもいいよね?」
そして、にっこりと微笑む。その笑顔を見て、俺はようやく気付いた。いや、本当はずっと前から気付いてたんだ。俺は、由希乃が好きなんだってこと。
ようやく俺から離れた由希乃が、嬉しそうな顔で自分の部屋に戻っていく。
でも、俺がこの想いを由希乃に伝えることはないだろう。何故なら、俺は……
ユキノノアネヲコロシタオトコナンダカラ。
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??? SIDE
「寂しいよ……」
ベッドで眠っていた男の頭の中に声が響く。男は飛び起きた。
「会いたいよ……」
真っ暗な部屋の中には、男の他に誰もいない。
男は妹と共に暮らしているが、その妹は今部屋にはいないはずだ。
「あなたは会いたくないの?」
声には聞き覚えがある。もう二度と会えない少女の声。どれだけ想っても、どれだけ願っても会うことができない自分の最愛の人の声。
もっとも、自分の知っている彼女は、こんな風に自分に甘く囁いたりはしなかったが。
「あなたは会いたくないの? わたしに」
少女は問い掛ける。もう何度聞いたか分からない。
「私は会いたいよ。あなたに」
「うるせえ!」
男は絶叫した。
「うるせえ、うるせえ。お前はもういないんだ! いつまでも俺を苦しめるな!」
男は頭を振り乱して叫ぶ。男には生まれつき特別な力があった。他人の心の声が聞こえるのだ。この力のせいで苦労した。まず人込みは歩けない。他人の思っていることが無作為に頭に入ってくるのだ。しかもエンドレスで。長時間いると気が狂いそうになる。
そしてもう一つ、この力は、男に人を信じることを不可能にさせた。人間、誰しも常に本音を話しているとは限らない。物心ついたときには、男は人を信じることを完全に拒否していた。
たった一人の少女を除いて。その少女は変な女だった。とても美しいなのに全く愛想がない。
それが、彼女の魅力を半減させていた。しかし、その少女が唯一、思ったことをそのまま口に出した。男が聞いた少女の声は、そのまま彼女の心の声だった。男が少女に想いを寄せるのに時間は掛からなかった。しかし、その彼女ももういない。もう、会えない。
「会いたいよ……」
再び声が聞こえる。
「だから、もう会えないんだよ」
幾分冷静さを取り戻して男は答える。
「会えるよ」
「えっ!」
そのセリフは初めて聞いた。幾度となくこの声を聞いてきたが、こんなことは初めてだった。
「どうやって?」
「全てを捨てれば会えるよ」
「死ねってことか?」
そうしてもいいと思わせる力が、この声にはあった。
「違うよ」
予想外の返事に男は驚く。
「じゃあ、どうやって?」
「知りたい?」
「知りたいさ」
「じゃあ、教えてあげる。力を抜いて」
声の指示に従う。すると男の中に何かが入ってきた。それは少しずつ男の意識を蝕んでいく。
「本当に大丈夫なのか?」
「私があなたに嘘をついたことある?」
「いや、ない」
「じゃあ、そのまま身を任せて」
そうして、男の意識は闇の中に沈んでいった。男の足元には二つの腕輪が転がっている。
先ほど飛び起きた拍子に落としたのだろう。腕輪にはⅠの文字が刻まれていた。
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