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鐘の記憶を読む令嬢は、辺境都市で未来を鳴らす  作者: 銀細工ナギ


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10/20

水源を奪う計画

 帳面が王都へ送られた翌朝、街の空気は妙に静かだった。


 誰もが声を取り戻したはずなのに、広場を行き交う人々の顔には、前日までなかった警戒が浮かんでいる。夜のうちに何かが変わった。そう感じているのは、リゼットだけではなかった。


 ユアンは市場の入口に立ち、届いたばかりの荷札を調べていた。


「また倉庫街からか」


 彼が眉をひそめる。


 荷札には、王都向けの染料と記されていた。だが、袋を持ち上げた職人が首を振った。


「軽すぎる。染料なら、これほど音が響くはずがない」


 リゼットは袋の結び目に触れた。


 乾いた麻布が擦れる音。縄が軋む音。その奥に、硬いもの同士が触れ合う、細い金属音があった。


 彼女は目を閉じた。


 音に残った記憶は、いつも鮮明とは限らない。誰かが手袋を外し、袋を開ける。小さな箱を取り出す。箱の蓋を閉じる前に、男の声がした。


『水門の鍵は、第三倉庫へ』


 その言葉の直後、鐘の音が一つだけ響いた。


 リゼットは目を開けた。


「この袋は、染料ではありません」


 職人たちがざわついた。


「中身を確かめる」


 ユアンが短く言い、縄を切った。


 袋の底から現れたのは、黒ずんだ鉄片と、折り畳まれた薄い板だった。板には古い水路の線が刻まれている。昨日、倉庫の床下で見つかった水門図と同じ形式だった。


 リゼットは板を裏返した。


 そこには、見慣れない印が刻まれていた。


 円の中に、三本の波線。その上から斜めに鍵を重ねたような形だ。


「これを知っていますか」


 ユアンが尋ねると、近くにいた老人が息を呑んだ。


「昔、港の商人たちが使っていた印だ。だが、そんなものはとっくに廃れた」


「名前は?」


「水路組合……いや、違う。水路を管理する組合じゃない。もっと古い呼び方だった」


 老人は額に皺を寄せた。


「黒鍵会。表向きは交易商の集まりだが、税を逃れる者たちの秘密組合だ」


 リゼットの胸に、冷たいものが落ちた。


 水門図の余白にあった、三本の波線。倉庫の柱に残った傷。夜の荷車。ばらばらだったものが、一つの形を取り始めていた。


 ユアンは板を見つめたまま言った。


「税を横流ししていた連中が、なぜ水門図を運ぶ」


「交易路を変えるためではないでしょうか」


 リゼットは板の線を指でなぞった。


「この水路は、街の外へ流れる川と、北の地下水脈につながっています。もし水門を閉じれば、街へ入る水を止められる。逆に開きすぎれば、貯水槽を空にできる」


「水を奪い、街を弱らせる」


「そして交易路を別の場所へ移す。水のない街からは、人も商人も逃げます。税を納める者がいなくなれば、この都市は自然に捨てられたように見える」


 ユアンの表情が硬くなった。


「その後、誰かが安く買い取る」


「おそらく。街そのものと、水源を」


 市場のざわめきが消えた。


 これまで皆、都市が貧しくなったのは戦争や不作のせいだと思っていた。水路が枯れ、商人が去り、倉庫が閉じた。その順序は偶然に見えた。


 だが、誰かが水を止め、交易を奪い、その結果だけを公の記録に残したのだとしたら。


 衰退ではない。


 計画だった。


 ユアンは折れた板を慎重に布で包んだ。


「第三倉庫を調べる」


「ヴァルドに知られています」


「だからこそ、急ぐ」


「兵士を連れて行けば、証拠を隠されます」


 ユアンはリゼットを見る。


「では、どうする」


 問いかけには、以前のような命令の響きがなかった。


 リゼットは少し考え、広場の少年たちを見た。橋の下で暮らす子どもたちは、狭い路地も倉庫の裏道も知っている。


「正面からは行きません。夜の荷車を見た子どもたちに、第三倉庫の周囲を見てもらう。誰かが出入りしたら知らせてもらうだけでいい。危険なことはさせません」


「君は?」


「私は倉庫の中を調べます。音の記憶が残っているものなら、いつ、何が運ばれたか分かるかもしれない」


 ユアンは首を振った。


「一人では行かせない」


「一人でとは言っていません」


 リゼットが答えると、ユアンはほんのわずかに目を細めた。


「そうだったな」


 夕暮れが街を包む頃、二人は第三倉庫へ向かった。大時計の影が石畳を長く覆っている。止まった針の下を通り抜けると、潮の匂いが薄く残る古い建物が見えた。


 扉には鍵がかかっていた。


 ユアンが錠を調べる。その横で、リゼットは蝶番に触れた。


 軋む音。何度も開閉された扉。怒鳴り声。重い荷物を引きずる音。そして、低い男の声。


『水源が落ちれば、東の商会が買う。記録には、渇水による廃業と書け』


 リゼットは指を離した。


「中に、計画を話している記憶があります」


 ユアンが彼女を見る。


「聞くか?」


 彼女は迷った。音を読むたび、過去の感情が自分の内側へ流れ込んでくる。恐怖も、憎しみも、誰かの罪悪感も。


 それでも、リゼットは頷いた。


「今度は、あなたも一緒に聞いてください」


 ユアンは黙って彼女の隣に立った。


 扉を開けると、暗い倉庫の奥から冷たい風が吹いた。床には何もない。ただ、壁際の木箱に、あの印が刻まれていた。


 円と三本の波線。その上に重なる鍵。


 水路を閉じる鍵。


 そして、都市の命運を売り渡す者たちの印だった。


 リゼットは箱に手を置いた。


 次の瞬間、地下から鈍い水音が響いた。


 倉庫の床下で、何かが動いた。二人が顔を見合わせる。


 水門の向こうで、街の水源が、誰かの手によって再び開かれようとしていた。

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