第二話 偽りの勇者と救われぬ聖女
勇者カイリが姿を消した朝は、異様な静けさの中で幕を開けた。 決戦の日の夜明け。誰もが張り詰めた空気の中、あるべきはずの主役の不在に気づいたのは、賢者グランだった。
「カイリがおらん!聖剣も置き去りにしとる!」
グランの焦った声が、野営地に響き渡る。その言葉に、真っ先に顔色を変えたのはリリアンナだった。
「そ、そんな……カイリ様が、どこへ……?」
血の気の引いた顔で、彼女は聖剣が突き立てられた場所へと駆け寄る。主の魔力を失った聖剣は、ただの冷たい鉄塊として、朝霧の中に佇んでいた。 その隣で、王国騎士ゼノンは腕を組み、わざとらしく溜め息をついた。
「フン、決定的だな。奴は逃げたのだ。魔王を前にして、恐怖に屈したのだろう。平民出身の男に、勇者の重責は荷が勝ちすぎたというわけだ」
その言葉は、明らかにその場にいる全員に向けられていた。特に、狼狽するリリアanナを射抜くような視線で、彼は言葉を続ける。
「聖女様、嘆くことはありません。勇者が逃げたからといって、人類の希望が尽きたわけではない。この俺、ゼノン・ヴァルガスがいます」
ゼノンはそう言うと、芝居がかった仕草で聖剣の柄に手を伸ばした。
「勇者の資格は、血筋や生まれではない!世界を救うという強い意志を持つ者にこそ与えられる!この俺が新たな勇者となり、聖剣を手に魔王を討ち果たしてみせましょう!」
高らかに宣言し、ゼノンは力任せに聖剣を引き抜こうとする。しかし、聖剣はびくともしない。まるで大地に根を張った大樹のように、彼の力を完全に拒絶していた。
「なっ……なぜだ!?」
顔を真っ赤にして何度も挑戦するが、結果は同じ。その無様な姿に、グランが冷たく言い放った。
「やめておけ、騎士様。聖剣は心正しき者しか選ばん。嫉妬と欲望に塗れたお主には、ただの鉄屑も同然じゃ」
「な、何を……!」
図星を指されたゼノンが激昂するが、もはや彼の威厳は失墜していた。 リリアンナは、その光景をただ呆然と見つめていた。カイリがいない。彼が全てを捨てて消えてしまった。その事実が、彼女の心を打ちのめす。 私のせいだ。私が、ゼノン様の脅しに屈して、あんな過ちを犯してしまったから。カイリ様はきっと、気づいてしまったんだ。私の穢れに。
「リリアンナ」
ゼノンが、吐き捨てるように彼女の名前を呼んだ。その声には、先程までの甘さは微塵もない。
「お前のせいだぞ。お前がいつまでも奴に未練を残しているから、カイリは増長し、そして土壇場で逃げ出すような真似をしたんだ。責任を取れ。俺に従い、お前の聖なる力で俺を支援しろ。でなければ……俺たちの関係を、ここでぶちまけてやってもいいんだぞ?」
耳元で囁かれた脅迫に、リリアンナはなすすべもなく頷くことしかできなかった。罪悪感と恐怖が、彼女の思考を完全に麻痺させていた。 彼女の祈りは、もはや神には届かない。濁りきった心から放たれる聖なる力は、かつての輝きを失い、見る影もなく弱まっていた。
結局、ゼノンが率いることになったパーティは、魔王城へと突入した。 聖剣を失い、ただの騎士の剣を振るう偽りの勇者。 心を失い、力の弱まった聖女。 そして、絶望的な状況をただ嘆くしかない賢者。 その先に待っていたのは、言うまでもなく、圧倒的な敗北だった。
「ぐあああっ!」
魔王の振るう闇の奔流が、ゼノンの体をいともたやすく吹き飛ばす。彼は壁に叩きつけられ、無様に蹲った。
「こんな、はずでは……勇者がいなくとも、俺の剣技と聖女の支援があれば……!」
「痴れ者が」
魔王は、玉座に座ったまま、心底軽蔑したような視線をゼノンに向ける。
「勇者の力とは、聖剣の力だけではない。聖女との揺るぎない絆、それこそが真の力の源泉。だが、貴様らにはそれがない。あるのは、嫉妬と裏切り、そして欲望だけ。そのような濁りきった者たちが、どうして我を討てると思った?」
魔王の言葉に、ゼノンは己の失態を悟った。だが、プライドだけは捨てきれない彼は、最後の悪あがきに出る。
「ま、待て!俺を殺すな!こいつをくれてやる!聖女だ!こいつがいれば、好きにできるぞ!」
ゼノンは這いずるようにリリアンナの足元に移動し、彼女を突き飛ばして魔王への盾にした。その醜悪な姿に、リリアンナは完全に心を折られた。信じていた愛を裏切り、縋った男には道具として扱われる。これが、自分の犯した罪の罰なのだと。
その全ての光景を、俺は遠く離れた断崖の上から、静かに見つめていた。 転生知識を応用して作り出した、遠見の魔道具を通して。
「……見事な自滅劇だな、勇者カイリ」
隣から、冷ややかで、しかしどこか楽しげな声がかけられる。声の主は、魔王軍四天王の一人、妖艶な女幹部のモルガナ。俺が失踪した夜、接触してきた相手だ。
「あんたたちの筋書き通りだろ」
俺は視線を魔道具から外さずに答える。 そう、これは全て、俺と魔王軍が描いた筋書きだった。 失踪した俺は、彼らと取引をしたのだ。俺は勇者としての役目を放棄し、魔王討伐には一切関与しない。その代わり、魔王軍は王国を滅ぼした後、俺の存在を黙認し、手を出さない。 利害は一致した。俺は裏切り者たちへの復讐と王国からの解放を望み、魔王は予言に定められた「勇者と聖女の絆」という最大の脅威を、戦わずして消し去ることを望んだ。
「しかし、意外だったぞ。まさか貴様が、我らの誘いに乗るとはな。愛する女と王国を、そう簡単に見捨てられるものかと思っていたが」
「愛は消えた。忠誠心もな。残ったのは、空っぽの心だけだ」
俺の言葉に、モルガナはくすりと笑う。
「空っぽ、か。その目を見る限り、そうは思えんがな。復讐という炎が、静かに燃えているように見える」
魔道具の映像の中では、魔王がゼノンに最後の審判を下していた。
「勇者を騙り、聖女を盾にする卑劣漢よ。貴様には、死よりも辛い苦痛を与えてやろう」
魔王が指を鳴らすと、ゼノンの体は無数の虫のような魔物に覆い尽くされた。肉を少しずつ、少しずつ喰い千切られていく絶叫が、遠見の魔道具を通して微かに聞こえてくる。自らのプライドも尊厳も、全てを食い尽くされて絶命する、惨めな最期だった。
そして、残されたのはリリアンナ一人。 彼女は床に座り込み、虚ろな目で魔王を見上げていた。
「さて、聖女よ」
魔王は玉座から立ち上がり、ゆっくりと彼女に歩み寄る。
「貴様は自分が何をしたか、理解しているか?」
「……」
リリアンナは答えない。いや、答えられないのだ。
「教えてやろう。貴様が愛した勇者カイリは、すべてを知っていた。貴様が騎士と肌を重ね、快楽に溺れていたことを、すべてな」
その言葉に、リリアンナの肩が大きく跳ねた。彼女の瞳に、初めて絶望以外の色が浮かぶ。信じられない、という動揺の色が。
「彼は貴様の裏切りに心を砕かれ、すべてを捨てて姿を消したのだ。そして……今もどこかで見ているぞ。貴様と、貴様が招いたこの王国の末路をな」
魔王は、まるで俺の視線を知っているかのように、俺がいる方角を指差した。
「カイリ、様が……見て、いる……?」
リリアンナは、絞り出すような声で呟いた。 自分の弱さが、過ちが、愛する人をどれだけ傷つけ、絶望させたか。 そして、その結果が、仲間の無様な死と、これから訪れる王国の滅亡であること。 全てのピースが繋がり、彼女は真実という名の奈落の底へと突き落とされた。
「あ……あぁ……あああああああああっ!」
城中に響き渡る、魂の絶叫。
「ごめんなさい……ごめんなさい、カイリ様……!私が、私が馬鹿だったから……!お願い、許して……!」
彼女は泣き叫び、地面に額を擦り付けて謝罪を繰り返す。だが、その声が俺に届くことはない。許しが与えられることも、もう永遠にない。
「貴様の力は我々が有効活用してやろう。その命、尽き果てるまで、絶望の中で我らの礎となるがいい」
魔王の宣言と共に、リリアンナの体から聖なる光が吸い上げられていく。彼女は力を失い、ただの抜け殻となってその場に崩れ落ちた。死ぬことすら許されない、永遠の地獄の始まりだった。
俺は静かに魔道具の電源を切った。 隣で見ていたモルガナが、満足そうに頷く。
「これで契約は完了だ、元勇者カイリ。我らは貴様に手を出さん。好きに生きるがいい」
「ああ」
俺は短く答えると、崖に背を向けた。 復讐は終わった。だが、心に空いた穴が埋まることはない。 ふと、ポケットに入っていた一つのものを思い出した。旅の最初に、リリアンナと揃いで作った、小さな木彫りのお守りだ。 かつては、これを見るたびに心が温かくなった。だが今は、ただの忌まわしい過去の遺物でしかない。 俺はそのお守りを、躊躇なく深い谷底へと投げ捨てた。
「さよなら、リリアンナ」
風が、俺の呟きをかき消していく。 顔を上げると、魔王軍によって燃え上がる王国の空が見えた。 あの炎の中に、俺が愛したすべてがあった。そして、俺が憎んだすべてが滅んでいく。 涙は、もう流れなかった。 俺は過去に背を向け、まだ見ぬ明日へと、一人、静かに歩き出した。 もう勇者ではない俺に、どんな人生が待っているのか。それは、誰にも分からない。




