玉座に響くは亡国の鐘
玉座の間の重厚な扉が、轟音と共に内側へ向かって吹き飛んだ。
魔王軍の雄叫びと、近衛騎士たちの悲鳴が、大理石の床に反響する。もはや、この王城に安全な場所などない。我が治めてきたこの王国は、今、まさに滅びようとしていた。
余は、アルフォンス・レクス・アーガイル。このアーガイル王国の最後の王となる男だ。
迫り来る死の恐怖よりも、今はただ、骨の髄まで凍てつくような深い後悔が、老いたこの身を支配していた。
(どこで、間違えた……?)
その問いは、ここ数日、いや、あの日からずっと、余の頭から離れない。
震える手で、玉座の肘掛けを強く握りしめる。全ての始まりは、希望に満ちていたはずだった。
平民の青年カイリに、勇者の力が覚醒したと報告を受けた時の高揚を、今でも覚えている。古の予言にある「異界の魂を持つ勇者」の出現。それは、長きにわたる魔王との戦いに、終止符を打つ天啓に他ならなかった。
実際に謁見したカイリという青年は、素朴で、誠実な目をしていた。その瞳には、力に驕る若者特有の傲慢さはなく、ただ、与えられた使命を真摯に受け止めようとする強い意志が宿っていた。余は、この若者に王国の未来を賭けるに足る器を見た。
そして、予言の成就をより確実なものとするため、余は一つの決断を下した。
「聖女リリアンナ・クローヴィスを、勇者カイリの婚約者とする」
予言にはこうも記されている。「勇者は聖女との絆を力に変え、魔を滅する」と。これは政略であった。クローヴィス公爵家という有力貴族を勇者の後ろ盾とし、何より「絆」という不確かなものを、婚約という形で強制的に結びつけようとしたのだ。
だが、余の浅はかな計算とは裏腹に、二人は純粋に愛し合うようになった。旅立つ前のカイリが、「必ず生きて戻り、リリアンナ様を幸せにします」と、まっすぐな目で余に誓った時、この老王の心にも、温かいものが込み上げたものだ。この二人ならば、本当に世界を救ってくれる。そう、確信したのだ。
……あの男を、パーティに加えさえしなければ。
致命的な過ち。それは、王国騎士ゼノン・ヴァルガスを、勇者一行の護衛として派遣したことだ。
ヴァルガス家は、王国でも一、二を争う名門の騎士爵家。貴族派の筆頭であり、平民出の勇者がもてはやされる現状を、快く思っていなかった。彼らの不満を宥め、かつ貴族たちにも魔王討伐に協力しているという体裁を与えるため、その嫡男であるゼノンを送り込むのは、政治的には最善の判断だった。ゼノン自身の剣の腕も、確かであると報告を受けていた。
もちろん、懸念がなかったわけではない。
ゼノンがリリアンナ様に執心であること、そしてカイリに対し、剥き出しの嫉妬心を抱いていることにも気づいていた。
だが、余はそれを軽視した。
(若者同士の競争心は、互いを高める良い刺激となろう)
(勇者という絶対的な立場の前では、騎士風情の嫉妬など、些細なことに過ぎぬ)
そう、たかをくくっていたのだ。長年、玉座にあって権謀術数を弄してきたこの余は、人の心を、特に愛憎という最も原始的で強力な感情を、あまりにも侮っていた。政治の駒としてしか、人間を見ていなかったのだ。
凶報が王都にもたらされたのは、決戦の日の翌日だった。
血相を変えた伝令兵が、玉座の間に転がり込んできた。
「申し上げます!勇者カイリ、魔王を前にして逃亡!討伐隊は、ゼノン・ヴァルガス騎士の指揮の下、魔王城へ突入したとの由!」
耳を疑った。あのカイリが?逃げた?
ありえぬ。あの誠実な青年が、全てを投げ出して逃げるなど。
だが、ゼノンからの正式な報告書にも、そう記されていた。聖剣が置き去りにされていたという事実が、その報告の信憑性を高めていた。
王国はパニックに陥った。民衆は希望を失い、貴族たちは「やはり平民には荷が重かったのだ」とカイリを非難し、ゼノンを新たな英雄として担ぎ上げようとした。
しかし、余の心には、一つの大きな疑念が渦巻いていた。
数日後、辛うじて生き残った賢者グランの使い魔が、第二の報告をもたらした。「聖剣はゼノンを拒絶せり」と。
やはりか。
聖剣は、心正しき者しか選ばぬ。それがゼノンを拒んだというのなら、カイリが逃げたという話も、俄に信じがたい。一体、あの最後の野営地で何があったのだ。
だが、もはや余に打つ手はなかった。
勇者不在の今、ゼノンが唯一の希望の星となってしまっている。ここで彼を疑い、指揮権を取り上げれば、王国は完全に瓦解する。余は、己の疑念に蓋をし、ゼノンを討伐隊の正式な指揮官として認めるしかなかったのだ。
愚かな判断であった。腐った枝に、国中の期待という重荷を背負わせたようなもの。その枝が折れるのは、必然であった。
討伐隊は、魔王の前に為すすべもなく敗れ去った。
その報が届くと同時に、魔王軍の総攻撃が始まった。歴戦の王国軍も、勇者を失った絶望と、聖女の支援を失った弱体化の前には、脆い砂の城のようだった。次々と防衛線は突破され、今や魔王軍の先鋒が、この玉座の間にまで到達しようとしている。
「王よ、観念なされ」
扉の残骸の向こうから、魔王軍の幹部であろう、禍々しい気を放つ魔人が姿を現した。
近衛騎士たちが最後の抵抗を試みるが、赤子の手をひねるように打ち倒されていく。
「一つ、面白いことを教えてやろう、人間の王よ。貴様らが希望を託した勇者カイリはな、逃げたのではない。捨てたのだ」
「……何?」
「貴様らが送り込んだ騎士が、聖女を寝取り、慰みものにした。そして聖女は、その背徳の快楽に溺れた。勇者はその全てを知り、愛に、人間に、そして貴様らの王国に絶望した。我らにとって、これほど都合の良い話はなかったぞ」
魔人の言葉が、雷となって余の脳天を撃ち抜いた。
そうか。そういうことであったのか。
余の政治的な配慮。貴族への貸しを作るための、安易な一手。それが、純粋な若者の心を砕き、絆を破壊し、世界を救う唯一の希望を、この手で葬り去ってしまったのだ。
ゼノンの嫉妬。リリアンナ様の弱さ。そして、それを見過ごし、利用しようとさえした、この余の愚かさ。その全てが噛み合って、この亡国という結末を招いたのだ。
「自らの手で、自らの首を絞めた気分はどうだ、王よ?」
魔人は嘲笑う。
もはや、返す言葉もない。
余はゆっくりと玉座から立ち上がり、壁に飾られていた王家の剣を手に取った。王として、最後の威厳を示すために。
(カイリよ……すまなかった)
心の中で、もう会うことのない若者に詫びる。
余がお前を信じきれず、余計な駒を盤上に置いたせいで、お前は全てを失った。いや、失わせたのは、この余だ。
この国は滅びる。それは、この愚かな王が招いた当然の報い。
だが、お前だけは、どうか生き延びてくれ。
お前が捨てたこの世界で、お前だけは、新しい人生を見つけてくれ。
それは、王としてではなく、ただ一人の老人としての、最後の、そしてあまりにも身勝手な願いであった。
剣を構えた余に向かい、魔人が漆黒の刃を振りかぶる。
その刃が首筋に迫る瞬間、余の脳裏に浮かんだのは、希望に満ちた目で王国の未来を語っていた、若き勇者の笑顔だった。




