偽りの騎士は絶望の玉座に跪く
意識が浮上した瞬間、全身を焼くような激痛と、骨の髄まで凍えるような寒気が同時に襲ってきた。
俺、ゼノン・ヴァルガスは、魔王城の冷たい床に転がされていた。魔王の一撃で砕かれたであろう肋骨が、呼吸のたびに悲鳴を上げる。王国最高の騎士と謳われたこの俺が、なんという無様な様だ。
「こんなはずではなかった……」
掠れた声で呟いた言葉は、広すぎる玉座の間に虚しく響いた。
どこで間違えた?
いや、間違ってなどいない。俺の計画は完璧だったはずだ。あの忌々しい平民出の勇者、カイリ・アークライトさえいなければ。
俺の記憶は、この屈辱的な敗北から、全ての始まりへと遡っていく。
俺は王国でも指折りの名門、ヴァルガス騎士爵家の嫡男として生まれた。幼い頃から最高の教育を受け、剣を握れば神童と呼ばれ、誰もが俺の輝かしい未来を疑わなかった。いずれは騎士団の頂点に立ち、国を動かす存在になる。それが俺の歩むべき道であり、当然の権利だと信じていた。
その完璧な設計図に、最初の亀裂を入れたのがカイリだった。
どこの馬の骨とも知れない平民の小僧が、ある日突然「勇者」の力に目覚めた。予言の勇者の出現に王国中が沸き立ち、全ての注目が奴一人に集まった。俺が血の滲むような努力で積み上げてきた名声も実力も、たった一つの「勇者」という称号の前に霞んでしまった。
屈辱だった。俺が守るべき民衆が、俺ではなく、あの小僧に喝采を送る。俺が忠誠を誓うべき王が、俺ではなく、あの小僧に期待を寄せる。
そして、極めつけは聖女リリアンナ・クローヴィス様の存在だ。
代々聖女を輩出するクローヴィス公爵家の令嬢。その美貌、気品、そして聖女という崇高な地位。彼女は、俺のような選ばれた男にこそ相応しい存在のはずだった。いずれは俺が娶り、ヴァルガス家の権威をさらに高めるための、最高のトロフィーとなるはずだった。
だというのに、国王はこともあろうに、そのリリアンナ様をカイリの婚約者と定めたのだ。魔王討伐という偉業の褒美として。
許せなかった。俺の全てを、俺が手に入れるべきだった栄光の全てを、あの平民出の小僧が奪っていく。奴が浮かべる人の好さそうな笑みも、リリアンナ様と交わす睦言も、その全てが俺の神経を逆撫でした。
奴らが語る「信頼」だの「絆」だのという綺麗事が、ひどく偽善的に見えた。所詮は平民が貴族の女を手に入れただけの、下劣な成り上がり物語ではないか。
だから、奪ってやろうと決めた。
勇者の称号は奪えない。だが、奴が最も大切にしているもの、奴の力の源だと自慢げに語るもの――聖女リリアンナとの絆とやらを、俺が根こそぎ奪い、踏み躙ってやる、と。
好機は、意外と早く訪れた。
とあるダンジョンでの戦闘で、カイリが深手を負った。俺は好機とばかりに、疲労困憊のリリアンナ様を介抱する役目を買って出た。
俺のテントに彼女を運び込んだ時、征服欲で全身が打ち震えるのを感じた。怯える子鹿のような彼女の瞳が、俺のサディスティックな心をこの上なく刺激した。
「聖女様……ずっと、こうしたかった」
俺は彼女を組み敷いた。最初は抵抗された。だが、俺は知っていた。彼女のような箱入りのお嬢様が、何よりも恐れるものを。
カイリの名誉、そしてクローヴィス公爵家の家名。それを引き合いに出して脅せば、彼女は何もできなくなる。案の定、彼女は涙を流しながらも、やがて俺の腕の中で体の力を抜いた。
初めて彼女の体を貫いた時の感触は、今でも忘れられない。聖女を穢しているという背徳感。勇者が最も神聖視するものを、俺が支配しているという優越感。それは、どんな戦場で武勲を立てるよりも、遥かに甘美な勝利の味だった。
それからというもの、俺は彼女を繰り返し求めた。
最初は脅しだった。だが、次第に彼女の体も正直になっていくのが分かった。カイリの生温いだけの愛情では決して与えられない、暴力的で、支配的な快楽。罪悪感に苛まれながらも、俺に与えられる快感から逃れられなくなっていく彼女の姿は、最高の見世物だった。
夜ごと俺の腕の中で喘ぎ、乱れる聖女。その一方で、日中はカイリの前で罪悪感に怯え、ぎこちない笑顔を浮かべる。その滑稽な対比を見るたびに、腹の底から笑いが込み上げてきた。
お前が信じる絆など、この程度のものなのだ、カイリ。お前の聖女は、今や俺の快楽の奴隷なのだ、と。
そして、決戦前夜。
ついにカイリが姿を消した。聖剣を置き去りにして。
俺は勝利を確信した。奴は、リリアンナ様の心の離反に薄々気づき、最後の最後で恐怖に耐えきれず逃げ出したのだ。なんと脆い男だろうか。
「奴は逃げた!だが、この俺がいる!」
俺は高らかに宣言し、聖剣に手をかけた。ここですんなり聖剣が抜け、俺が新たな勇者として魔王を討ち果たせば、物語は完璧な形で完結するはずだった。リリアンナ様も、力ある俺に完全に靡くだろう。
だが、聖剣は俺を拒絶した。どれだけ力を込めても、地面に縫い付けられたように動かない。
「なぜだ……!」
あの時の屈辱は、カイリが勇者に選ばれた時以上だったかもしれない。
賢者のグランが、俺を侮蔑するような目で見ていた。リリアンナ様も、どこか呆然とした表情を浮かべている。
苛立ちが募った。計画に狂いが生じた。だが、まだ終わったわけではない。勇者がいなくとも、俺の剣技と、弱まったとはいえ聖女の支援があれば、魔王を倒せないはずがない。俺はそう信じ、無理やりパーティを率いて魔王城へ突入した。
それが、この様だ。
玉座から見下ろす魔王の瞳には、憐憫すらなかった。ただ、塵芥を見るような冷たい侮蔑があるだけだ。
「痴れ者が。勇者の力とは、聖剣の力だけではない。聖女との揺るぎない絆、それこそが真の力の源泉。だが、貴様らにはそれがない」
魔王の言葉が、俺の最後のプライドを粉々に砕いた。
絆?あの綺麗事が、本当に力だったというのか?馬鹿な。そんな非合理なことがあるものか。
だが、現に俺は敗れた。俺の剣は、魔王に届きすらしなかった。
恐怖が、じわじわと理性を侵食していく。死にたくない。こんな所で、こんな惨めな負け方で、死んでたまるか。
その時、俺の目に、そばで震えるリリアンナの姿が映った。
そうだ。こいつを使えば。
「ま、待て!こいつをくれてやる!聖女だ!」
俺は騎士の誇りも何もかも捨て去り、命乞いをした。彼女を突き飛ばし、魔王への貢物として差し出した。もはや彼女は、俺にとって何の価値もない。俺の計画を狂わせた、役立たずの女だ。
俺の醜悪な行動を見て、魔王は初めて楽しそうに口の端を吊り上げた。
「ほう。勇者を騙り、聖女を盾にするか。騎士の風上にも置けぬ、見事な卑劣漢よ」
「う、うるさい!命が助かるなら、何でもする……!」
「よかろう。貴様には、死よりも辛い苦痛を与えてやろう。その矮小なプライドに相応しい、惨めな最期をな」
魔王が指を鳴らした瞬間、俺の体に無数の何かが這い上がってくる感覚があった。
見ると、それは蟲のような、黒い小さな魔物だった。そいつらが、俺の鎧の隙間から肉に食らいつき、少しずつ、少しずつ肉を喰い千切っていく。
「ぎ……ぎゃあああああああああっ!」
絶叫が迸る。焼けるような痛み、抉られるような痛み、神経を直接引きずり出されるような、想像を絶する苦痛。
だが、魔物は決して急所を狙わない。意識を保ったまま、俺という存在が、端からゆっくりと食い尽くされていく。
薄れゆく意識の中、俺は見た。
虚ろな目で俺の最期を眺めるリリアンナ。
そして、その向こうに、幻影が見えた。
いつかの野営地で、リリアンナと楽しそうに笑い合っていた、カイリの姿。
その幻影が、ゆっくりとこちらを振り返る。その顔には、何の感情も浮かんでいない。ただ、底なしの虚無を湛えた瞳で、俺を静かに見下ろしている。
ああ、そうか。
俺は、結局一度も、奴に勝てていなかったのか。
俺が必死に築き上げた計画も、手に入れたと思った勝利も、全ては奴の手のひらの上で踊らされていたピエロの茶番に過ぎなかったのか。
俺が奪ったと思っていた絆は、俺が触れることすらできないほど強固で、俺が壊したのは、その絆ではなく、俺自身の人生だったのだ。
「か……い……り……」
憎悪と、ほんの少しの後悔が入り混じった声が、喉から漏れる。
だが、もう遅い。
無数の魔物が俺の視界を覆い尽くし、意識は永遠の闇へと引きずり込まれていった。
最期まで、俺の耳には、自分を見下すカイリの幻影の、声なき嘲笑が響いていた。




