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負け方を知らない僕らへ  作者: しがない高校生


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1話 もう一つの場所

この間、入学式があったというのに外から見える野球部は今日も夏の大会に向けて猛練習している。グランドにはサッカー部のスパイクが乾いた土を蹴る音、金属バットの高い音。この様々な音が交差する感じが中学を思い出させる。地元の高校に進学していればまだあの場所にいたのかなぁ、などと思いながら有馬湊は教室の窓から眺めていた。

自分はまだ野球を続けたいのだろうか。白球が空に浮かぶたびに、身体がわずかに反応し組んでいた頬杖を少し崩してしまう。

でもそれだけだった。

「やっぱりまだ見とるやん」

振り返らなくても分かる。古賀理奈だ。

「別に。それより、何でいんの、マネージャーの仕事は?サボりか?」

「違うよ。今日は部のオリエンテーションみたいな感じだったし、練習はすぐ終わるって。それに、私はマネージャー志望だし今日はもう帰っていいって」

少しの沈黙のあと、先に口を開いたのは理奈だった。

「...本当に入らんと?野球部」

「もう関係なかけん...」

「嘘つき」小さい声が聞こえた気がした。

言葉が刺さらないわけじゃない。ただ、どこか遠くで当たっている感じがする。グランドではキャッチャーが走っていた。変化球をうまく捕球をできていなかった。──違う。自分だったらもっと...

無意識にそう思った瞬間、柄にもなく舌打ちが出た。そんな自分に苛立った。

「関係なかって顔しとらんよ」

理奈が隣に座った。

少し沈黙が落ちたあと、彼女はぽつりと言った。

「湊、また逃げるん?」

その一言で、何かが静かに崩れた。逃げた——のかもしれない。

怪我のせいにして。レベルの差のせいにして。環境のせいにして。しかも僕はイップスを患ってしまった。

でも本当は、一番怖かったのは——

「......うるさい」

自分が通用しないって認めることだった。ボールを指から放した瞬間に分かる暴投の感覚。もうあんな経験うんざりだ。それにきっと、いま野球をやったって楽しいと思えない。野球を嫌いにはなりたくない。今は少し時間が欲しかった。

湊は席を立った。

「今日は先帰って」

理奈は追ってこなかった。ただ、その視線がやけに痛く感じた。

***

校舎の中は、やけに静かだった。

放課後の喧騒はほとんどがグラウンドに流れている。廊下ですれ違う人は誰もいない。

湊は、特に行き先もなく歩いていた。

帰っても、何もない。

スマホを見ても、何もない。勉強する気にもならない。

あぁ僕って野球が無かったら何でもないんだな。

だから、なんとなく——本当に、なんとなく。


「囲碁将棋部」


古びたプレートがかかった扉の前で、足が止まった。今時、将棋なんて流行らないだろ、と心の中で思っていた。まぁでも、テレビで「棋士編入試験」だっけ。それで盛り上がってるらしい。それに小学生の時だったかな、あいつと一時さしてたっけ。


にしても、中からは物音がほとんどしない。静かすぎて、逆に気になる。

湊はドアを少しだけ開けた。

そこには、別の時間が流れていた。

窓から差し込む西日が、部屋の半分を橙色に染めている。

古い机。畳まれた椅子。壁にかけられた将棋盤。

そして、窓際に一人。女性が座っていた。

長い黒髪が、光を受けて淡く揺れている。

その人は、海を見ていた。

遠くから、かすかに汽笛が聞こえる。


「……何しに来たんですか?」

不意に声がした。

静かできれいな声だった。

でも、不思議と逃げ場がない感じがした。

「いや……別に」

湊はドアを閉めることも、入ることもできずに立ち尽くす。

その人——九条凛は、ゆっくりと振り返った。

目が合った瞬間、妙な感覚が走る。

観察されている。

いや、もっと正確に言えば、見透かされたような気がした。

「暇つぶし?」

「……まあ」

凛はわずかに口元を緩めた。

「新入部員は大歓迎だよ」


気づけば、湊は盤の前に座っていた。

駒が並べられる。

先輩は慣れた手つきで駒を並べ始めたが、如何せん僕はそんな駒を並べる所作知らないので先輩を真似て駒を並べる。

「ルールは?」

「一応…、小さいころやってたので駒の動きぐらいは」

「ならよし!」

「先手はどうぞ」

「わかりました」

「「お願いします」」

僕は久しぶりに将棋を指した。パチン。

その音が、やけに重く響いた。

——軽い。

こんなの、ただの遊びだ。

最初から勝てるとは思ってないけど、いい勝負はできるだろうと思っていた。心の中で将棋というゲームをなめていた。

ただ、少し手が進むと指し手が分からなくなってきた。将棋は終盤に近付くほど、つまり勝敗がつきそうになるほど指し手の難易度が上がる。駒が複雑にぶつかり合い、取った駒は自由に使うことができるからだ。

でも──

「……え?」

気づいた時にはもう遅かった。

まだ自分の王様は取られていない。でも指し手がさっぱり分からない。こっちがよくなる手が見つからない。

今、何が起きた?

どこで間違えた?

これはもう勝ち目はないな。まだ局面は中盤ほどだがもう投げてしまおうか、とも思ったが何か心の中から熱い何かを感じた。こんな感覚久しぶりだった。このまま負けたくない。粘ってチャンスを待つ。

数十手後

結果はもちろん惨敗だった。自分なりに粘ったがレベルが違った。

負けたというのに不思議と嫌な感じはなかった。むしろ将棋ってこんなに面白いものなのかと驚いた。

完全に、読まれていた。

「もう一局指していく?」

「はい」

気づけば、口から出ていた。その返事に迷いはなかった。

凛が少しだけ驚いた顔をする。

でもすぐに、微笑んだ。

「いいよ」

その笑みは、どこか嬉しそうだった。


二局目。

三局目。

四局目。


全部、負けた。


でも、

やっぱり負けたというのに嫌じゃなかった。

むしろ——

「……なんだ、これ」

久しぶりに、心臓が動いている感じがした。

凛が、ふと呟く。

「君、部活は何に入る予定なの?」

「...決めてません」

自然とその視線は窓の外の彼ら(野球部)を見ていた

凛は、そんな彼を見て何かを確信した。

「野球、やめたの?」

「別にやめてはないですよ。ただ──今はちょっと」

「そうなんだ」

凜は少し時間をおいて言った。

「将棋って指し手で相手が何考えてるかある程度分かるの」

突拍子もない言葉にぽかんとした顔で先輩を見る。

「嘘じゃないよ。迷いは指し手に出るもんなのよ。つまるところ、君は今、立ち止まってるんじゃない?」

凛は静かに続ける。

「試しにうちの部に入ってみない?」

先輩が駒を再び並べなおす。

「いいんですか。僕みたいな半端な奴が入っても」

「言ったでしょ、新入部員は歓迎よ。それに──

半端かどうかは負けてから決めればいい」

「どうせまだ負けてないんでしょ」

「負けたことないやつほど、逃げるの上手いけん」

そう言って先輩は笑った。

グランドでは、まだ野球部の声が響いている。でももう、振り返らなかった。

盤の上に、もう一つの勝負があったからだ。

この日、有馬湊は

初めて“負けてもいい場所”を見つけたのかもしれない。

そして同時に——

まだ逃げ続けている自分がいた。

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