他愛もない日常
朝の支度は、もう考えなくても身体が動く。
剣を腰に下げ、鞄の紐を締め、扉を開ける。
あれから三週間。
ひとつひとつは小さな動作だが、それらが連なり、確かに「いつもの朝」になっていた。
ギルドに足を踏み入れた瞬間、室内の空気がわずかに揺れる。
いくつかの視線がこちらに向き、そしてすぐに逸らされた。
かつて感じていた露骨な値踏みや、好奇の視線ではない。
存在を認識したうえで、深入りしない距離。
それが、今の自分の立ち位置だった。
「御言、今日は採取か?」
声をかけてきたのは、冒険者登録のときに話しかけてきた男――クリスだ。
名を呼ばれる。それだけで、自分がここに属しているのだと実感できる。
「クリスさん、おはようございます。ええ、森の浅いところを」
「気を付けろよ。最近、少し騒がしい」
忠告は形式的なものだったが、そこに悪意がないことは分かる。
――それが、少しだけ嬉しかった。
受付では、いつもの女性が帳簿から顔を上げる。
「あら、御言さん。今日もホッグさんの依頼ですか?」
「はい。昼前には戻ると思います」
「気をつけて行ってきてくださいね」
軽く手を上げて応える。
説明は要らない。確認も最低限。それで通じる。
――距離が、縮んでいた。
手続きを済ませると、足早にホッグの店へ向かう。
「おや、御言さん。今日も朝からご苦労さまです」
軽く会釈を交わし、雑談を交えながらクエスト内容を再確認する。
「あ、御言さん! おはようございます!」
店の奥から、ドタドタと慌てた足音。
チェルシーが顔を出し、明るく声をかけてきた。
他愛もない日常。
かつて自分が持ち得なかったものが、ここにはある。
二人に心の中で感謝を告げ、店を後にする。
そして、いつものように森へと向かった。
森へ続く道は静かだった。
採取の手順も、危険な場所も、すでに身体が覚えている。
足取りは自然と軽く、意識は研ぎ澄まされていた。
――そのときだった。
「——きゃあっ!」
森の奥から、甲高い悲鳴が響く。
聞き覚えのある声。
考えるより先に、身体が動いていた。
枝を払い、下草を踏み越え、音のする方へ走る。
木々を抜けた先で、光景が飛び込んできた。
三体のゴブリン。
それを囲むように立つ、数人の冒険者。
その中に――ソフィアがいた。
二人の冒険者が地面に膝をついている。
深い傷。命に関わるほどではないが、戦線を離れているのは明らかだった。
前に立っているのは、ソフィアと、もう一人の女冒険者。
片手剣と盾を構え、必死に間合いを保っている。
一見拮抗しているようで、その実、均衡は脆い。
どちらかが一歩踏み外せば、すぐに崩れる。
「——っ!」
御言は躊躇なく戦場へ踏み込んだ。
ゴブリンと冒険者たちの間に割り込み、剣を抜く。
「……来い」
低く、挑発するように言い放つ。
一体のゴブリンへ向けて、大きく剣を振り下ろした。
それはあまりにも大振りな一撃。
剣は確かに捉えたが、卓越した動きとは言い難い。
「危ない——!」
背後で、女冒険者の叫び声が響く。
次の瞬間、
左右から突き出された二本の槍が、御言の身体を貫いた。
衝撃。
串刺しにされた身体。
それを見て、ゴブリンの一体が下卑た笑い声を上げる。
――だが。
御言は、眉ひとつ動かさなかった。
「……笑うな」
次の瞬間、嘲笑っていたゴブリンの首が宙を舞う。
御言の身体から力が抜け、地面に膝をつく。
同時に、低く呟いた。
「――メメント・モリ」
死は、拒まれた。
突き刺さっていた槍は霧散し、傷は塞がり、血の痕すら残らない。
理解できない光景を前に、残ったゴブリンが固まる。
その脇腹へ、御言は迷いなく剣を突き立てた。
最後のゴブリンの断末魔が森に消え、重たい沈黙が落ちた。
土に伏したその身体は、もはや動かない。
つい先ほどまで仲間を襲っていた存在が、あまりにもあっけなく終わったことに、彼女達はすぐには現実を受け止められなかった。
女冒険者は剣を構えたまま、その場に立ち尽くしていた。
息が浅く、視線だけが御言を捉えている。
ソフィアも同じだった。
ゴブリンではなく、御言の方を見つめ、言葉を失っている。
「……お前……」
女冒険者が、かすれた声を絞り出す。
「今、槍で……」
続きを言いかけた、その時だった。
「それよりも」
御言の声が、静かに、しかしはっきりと割って入る。
「彼らの手当を」
一瞬、何を言われたのかわからなかったように、女冒険者は瞬きをする。
だがその直後、ソフィアがはっと息を呑んだ。
「……そう、ですね!」
彼女は慌てて倒れている冒険者たちの方へ駆け寄る。
血に濡れた服、浅く速い呼吸。
「癒やしの光よ……」
杖の先に淡い光が灯り、傷口を包み込んでいく。
苦悶に歪んでいた顔が、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
女冒険者も我に返り、仲間の元へ駆け寄る。
「大丈夫だ、今治療してもらってる」
そう言いながら、仲間の身体を支え、声をかけ続けた。
しばらくして——
応急的な治療が一通り終わった頃、ようやくその場の緊張が解け始めた。
「……助かりました」
ソフィアが、深く頭を下げる。
「本当に、助かったよ」
続いて、女冒険者も御言の方を向き、剣を収めた。
御言は小さく首を振る。
「通りがかっただけだよ」
短い言葉だったが、その声音は柔らかい。
どちらからか簡単な自己紹介が交わされる。
女冒険者の名はマリア。
クラスは戦士。
斥候のオットー。
狩人のロイ。
そして、神官のソフィア。
名前を知ることで、張り詰めていた空気が、ようやく人のものへと変わっていく。
だが、マリアはふと視線を逸らし、再び御言を見る。
「……にしてもアンタ、さっきの一体……」
言いかけて、言葉を止める。
御言がわずかに視線を落としたのを見て、マリアは苦笑した。
「……悪い」
「余計な詮索は、マナー違反だったね」
その言葉に御言は何も返さなかったが、否定もしなかった。
その後、彼らと連れ立って街へと戻った。
ギルドでは、それぞれがクエストの達成報告を行い、受付の前で軽く言葉を交わす。
「じゃあ、これで……」
用事を終えた御言は一歩下がり、その場を離れようとした。
「待ってくれ」
マリアの声が背中を止める。
「改めて礼がしたい。酒場で一杯、どうだい?」
一瞬の間。
御言は振り返り、ほんの少しだけ考えてから答えた。
「……少しだけなら」
マリアは、ようやく笑った。
その揺れる赤褐色の髪、信念のこもった金色の瞳、何よりマリアが浮かべた快活な笑みに、どこか既視感を覚える。
初めて出会ったはずなのに御言は彼女の事を知っているような気がしていた。
初めてあとがきを書かせていただきます。
初対面のマリアに、御言が感じた「既視感」。
この世界の違和感を、少しずつ形にしていければと思います。
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