HELLO, NEW WORLD ――まだ死ねない世界へ
ぼくは死にたい――。
ぼくは死にたい。
けれど、痛いのが苦手だから死ねない。
ぼくは死にたい。
でも、苦しいのが嫌いだから死ねない。
ぼくは死にたい。
それなのに、死ぬのが怖いから死ねない。
「何でお前は、いつもそうなんだ」
――誰かが言う。
ぼくだって、好きでぼくで居るわけじゃない。
「だから、お前は駄目なんだ」
――また、誰かが言う。
だから。
その言葉の前に来るはずの何かを、ぼくはずっと探している。
何だから、ぼくは駄目なんだろう。
でも、一つだけ。
その「だから」に繋げられる言葉を、ぼくは持っている。
値踏みするような、くだらない視線。
見下すような、耳障りな笑い声。
目を閉じても、視線は背中に突き刺さる。
耳を塞いでも、笑い声は頭の中で反響し続ける。
「こんな世界だから、ぼくは死にたい」
死にたい。
死ねない。
死にたい。
死ねない。
それでも、朝はやってくる。
それなら、後ろ向きにでも生きるしかないのだろうか。
――無理だ。
後ろを向いても、誰かがぼくを見ている。
同じ場所を、何度も回り続ける思考。
死ぬことを考えては、無理だと否定し、また最初に戻る。
それに疲れると、ぼくは空想する。
自分が自分じゃない人生。
この世界ではない、どこか別の世界で生きる人生。
異世界物の漫画や小説を読み漁り、
そこに行けたらいいのにと、叶うはずもない夢に身を沈める。
「そんなに異世界に行きたいなら、死んでみたらどうだ。お前、死にたいんだろ?」
――耳元で囁くように、馬鹿にした声で、誰かが言う。
うん。
死ねるなら、死にたいよ。
ぼくは、心の中でだけ頷く。
でも、ぼくは――。
「死ねないんだよな?」
誰かが、ぼくの言葉を引き継ぐ。
ぼくの全部を知っているみたいな「ダレカ」。
それは、ぼくが死にたいと思った瞬間、必ず現れる。
「じゃあさ」
軽い調子で、ダレカは続ける。
「痛くも苦しくも怖くもない方法で、ここから消える方法があるとしたら?」
一瞬、思考が止まる。
ここから。
――この世界から?
「安心しろよ。しがらみも、なんもなくなる」
視線も。
笑い声も。
値踏みする目も。
「ただ、場所が変わるだけだ。役割も、立場も、名前も。全部な」
そんな都合のいい話があるわけない。
そう思うはずなのに、否定の言葉が出てこない。
「どうせ、ここに居ても死ねないんだろ?」
ダレカの声は、もう耳元じゃない。
頭の中全体に、じわじわと広がってくる。
「ならさ。一回くらい、生き方を間違えてみてもいいんじゃないか?」
間違え続けてきた人生で、これ以上、何を失うというんだろう。
目の前の世界が、少しだけ滲む。
部屋の輪郭が曖昧になり、音が遠のく。
逃げたい。
でも、死にたくない。
それでも、ここには居たくない。
――その全部を、ダレカは知っている。
「決まりだな」
最後に聞こえたのは、どこか楽しそうな声だった。
「ようこそ。お前が“まだ死ねない”世界へ」
それが、ぼくが覚えている最後の現実――
ふと知らない空の下で、目を覚ます。
草の匂い。
眩しさを感じるほどに突き刺さる、陽の光。
さっきまで居た薄暗い部屋とは、あまりにも違う。
……ああ。
これ、どこかで見たことがある。
ここは、異世界――。
届かないと理解して、くだらないと吐き捨てた夢。
それが今、圧倒的な質量で現実として立っていた。
ここで、ぼくはどうしたらいいんだろう。
ダレカの声は聞こえない。
何度問いかけても、返事はなかった。
しばらくして、ふと気付く。
そうか。
ぼくは今、死にたいと思っていないんだ。
次第に、一つの考えが浮かぶ。
異世界と言ったら――
ほとんどの場合、必ずあると言ってもいい“アレ”。
……試してみるべきなんじゃないだろうか。
「……す、ステータス」
久しぶりに口を動かしたせいか、声はかすれ、情けないほどにどもっていた。
誰に聞かせるわけでもない。
それなのに、言葉にした瞬間、妙な気恥ずかしさがこみ上げる。
もし、何も起こらなかったらどうしよう。
ただ一人で、意味のない独り言を呟いただけだったら。
そんな考えが、頭の中を駆け巡る。
――数秒。
何も起きない。
……やっぱり、そんな都合のいい話――
そう思いかけた、その瞬間。
視界の端が、かすかに歪んだ。
まるで空気そのものに、透明な膜が張られたような感覚。
焦点が合わないまま瞬きをすると、次の瞬間、淡く光る文字が目の前に浮かび上がる。
「……出た」
思わず、声が漏れる。
驚きよりも先に来たのは、拍子抜けに近い安堵だった。
――やっぱり、あるんだ。
ちゃんと、“よくある異世界”なんだ。
半透明のウィンドウには、見慣れた形式の情報が並んでいた。
【名前】神代 御言
【種族】人間
【状態】正常
ここまでは、想像通り。
そして、その下。
【固有スキル】
思想反転:死にたい → 死ねない《メメント・モリ》
「……」
ふと、宙に浮かぶウィンドウの中にひっかかるような違和感を覚える。
――固有スキル。
よくある異世界ものでは、大抵チート能力が割り当てられる項目だ。
それが自分にあるのは、正直、嬉しい。
嬉しい、けれど――。
「死にたいから、死ねないって……」
苦笑混じりに呟いた、その瞬間。
ウィンドウが、わずかに明滅し、文字列が書き換わる。
【固有スキル】
思想反転:死にたい → 死ねない《メメント・モリ》
効果:
・苦痛完全耐性
・恐怖完全耐性
・不死
(細胞単位で死の概念を除外。任意、または規定値を超える肉体損傷時、回帰を行う)
……文字を、目でなぞる。
意味を理解しようとして、その前に、一つだけはっきりと分かったことがあった。
「……これ、強すぎないか」
思わず、笑いそうになる。
痛くない。
苦しくない。
怖くない。
――あんなに欲しかったものが、全部まとめて、ここに書いてある。
胸の奥が、少しだけ軽くなるのを感じた。
少なくとも。
ここでは――
間違えても、終わらない。
「……悪くないな」
呟いた声は、さっきよりも、はっきりしていた。
半透明のウィンドウの向こう側。
まだ何も知らない世界が、静かに待っている。
生きる意味は、まだ分からない。
死ねない理由も、きっとこれからだ。
それでも――
歩き出すことくらいは、出来そうだった。




