贖罪の聖女は永遠の闇に祈る
冷たい石の床の感触が、とうに感覚の鈍磨した背中にじわりと広がる。
ここは魔王城の最下層。光も届かず、時間の流れさえも曖昧な、ただ静寂と絶望だけが満ちる牢獄。
私の四肢には、魔力を帯びた枷が嵌められています。それは私から聖なる力を絶えず吸い上げ、この城を満たす邪悪な力の源へと変えるための呪具。肉体的な苦痛は、もうほとんど感じません。それよりも遥かに深く、耐え難い痛みが、私の魂を蝕み続けていました。
「ごめんなさい……カイリ様……ごめんなさい……」
誰に聞かせるともなく、私は乾いた唇で同じ言葉を繰り返します。
その名を呼ぶたびに、胸が張り裂けそうになる。かつて、心からの愛を込めて呼んだ名前。今は、決して届くことのない謝罪と後悔の響きしか伴わない名前。
どうして、こうなってしまったのでしょう。
目を閉じると、今も鮮明に思い出せるのです。旅が始まったばかりの頃の、希望に満ちていた日々を。
「リリアンナがいれば、俺はどんな敵にも負けないよ」
焚き火の前で、カイリ様はそう言って優しく笑ってくれました。
平民の生まれでありながら、その類稀なる才覚で勇者に選ばれた彼。転生者であるという彼の秘密を打ち明けられたのは、パーティの中でも私だけでした。彼の語る異世界の知識は驚きに満ちていましたが、それ以上に、彼の孤独を分かち合えたことが、私には何より嬉しかったのです。
国王陛下の命令で結ばれた婚約でしたが、共に旅をするうちに、私たちの心は固く結ばれていきました。彼のユニークスキル『共鳴感知』は、私たちの絆の証。言葉を交わさずとも、互いの心が温かく繋がっているのを感じられる、特別な力でした。
魔王を倒したら、王都の小さな教会で式を挙げよう。子供は二人くらい欲しいね、と笑い合った夜。あの幸せな未来が、疑いようもなく訪れると信じていました。
あの夜が、来るまでは。
全ての過ちの始まりは、とあるダンジョンの奥深く。強力な魔将との戦いで、カイリ様が瀕死の重傷を負われた夜のことでした。
私は持てる魔力のすべてを注いで彼を治療しましたが、それでも傷は深く、私自身も疲労で倒れ込んでしまいました。
朦朧とする意識の中、私を抱き起こしたのは、王国騎士のゼノン・ヴァルガス様でした。
「聖女様は俺がお守りします。ここは下がっていてください」
力強い腕に抱きかかえられ、私は彼のテントへと運ばれました。カイリ様をこれ以上心配させたくないという気持ちと、純粋な疲労から、私はその申し出を断ることができませんでした。それが、取り返しのつかない過ちの第一歩だったのです。
テントの中で、濡れた布で汗を拭ってくれるゼノン様の目は、いつもと違っていました。普段の、聖女に向ける敬意の眼差しではなく、獲物を見定めるような、ぬらりとした欲望の色を浮かべていました。
「聖女様……リリアンナ。お美しい……」
「ゼノン様……もう大丈夫ですわ。カイリ様のそばに……」
私が身を起こそうとした瞬間、彼の腕が私の体を強く押さえつけました。
「何を遠慮する必要があるのです。奴は今、動けもしない。……ずっと、こうしたかった」
「や……やめてください……!」
引き剥がそうとしても、騎士である彼の力に敵うはずもありません。恐怖に叫びそうになる私に、彼は耳元で悪魔のように囁きました。
「騒ぐのか?騒げばいい。だが、そうなれば俺はこう証言する。『勇者カイリが、婚約者である聖女に無理やり夜伽を強要していた』と。平民出の勇者が聖女を性の捌け口にしていたという醜聞……王国中がどう思うだろうな?お前のクローヴィス公爵家も、安泰ではいられまい」
血の気が引きました。彼の言葉は、単なる脅しではありません。嫉妬に狂った彼ならば、本当にやりかねない。私の軽率な行動が、カイリ様の名誉を、そして我が家の名誉を地に堕とすことになる。その恐怖が、私の体の自由を完全に奪いました。
「お願い……やめて……」
涙ながらの懇願は、彼の欲望の炎に油を注ぐだけでした。
その夜、私は穢されました。愛する人がすぐ近くで苦しんでいるというのに、私は別の男に力ずくで体を奪われたのです。
罪悪感で死んでしまいたいと思いました。翌朝、カイリ様の前に立つのが怖くて、顔を合わせることができませんでした。
カイリ様は、何も言わずにただ私の頭を撫でてくれました。
「疲れているんだね。無理しなくていい」
その優しさが、ナイフのように私の胸を突き刺しました。
きっと、私の怯えや混乱を、『共鳴感知』で感じ取ってくれていたのでしょう。彼はそれを、激戦の疲れのせいだと解釈してくれたのです。
その信頼を、私は裏切ってしまった。
一度過ちを犯してしまえば、坂道を転がり落ちるのはあっという間でした。
ゼノン様は私の弱みに付け込み、その後も夜ごと私を呼び出しました。断れば、あの一件をカイリ様に暴露すると脅して。
私は彼の言いなりになるしかありませんでした。抵抗するたびに、彼はより執拗に、より暴力的に私を支配しました。
最初は恐怖と屈辱だけでした。カイリ様への申し訳なさで、毎晩涙が止まりませんでした。
けれど、いつからだったでしょう。あの暴力的な支配の中に、抗いがたい官能を見出してしまったのは。
カイリ様の、全てを受け入れてくれるような優しい愛撫とは違う、体を無理やりこじ開けられるような激しい快楽。罪深いと分かっていながら、私の体は正直に反応してしまいました。
「ほら見ろ。お前の体は、奴よりも俺を求めている」
「聖女様が、こんなふうに乱れるなんてな。カイリには見せられない顔だ」
彼の囁きが、私の罪悪感を麻痺させていく。穢されているという背徳感が、いつしか甘美な毒のように私の全身を巡り始めました。
カイリ様と目が合うたびに、心臓が凍りつくような恐怖に襲われました。私のこの穢れた感情が、『共鳴感知』を通して彼に伝わってしまったら?
その恐怖から、私は無意識のうちにカイリ様を避けるようになっていました。彼と二人きりになるのが怖い。彼の優しい瞳に見つめられるのが、苦しい。
そうして彼と距離を置けば置くほど、私の孤独と不安は深まり、夜、私を慰めてくれるゼノン様の腕の中に、より深く沈んでいくのでした。
そして、運命の決戦前夜。
カイリ様は、私に小さな水晶を渡してくれました。
「故郷に伝わるお守りなんだ。持っているだけで、悪いものから守ってくれる」
涙が出ました。私の心の揺らぎに気づき、心配してくれている。彼の変わらない優しさが、嬉しくて、そして何よりも辛かった。
私は、このお守りを胸に抱き、今夜こそゼノン様の誘いを断ろうと決意していました。
けれど、その夜も彼は私のテントに現れました。そして、私はまたしても、彼の脅しと、体に染み付いてしまった快楽に屈してしまったのです。カイリ様から貰ったお守りがすぐそばにあるというのに。
翌朝、カイリ様は消えていました。
聖剣だけを残して。
ゼノン様は「勇者は逃げた」と声高に叫びました。私は、そうではないと心のどこかで分かっていました。私の裏切りに、彼が気づいてしまったのだと。
それでも、私は真実を口にすることができませんでした。ゼノン様に脅され、彼の偽りの勇者としての戦いを、弱まりきった聖なる力で支援するしかなかったのです。
結果は、惨憺たるものでした。
魔王の圧倒的な力の前に、私たちは為すすべもなく敗れ去りました。
そして、私は魔王から、決定的な絶望を告げられたのです。
「教えてやろう。貴様が愛した勇者カイリは、すべてを知っていた」
魔王の言葉が、脳に突き刺さりました。
カイリ様が私に渡したお守り。それは、彼の故郷の知識で作られた、音を記録する魔道具だったと。
あの夜の、ゼノン様との醜い情事の全てを、彼は聞いていたのだと。
「彼は貴様の裏切りに心を砕かれ、すべてを捨てて姿を消したのだ。そして……今もどこかで見ているぞ。貴様と、貴様が招いたこの王国の末路をな」
ああ、そうだったのか。
彼は、ただ逃げたのではなかった。私の裏切りが、彼の心を完全に破壊してしまったのだ。
私が愛した人を、この世界で最も深く傷つけたのは、魔王でも魔物でもなく、この私だったのです。
そして、その私の愚かな行いが、パーティを崩壊させ、王国を滅亡へと導いた。
全ての罪が、一本の線で繋がりました。
「あ……あぁ……あああああああああっ!」
私は、生まれて初めて、魂からの絶叫を上げました。
床に額を擦り付け、血が滲むのも構わずに、ただ許しを請いました。もう決して届くことのない、空っぽの謝罪を。
それからの日々は、地獄そのものです。
私はこの牢獄で、聖女としての力を根こそぎ吸い上げられ続けています。それは魔王軍を強化し、私が守るべきだった人々を蹂躙するための力へと変換されていきます。
私が生きている限り、私の力は人々を苦しめ続ける。死ぬことすら許されない、これが私の犯した罪に対する罰なのです。
時折、幻を見ます。
旅の途中で見つけた花畑で、私の髪に花を飾ってくれた、カイリ様の優しい笑顔。
「ずっと一緒にいよう」と、私の手を握りしめてくれた、彼の温かい手の感触。
そして、その幻は、冷たい軽蔑の瞳に変わります。
『なぜ裏切ったんだ、リリアンナ』
声にはならず、ただその瞳が私を責め立てるのです。
ごめんなさい。ごめんなさい、カイリ様。
私は弱かった。ゼノン様の脅しに屈し、与えられた快楽に溺れてしまった。あなたの清らかな愛よりも、穢れた支配の方を選んでしまった。
もし、あの時に戻れるなら。
いいえ、もう遅いのです。私が何を願おうと、失われた信頼は戻らない。崩壊した世界は元には戻らない。
「もう遅い」
その言葉が、枷の軋む音に混じって、この牢獄に響き渡ります。
カイリ様。
あなたは今、どこで何をしていますか。
魔王の言う通り、私のこの無様な姿を見ているのでしょうか。
もし、そうであるならば、それで構いません。あなたの心の傷が、私のこの絶望によって少しでも癒えるのなら。
どうか、幸せになってください。私のことなど忘れて、新しい誰かと、私が壊してしまった未来を生きてください。
そう願うことだけが、私があなたにできる、最初で最後の、そして永遠に届くことのない償いだから。
私の意識は、再び深い闇へと沈んでいきます。
涙はとうに枯れ果てました。
ただ、聖なる力を奪われ続けるこの体で、愛した人の幸せだけを祈り続ける。
それが、元聖女リリアンナ・クローヴィスに与えられた、永遠の贖罪なのです。




