雇用ではなく伴侶として
王都を発って三日目の朝、雪はようやく途切れた。
街道の先に、辺境都市の大時計が見える。以前は針を止めたまま、崩れた鐘楼の上で空を睨んでいた時計だ。今は足場が組まれ、職人たちが文字盤のひびを埋めている。鐘はまだない。それでも、街には以前とは違う音が満ちていた。
槌の音。石を運ぶ荷車の軋み。水路を流れる細い水の音。そして、道端で誰かが笑う声。
「帰ってきましたね」
馬車の窓から身を乗り出し、リゼットは呟いた。
「君が戻ると知らせてから、街の連中は仕事を増やした」
向かいに座るユアンが答える。
「私がいなくても、復旧は進んでいたでしょう」
「そうだろうな」
「では、私が戻る意味は?」
「俺が言うより、本人たちに聞けばいい」
そっけない言葉だったが、その口元にはかすかな笑みがあった。
門をくぐると、広場に大勢の人が集まっていた。水路を直していた職人たち、帳簿を持った商人たち、そして以前、泥だらけになりながら詰まりを取り除いた子どもたち。
「リゼット!」
少女の声が響き、何人もの子どもが駆けてくる。
「王都で偉い人になったの?」
「鐘の音を捕まえたって本当?」
「帰ってこないかと思った!」
質問が一斉に飛び、リゼットは笑いながら一つずつ答えた。
「偉い人にはなっていません。鐘の音も捕まえていません。ただ、聞こえたものを忘れないようにしてきただけです」
「じゃあ、ここでも聞いてくれる?」
少年が真剣な顔で尋ねた。
「もちろん。けれど、聞くだけでは足りないかもしれません」
リゼットは広場の仮設机を見た。そこには新しい帳簿が何冊も積まれている。水路の修繕記録、交易品の出入り、税の徴収と分配。どれも以前なら一部の役人だけが扱っていたものだが、今は住民が確認できるよう、公開用の記録も作られていた。
「これからは、みんなで残していきましょう。誰か一人の記憶や判断に任せず、聞いた人、見た人、確かめた人の名前を記すのです」
「リゼットが書くの?」
「私も書きます。でも、私だけでは書きません」
彼女がそう言うと、ユアンが一歩前へ出た。
「今日から、リゼット・アーヴェルは都市記録と水路監査を担当する」
集まった人々がざわめく。
「王都から正式な許可が出ている。彼女の記録は、公的な調査記録として扱う。ただし、彼女の判断を盲目的に信じろという意味ではない」
ユアンはリゼットを見た。
「疑問があれば、誰でも異議を申し立てろ。記録は問い直されるためにある」
その言葉に、職人のひとりが腕を組んだ。
「じゃあ、代官様の決定にも?」
「当然だ」
即答だった。
広場に笑いが起こる。ユアンは不機嫌そうに眉を寄せたが、怒ってはいなかった。
式が終わると、二人は修復中の大時計の下へ移った。塔の内部にはまだ足場が残り、欠けた歯車が木箱に収められている。かつてリゼットが追放された時計塔とは違う。けれど、歯車の噛み合う音を聞けば、彼女の胸に古い記憶が蘇った。
師匠の背中。夜更けの机。震える蝋燭の火。意味を知らぬまま署名した紙。
痛みは残っている。
だが、その痛みはもう彼女を連れ戻そうとはしなかった。
「王都への返事は、もう出したのか」
ユアンが尋ねた。
「名誉職のことですか」
「ああ」
「断りました」
彼は何も言わなかった。
「驚かないのですね」
「君ならそうすると思っていた」
「それは、私がここに残ると決めていたから?」
「違う。君が自分で選ぶと決めていたからだ」
リゼットは彼を見上げた。
「私が王都へ行っていたら?」
「必要な記録を送る」
「それだけですか」
「それ以上を望むなら、君が言うべきだ」
いつものユアンらしい、慎重で不器用な答えだった。
リゼットは苦笑した。
「あなたは本当に、最後まで私に選ばせるつもりなのですね」
「そうすると約束した」
「約束?」
「君の人生を、俺が決めない」
彼は少し目を伏せた。大時計の空洞に、風が通り抜ける。
「だから、今から言うことも、君に命じるつもりはない」
リゼットの心臓が一つ、大きく鳴った。
「聞いても?」
「聞いてほしい」
ユアンはまっすぐ彼女を見た。
「都市の管理について、王都は俺に単独の権限を戻すと言った。だが、俺はそれを変えるつもりだ」
「変える?」
「共同管理の制度を作る。代官の判断だけでなく、記録官と住民代表が財政、水路、交易を確認する。君には、その中心になってほしい」
「私を雇うのではなく?」
「ああ」
彼は一度、言葉を探した。
「雇用ではなく伴侶として」
その声は、鐘の残響ではなかった。誰かの記憶でも、過去から拾い上げた音でもない。ユアンが今、迷いながら、それでも自分の意思で差し出した言葉だった。
リゼットは黙って彼を見つめた。
伴侶。その言葉が含むものを、彼女は簡単には受け取れなかった。仕事の相棒であること。都市を共に守ること。疲れた日には黙って隣にいること。意見が違えば、互いに譲らず話し合うこと。そして、いつかこの街を離れる可能性さえも、相手の選択として認めること。
「ずいぶん大きな提案ですね」
「そうだな」
「私が断ったら?」
「共同管理者を探す。君の決定を尊重する」
「本当に?」
「本当にだ」
「では、少し考えます」
ユアンの表情が固くなる。
リゼットはその変化を見て、とうとう声を上げて笑った。
「冗談です」
「……君は、時々ひどいな」
「あなたがいつも先にひどいことを言うからです」
笑いが収まったあと、リゼットは大時計の空洞を見上げた。
「ここに残ります。都市の記録を作り、水路を見守り、あなたと一緒にこの街を立て直します」
「仕事の返事は分かった」
「仕事だけではありません」
彼女はユアンの手を取った。
「あなたの隣にいることも、私が自分で選びます」
ユアンの指が、ためらいながら彼女の手を握り返した。
塔の外で、風が水路を渡っていく。まだ鐘はない。けれど、街の人々が戻り、積み上げた石が陽を受け、細い水音が途切れずに続いている。
完成していない街。
完成していない二人。
それでも、失われたものを数えるだけの日々は終わった。
リゼットは机の上に新しい帳簿を開いた。最初の頁には、都市の名と日付を書き、その下に二つの署名欄を設けた。
一つは代官。
もう一つは、共同管理者。
彼女は自分の名を書き、ユアンへ筆を渡した。
彼が隣に署名する。
その音は、小さく、確かだった。




