初期設定
「お前、たまには画面で観ろよ。ショート動画でいいから」
「え、わざわざ目で観るの? 脳に直接来ないやつ?」
「脳チップの刺激は偽物だぞ。どれが自分の感情か分からなくなってからじゃ遅い」
「父さん、家の外で言ったら旧型狩りに遭うよ」
父は答えず、古いタブレットの電源を入れた。最近は滅多に新しい動画が上がらない。息子の後頭部で、小さな青い光が点滅しているのを見てため息をついた。
* * *
その父が、まだ息子だった頃。
「お前、ラノベでもいいから少しは本を読めよ」
「ショート動画の方が面白いじゃん。俺、ツベも三倍速でしか見ないし」
「ドパガキってやつか」
「親父、そんなこと会社で言ったら老害って言い返されるよ」
父はコーヒーをすすった。息子の親指は、画面の上で止まることを知らない。十五秒ごとに、世界が切り替わっていく。父親のコレクションのラノベや漫画は読んでもらえなかった。
* * *
その父が、まだ子供だった頃。
茶の間のテレビが、賑やかな笑い声を流していた。
「テレビばっかり見てると馬鹿になるわよ」
「いいとこなんだって」
「大宅先生も言ってたでしょ。一億総白痴化って。テレビは一方的に見るだけだから、思考力が失われるって新聞に書いてあったわよ」
「あとちょっとだけ」
「野球にしろ、野球に」
仕事から帰ってきた父は、チャンネルのつまみを音を立てて回した。窓の外は、どこの家からも同じ野球解説の音声が聞こえていた。
* * *
その父が、まだ子供だった頃。
駄菓子屋の店先で、子供たちが漫画を回し読みしていた。
「そんな絵ばっかりの本を読むから、字が読めなくなるんだ」
「これ、面白いんだよ」
「手塚とかいうのが一番いかん。あんなものを読むと情操が歪む。悪書だと学校でも言われとるだろう」
大人たちは集めた漫画を校庭に積み上げ、火をつけた。煙が、秋の空へのぼっていった。
* * *
さらに、その祖父の代。
書生が、行灯の下で貸本を隠すように読んでいた。
「またそんなものを読んでおるのか」
「先生、これは読まれましたか? 面白い発想で──」
「猫が喋る通俗小説のどこが文学か。そもそも文学なんぞ、お国の発展に全く役に立たん。読んだ若者が、次々と精神を病んでおるじゃないか」
「はあ」
「論語を素読せい。漢籍こそが人を作る」
書生は、『吾輩は猫である』を袖の下へ滑り込ませた。もしも花袋の『蒲団』が見つかったら、追い出されるかもしれない。彼は隠し場所を、引き出しのさらに奥へと変えた。
* * *
もっと昔。江戸の芝居小屋。
木戸の前は、着飾った町人でごった返していた。
「近頃の若い者は、近松、近松ってバカの一つ覚えだな」
「この前も心中物を観た帰りに、真似した騒ぎがあったらしいぞ」
「だから、お上も禁じたというのに」
「禁じられるほど観たくなるんだろうな」
「まったく。色恋に夢中で、奉公も学問もありゃせん」
小屋の中から、割れるような拍手が漏れてきた。今日も盛況なようだ。そして、批判していた木戸番は、笑顔で次の客を招き入れた。
* * *
さらにさかのぼる。御簾の内。
若い姫が、几帳の陰で草子をめくっていた。
「姫様がまた、源氏の物語に読みふけっておいでです」
「困ったこと。あのような絵空事にうつつを抜かしては、良き縁も遠のきましょう」
「経を写しなさいませ。紫式部とやらは、嘘偽りを書き綴った罪で地獄に堕ちたと申します。読む者も同じ道を辿りますぞ」
姫は灯を近づけて、続きを読んだ。灯台の油は残り少なかったが、彼女の手元にはまだ数冊の物語が積み上げられていた。
* * *
さらに遠く。オリーブの木陰。
老人が、蝋板に文字を刻む若者を見て眉をひそめた。
「パイドロスよ。文字など覚えれば、人は己の頭で覚えることをやめる」
「ですがソクラテス先生。書き残せば、この場にいない者にも言葉を届けられましょう」
「知識は伝わろう。だが知恵はどうだ。書かれた言葉は、問うても答えぬ。ただ同じことを繰り返すのみだ。それは知恵ではない」
若者は、それでも刻む手を止めなかった。彼はパピルスをどこで手に入れるかを、真剣に考えていた。
* * *
もっと、もっと昔。
言葉すら、まだなかった頃。
甘い実は、うまい。
うまいものは、また欲しい。
その繰り返しが、生き延びる者を選んでいった。
* * *
さらにさかのぼる。
一本の神経が、初めて信号を伝えた。
刺激。
反応。
報酬。
同じことを、また繰り返す。
* * *
海の底。
一つの細胞が、栄養の濃い方へ、わずかに動いた。
近づけば、快い。
離れれば、苦しい。
淡い感覚の中を、ただ漂っていた。
** ** **
透明なドームの中。
「失敗かー。快・不快の判断を持たせてみたんだけどな」
「どうなったんだ?」
「刺激を求めすぎて世界を破壊したよ」
「難しいな。俺は全てを運任せにしたら、文明が発達しなかった」
「惑星開発の課題は、成功した例の方が少ないらしいよ」
「まあ、暇つぶしにはなる」
「次は何を初期設定に与えようかな」
透明な球体の中で、青い惑星の記録が静かに消去された。




