美しい左手
私は心を奪われている。
その美しい左手とは、古美術店で出会った。
棚に飾られた異様な左手に何かを感じ取って、なけなしの金を支払い左手に向かいデッサンをする日々だった。
何十枚、何百枚もしかしたら何千枚描いたかも分からない。
寝食を忘れて左手を見続けた。
時折、あまりのことに訪ねて来た友人に空腹と睡眠不足で倒れ込んでいるのを発見されて目を覚ましたら病院のベッドの上ということが何度もあった。
その間にも私の気になることは、私が不在であの左手はどうするのだろうということだった。
どうするも何も、置物だから置いているだけなのだが、私にはあれが唯一無二なのだ。
あの美しい左手がなくてはもう生きていけなくなっていた。
「早く帰らないとな」
「何を言っているんだ。まだ寝ていろ」
声の方を見ると同じ美大に通っていた狭山だった。
「また迷惑を掛けたな」
「そう思うならきちんと三食食べて寝てくれ。今度こそ死んでいるんじゃあないかとこちとら心臓に悪い」
「ははは」
笑っても否定はしない私に、唯一の友人である狭山はジト目だった。
「……申し訳ない」
「はぁ。……またあの左手か?」
狭山が尋ねると、私は力無く笑った。
「自分でも何故あんなに魅入られるのか分からない。だが、あの左手に魅せられて仕方がないんだ」
「……そうか。俺には単なる彫刻だけれどな」
「感性の違いだな。良かったよ。お前とあの左手を取り合うことにならなくて」
そう言って、少し肌寒さから布団を肩まで引き上げる。足も丸めて芋虫のようだ。
そうだ。
狭山の恋人が行方不明になったのも同じ頃だったよな。
ふと思い出した。
その恋人も美しい手をしていて、デッサンを頼んだら狭山に断られたのだった。
狭量な男だと思ったが、私もあの左手を誰かに貸す気はない。
私も狭量な男なのだろう。
狭山は、居なくなった恋人のことを多くは語らなかった。
私も深くは尋ねず、単に別れたんだろうと思い込んだ。
ただ、それだけだった。
だが、ふと気になった。
「狭山、彼女はどうした?」
「あいつとは別れた。どうしたんだ?何年も前のことを今更」
「いいや、別に。彼女も美しい手をしていたなと思って」
狭山がため息を吐いた。
「また手か。お前、何かに取り憑かれているんじゃないのか?」
「そうかもしれないな」
自認するほど、私はあの手に魅入られていた。
「……そうか。それほど手が大切か」
「お前にはわからないだろうな」
「そうだろうな」
そう言うと、狭山は帰って行った。
退院するまで時折やってきては小言を言う。
それでも話し相手がいるというのは良いものだ。
「ようやく退院か」
「ああ。ありがとうな。迎えにまで来てくれて」
「そこまで薄情じゃないさ」
狭山が肩を竦めた。
栄養失調から病が見つかり長引いた入院だったが、これであの手にまた会える。
狭山に頼んで病室に持って来て貰おうかと思ったが、ここまで長引くとは思わなかったのだ。
「さあ、行くぞ」
「ああ。……今日は暑いな」
季節はすっかり冬から暖かさを迎えていた。
狭山に掃除を頼んでいたおかげで部屋は綺麗に保たれていた。
「あの左手は」
「大丈夫だ。ちゃんとここにある」
最後に見た場所にあった台の上に鎮座された美しい左手を直接見て、ようやく安堵の息を吐いた。
「よかった。やはり美しいな」
「そうか?」
「ああ。こんなに……。おや、何か滴っているな」
彫刻の石膏の下の部分は元より作りが荒かったが、ひび割れて溶けて赤いものが流れて来た。
「……血?」
どうやら左手は石膏ではなく本物の左手だったらしい。
だが、それでも構わない。
私はこの左手を愛している。
溢れて来た血を拭いて新たに蝋で栓をする。
これでしばらくは心配がないだろう。
「おい。警察に届けなくていいのか?」
「構わないだろう。私には関係ないことだ」
そして私はまた筆を取る。
狭山は再び肩を竦めて、部屋から出た。
左手は今日も机の上で輝いている。
「今日も飽きないな」
勝手知ったる我が家のように狭山が家に上がり込んでコーヒーを淹れる。
「コーヒーかい?それなら私の分も頼むよ」
「いいや、その必要はないな」
背後の狭山が斧を持っていた事は一撃を喰らうまでは知らなかった。
気が付いたのはすぐだった。
全身が痛い。
どうせ五体を剥がすのなら、きちんと殺してからでないと痛くて死にそうだ。
ああ、でも。
「狭山」
「なんだ」
義務的にこなしながら狭山が答える。
「私の右手はあの左手と対にしてくれ」
そう言うと、疲れ果てたのか苦痛に耐えかねたのか私はこの世を去ってしまった。
「まったく、笑顔で言う台詞かねぇ」
狭山の温情か証拠隠滅か、私の右手と美しい左手は並んで狭山の家の台の上に置かれ飾られた。
これで永遠に側に居られる。同等の存在になったのだ。




