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賢者の嘆息は戦塵に消える

ワシ、グランはドワーフとしては長生きな方じゃ。二百と数十年、この目で世界の移ろいを見てきた。山が崩れ、川の流れが変わり、いくつもの国が興り、そして滅んだ。人の子の命など、瞬きする間に過ぎ去るもの。だから、ワシは基本的に何事にも動じん。そう思っておった。あの若者、カイリ・アークライトに出会うまでは。


「グランはすごいな!この魔法陣、俺の知ってる知識じゃ絶対に組めない!」


まだ旅が始まったばかりの頃、目を輝かせながらワシの古代魔法に見入っていたカイリの顔を、今でもありありと思い出せる。

勇者。その言葉の響きとは裏腹に、彼は驕りも気負いもない、ただ実直で心優しい若者じゃった。転生者とかいう突拍子もない身の上を打ち明けられた時はさすがに驚いたが、彼の持つ異世界の知識と、この世界への真摯な姿勢は、老いぼれのワシにとって久方ぶりに心躍るものであった。

ワシは彼に魔法の理を教え、彼はワシに異世界の物語を聞かせる。それは、師弟であり、年の離れた友人のようでもあった。この旅が終わったら、ワシの故郷の山で、ゆっくり酒でも酌み交わしたい。そう思うほどに、ワシは彼のことを気に入っておった。


だからこそ、気づいてしまったのじゃ。

この勇者パーティという小さな世界に、じわじわと亀裂が広がっていることに。


きっかけは、あの王国騎士、ゼノン・ヴァルガスがパーティに加わった時からじゃ。

名門貴族の出だというその男は、見るからに傲慢で、嫉妬深い目をしていた。特に、カイリと聖女リリアンナ様が仲睦まじく語らう姿を見る時の目は、獲物を横取りされた獣のそれじゃった。

若者の痴話喧嘩など、放っておけばよかろう。最初はそう高を括っておった。だが、ワシの長年の勘が、これはただの痴話喧嘩では済まされぬと警鐘を鳴らしておった。


リリアンナ様の様子がおかしくなったのは、カイリが深手を負った、あの夜からじゃ。

ワシも治癒魔法の手伝いを申し出たのじゃが、ゼノンが「自分に任せろ」とリリアンナ様を連れて行ってしもうた。あの時の、彼女の怯えたような、しかしどこか助けを求めるような目が、どうにも気にかかっておった。


それからというもの、パーティの空気は日に日に淀んでいった。

リリアンナ様はカイリを避けるようになり、夜の祈りの時間も、どこか上の空じゃ。その背中からは、聖女が浮かべるべきではない、罪悪感と怯えの色が滲み出ておった。


そしてカイリ。あやつは、何も気づいておらんふりをしていたが、ワシの目は誤魔化せん。

日に日に口数は少なくなり、一人でいる時間が増えた。焚き火の炎を見つめるその横顔は、勇者のものではなく、ただ一人、出口のない苦悩に苛まれる青年の顔じゃった。

彼のユニークスキル『共鳴感知』。リリアンナ様との絆の証だと、嬉しそうに語っておったあの力が、皮肉にも彼を蝕んでいることは、想像に難くなかった。


決戦を明日に控えた、最後の夜。

ワシは、思い詰めた顔で立ち尽くすカイリに声をかけた。


「カイリ。お前さんは一人で抱え込みすぎる。勇者である前に、お前さんはまだ若い男だ。もっと周りを頼らんか」


ワシにできることは、それくらいじゃった。察してはいても、確たる証拠もなしに他人の心に土足で踏み入るのは、賢者の流儀ではない。彼が自ら口を開いてくれるのを、待つしかできんかった。


「ありがとう、グラン。でも、本当に大丈夫だ」


力なく笑う彼の顔を見て、ああ、もう手遅れかもしれん、と悟った。

あやつは、ワシらには頼れぬ方法で、己の疑念に決着をつけようとしておる。その覚悟を決めた者の顔じゃった。

その夜、ワシは眠れずにいた。すると、カイリがテントからそっと抜け出し、野営地のはずれへと向かうのが見えた。その手には、何か小さな水晶のようなものが握られておった。

彼の背中が、あまりにも孤独で、小さく見えた。今すぐ駆け寄り、その肩を掴んで「一人で逝くな」と叫びたかった。じゃが、足が動かなかった。彼が知ろうとしている真実の重さが、ワシの足を縫い付けてしまったのじゃ。


結局、ワシは夜明けまで、ただ焚き火の番をすることしかできんかった。己の無力さを、これほど呪ったことはない。


そして朝が来た。

ワシの予感は、最悪の形で現実となる。


「カイリがおらん!聖剣も置き去りにしとる!」


ワシの叫びに、パーティは騒然となった。

その中で、ゼノンだけがほくそ笑んでおった。


「フン、決定的だな。奴は逃げたのだ。魔王を前にして、恐怖に屈したのだろう」


吐き捨てるように言うその言葉に、ワシは腸が煮え繰り返る思いじゃった。

この男が全ての元凶じゃ。ワシは確信しておった。じゃが、それを証明する術がない。

そして、ワシの怒りをさらに煽るように、ゼノンは聖剣に手をかけた。


「この俺が新たな勇者となり、聖剣を手に魔王を討ち果たしてみせましょう!」


滑稽な猿芝居じゃ。聖剣が、あのような邪心に満ちた男を選ぶはずがない。

案の定、聖剣はびくともせんかった。顔を真っ赤にして何度も柄を揺するゼノンの無様な姿を、ワシは冷え切った心で見つめていた。


「やめておけ、騎士様。聖剣は心正しき者しか選ばん。嫉妬と欲望に塗れたお主には、ただの鉄屑も同然じゃ」


ワシの言葉に、ゼノンは逆上したが、もはや彼の威光など欠片も残ってはおらんかった。

ふとリリアンナ様に目をやると、彼女は血の気を失った顔で、ただ立ち尽くしていた。その瞳に浮かぶのは、深い絶望と、取り返しのつかない後悔の色。

ああ、やはり。

彼女の過ちが、カイリをこの場所から追い出してしまったのじゃ。

なんと愚かなことを。あの心優しい若者の信頼を裏切るとは。そして、その弱みに付け込んだこの騎士も、同罪じゃ。


もはや、この旅の結末は見えた。

勇者を失い、聖女は心を失い、残ったのは偽りの勇者と、無力な老賢者。

これでどうやって、あの魔王に勝てというのか。


それでも、ワシは魔王城へと向かうことにした。

これは、賢者としての最後の務め。そして、カイリの仲間じゃった者としての、けじめじゃ。この若者たちの愚行が招く結末を、この目で見届けてやらねばならぬ。


魔王城の玉座の間は、墓場のように静かじゃった。

玉座に深々と腰掛けた魔王は、我らを虫けらでも見るかのような目で見下ろしておった。


戦いは、戦いと呼ぶのもおこがましい、一方的な蹂躙じゃった。

ゼノンの剣は魔王の体に届きもせず、リリアンナ様の弱々しい祈りは、闇の前には無力じゃった。ワシが放つ古代魔法も、魔王の強大な魔力の前では、子供の火遊びのようなもの。


やがて、ゼノンは無様に地に伏し、己の命と引き換えにリリアンナ様を魔王に差し出した。

騎士の誇りも男の意地も、全てを投げ捨てたその醜態に、ワシは深い嘆息を漏らすしかなかった。


「勇者を騙り、聖女を盾にするか。見事な卑劣漢よ」


魔王の言葉が響く。そして、ゼノンは絶叫と共に、蟲の魔物にその身を喰い尽くされていった。自業自得とはいえ、哀れな最期じゃった。


そして、魔王は全ての真実をリリアンナ様に告げた。

カイリが全てを知っていたこと。彼が残したお守りが録音魔道具だったこと。彼女の裏切りが、彼の心を砕き、この悲劇を招いたこと。

絶望に泣き崩れる聖女の姿を、ワシはただ見ていることしかできんかった。


「さて、残るは賢者か」


魔王の視線が、ついにワシを捉えた。

ワシは杖を握り直し、最後の魔力を練り上げる。勝ち目がないことなど、百も承知。じゃが、ドワーフは、戦うべき時に背を向ける生き物ではない。


「お主は、他の二人とは少し違うようだな。全てを悟っておったか」

「……若者たちの過ちじゃ。ワシのような老いぼれが、止めてやれんかったのが悔やまれるだけじゃ」


ワシの言葉に、魔王はふっと笑った。


「面白い。ならば、最後に一つ教えてやろう。勇者カイリは、生きている」

「……!」

「そして、この結末も、奴が望んだものの一部よ。奴は我らと取引をし、自らの復讐を果たした。もう奴は勇者ではない。ただの自由な一人の男よ」


そうか。

あやつは、ただ絶望して消えたのではなかったのか。

自らの手で、過去に決着をつけたのか。

その事実に、ワシの胸に安堵と、一抹の寂しさが広がった。そこまで追い詰められておったのか、あやつは。誰にも頼らず、一人でそこまでの覚悟を決めておったのか。


「カイリよ……」


ワシは、その名を小さく呟いた。

魔王の強大な魔力が、闇の奔流となってワシに迫る。もはや、避けることも、防ぐこともできん。


ああ、これでワシの長い旅も終わりか。

最期に、あやつの無事を聞けただけでも、良しとせねばなるまい。


カイリよ。

お前さんがどこで何をしておるかは知らん。じゃが、どうか、達者でな。

お前さんが捨てたこの世界は、もうじき終わるじゃろう。じゃが、お前さんの人生は、まだ始まったばかりじゃ。

この老いぼれの最後の願いじゃ。

どうか、幸せになるんじゃぞ。

もう二度と、一人で苦しむでないぞ。


闇がワシの視界を覆い尽くす。

戦塵に消えていく意識の中で、ワシはただ、遠い空の下にいるであろう若き友の、新たな旅路に幸多からんことを祈っておった。

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