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第一話 聖女の祈りが穢れるとき

魔王城の尖塔を間近に望む、陰鬱な森の中。最後の野営地となるその場所で、俺、カイリ・アークライトは燃え盛る焚き火の炎をただ無感情に見つめていた。


パチパチと薪がはぜる音だけが、やけに大きく耳に響く。 明日はいよいよ決戦だ。人類の存亡を懸けた、魔王との最終決戦。 勇者として、この世界に生を受けた俺が、その使命を果たすべき日。


だというのに、俺の心は驚くほど静かだった。いや、静かというよりは、冷え切っていると言った方が正しいのかもしれない。かつて胸の中に燃え盛っていたはずの、世界を救うという使命感も、仲間を守るという責任感も、今はもう灰のように色褪せてしまっていた。


「カイリ様、お茶が入りましたわ」


背後からかけられた優しい声に、俺はゆっくりと振り返る。 そこに立っていたのは、月光を浴びて銀色に輝く髪をなびかせた、聖女リリアンナ・クローヴィス。俺の婚約者であり、この旅における俺の心の支えだったはずの女性だ。


「ああ、ありがとう、リリアンナ」


差し出されたカップを受け取りながら、俺は彼女の顔をまともに見ることができなかった。俯いた彼女の表情は、長い前髪に隠れて窺い知れない。だが、俺には分かっていた。彼女が今、どんな感情をその胸に秘めているのか。


俺のユニークスキル『共鳴感知』。それは、強い信頼で結ばれた相手の感情を、離れていても肌で感じ取ることができる力だ。旅の始まりの頃、この力は俺とリリアンナの絆の証だった。彼女が不安を感じれば俺が励まし、俺が傷つけば彼女が祈りを捧げる。言葉を交わさずとも、俺たちはいつも繋がっていた。


だが、いつからだろうか。彼女から伝わってくる感情に、不穏なノイズが混じり始めたのは。 最初は、旅の疲れや魔王への恐怖なのだと思っていた。だが、それは次第に、恐怖とは質の違う、どす黒い澱のような感情へと変わっていった。 罪悪感、羞恥、そして――背徳的な、微かな悦び。


「カイリ様?どうかされましたか?顔色が優れませんわ」


心配そうに俺の顔を覗き込むリリアンナ。その仕草も、声も、かつて俺が愛した彼女そのものだ。だが、その奥にある濁った感情が、俺の心をじわじわと蝕んでいく。


「いや、何でもない。少し考え事をしていただけだ」


嘘をついた。本当は、すべてを問い質してしまいたかった。俺から伝わるはずの愛情が、なぜお前にはもう届かないのだと。お前から伝わってくるその汚れた感情は、一体何なのだと。


きっかけは、些細なことだった。 数ヶ月前、とあるダンジョンでの激戦で俺が深手を負った夜。治癒魔法を使い果たし、疲労困憊のリリアンナを介抱していたのは、パーティの護衛として同行している王国騎士、ゼノン・ヴァルガスだった。


「聖女様は俺がお守りします。勇者は自分の傷の治癒に専念してください」


そう言ってリリアンナを自分のテントに連れて行ったゼノン。あの時の、獲物を見つけた肉食獣のような目が、今も脳裏に焼き付いて離れない。 ゼノンは名門貴族の出身で、若くして騎士団のホープと持て囃されている男だ。だが、そのプライドの高さ故か、平民出身の俺が勇者として脚光を浴びることを、常々快く思っていないようだった。リリアンナに対しても、その視線には敬意よりも強い独占欲が滲んでいた。


あの夜を境に、リリアンナの様子は少しずつおかしくなっていった。俺と二人きりになるのを避けるようになり、夜、祈りを捧げる彼女の背中は、どこか怯えているように見えた。 そして、『共鳴感知』が拾う感情のノイズは、日を追うごとに濃くなっていった。


俺は転生者だ。前の世界では、科学と論理が支配する日本という国で生きていた。だから、この世界のファンタジーな常識に染まりきっていない部分がある。物事を疑い、分析し、合理的な答えを求める癖が抜けないのだ。 この得体の知れない不安の正体を突き止めるために、俺は一つの魔道具を作った。転生知識を応用した、簡易的な録音装置だ。手のひらに収まるほどの小さな水晶に、周囲の音を長時間記録する魔法を付与したもの。


三日前、俺はその水晶をリリアンナに渡した。


「これは俺の故郷に伝わるお守りなんだ。持っているだけで、悪いものから守ってくれる力がある。決戦まで、肌身離さず持っていてくれないか」


彼女は涙ぐみながらそれを受け取った。


「カイリ様……ありがとうございます。私、カイリ様のお心が嬉しいですわ」


その涙が、感謝によるものなのか、それとも別の理由からなのか。俺にはもう、判断がつかなかった。


そして今夜、決戦を控えたこの夜。俺はリリアンナが眠りについたのを見計らい、彼女のテントからそっとその水晶を持ち出してきた。


「カイリ、何をそんなに思い詰めている。明日は魔王との戦いだぞ。少しは休んでおけ」


背後から、無骨な声がかけられた。パーティのもう一人の仲間、賢者のグランだ。年老いたドワーフである彼は、俺の師匠のような存在でもあった。


「グランか……ああ、分かってる。少し、夜風に当たっているだけだ」

「そうか?……リリアンナとのことか?」


グランの鋭い指摘に、俺の肩が微かに震える。


「お前さんたちの間に、何か良くない風が吹いているのは、ワシのような朴念仁でも気づくわい。特に、あの騎士様が来てからな」


グランはそう言うと、ゼノンのテントの方を一瞥し、忌々しげに舌打ちをした。


「……大丈夫だ。俺の問題だから」

「カイリ。お前さんは一人で抱え込みすぎる。勇者である前に、お前さんはまだ若い男だ。もっと周りを頼らんか」


グランの言葉が、冷え切った心に少しだけ温かさを灯す。だが、もう遅いのだ。俺はすでに、パンドラの箱に手をかけてしまったのだから。


「ありがとう、グラン。でも、本当に大丈夫だ」


俺は力なく笑い、グランに背を向けた。彼が心配そうに溜め息をつく気配を感じながら、俺は野営地のはずれ、誰にも見られない場所まで歩を進めた。


月明かりだけが頼りの暗闇の中、俺は懐から取り出した水晶を握りしめる。 覚悟はできている。どんな真実が記録されていようと、それを受け入れる覚悟は。 俺は魔力を込めて、水晶に記録された音の再生を開始した。


『……やめて、ゼノン様。誰かに見られたら……』


聞こえてきたのは、リリアンナのか細い、怯えた声だった。俺の心臓が、嫌な音を立てて軋む。


『誰が見るものか。勇者サマは今頃、明日の戦いのことで頭がいっぱいだろうさ』


ゼノンの、嘲るような声。そして、衣擦れの音。


『お願い……やめてください!カイリ様に知られたら……私は……!』

『まだ奴の名前を口にするか。いい加減にしろ、リリアンナ。お前はもう、奴の女じゃない。俺の女だ』

『いやっ……!』


短い悲鳴。そして、生々しい水音。 俺は奥歯を噛み締めた。血の味が口の中に広がる。


『……最初は無理やりだったかもしれない。だが、本当はどうなんだ?奴との清らかなだけの関係より、こうして俺に穢される方が、お前の体は正直に昂っているんじゃないのか?』

『そん、なこと……ありま、せん……ひぅっ……!』


否定する彼女の声は、しかし、明らかに熱を帯びていた。そして、聞こえてくるのは、抵抗の音ではなく、シーツを掻きむしるような音と、必死に堪えようとして漏れ出す、甘い喘ぎ声。


『ほら見ろ。もうこんなに濡れている。カイリでは、お前をここまで感じさせてやることはできまい。聖女様がこんな顔で、こんな声を出すなんて、奴は夢にも思うまいな』

『あ……ぁ……だめ、ゼノン、さま……そこは……っ』

『いい声だ、リリアンナ。もっと聞かせろ。お前が俺だけのものになった証を、その体に刻みつけてやる』


そこからの音声は、もはや地獄だった。 脅され、恐怖に支配されながらも、抗いがたい快楽に身を委ねていくリリアンナ。彼女を蔑みながら、貪るように支配するゼノン。 それは、俺が旅の間、ずっと感じてきた『共鳴感知』のノイズの正体そのものだった。 恐怖、罪悪感、羞恥、そして、それらを覆い隠すほどの、濃密な快楽。


俺は再生を止めた。水晶が、ゴトリと手から滑り落ちる。 ああ、そうか。 そういうことだったのか。


俺が魔物と死闘を繰り広げている間、俺が傷つき、苦しんでいる間、お前たちはそんなことをしていたのか。 俺が信じていた絆は、愛は、誓いは、すべて幻想だったのか。


心が、音を立てて砕け散った。 何のために戦ってきた? 国王の命令?民衆の期待? 違う。俺は、リリアンナがいたから戦ってこられたんだ。「生きて帰ってきてください」という彼女の言葉を、その笑顔を、信じていたから。魔王を倒し、この戦いを終わらせて、彼女と幸せな家庭を築く。その未来だけを夢見て、ここまで来たんだ。


なのに。


目の前が真っ暗になる。立っていることすらできず、俺はその場に膝から崩れ落ちた。 涙も出なかった。ただ、空っぽの虚無感が、俺の全身を支配していた。


もう、どうでもいい。 世界がどうなろうと。王国が滅びようと。 俺の知ったことじゃない。


俺はゆっくりと立ち上がると、野営地に戻った。 焚き火のそば、地面に突き立てられた聖剣が、鈍い光を放っている。かつては誇りの象徴だったその剣が、今はただの重たい鉄の塊にしか見えなかった。 俺は聖剣に触れることなく、ただ一瞥すると、そのまま背を向けた。


グランのいびき。リリアンナの安らかな(・・・・)寝息。そして、ゼノンのテントから漏れる、満足げな寝息。 そのすべてが、俺の神経を逆撫でした。


さようなら、リリアンナ。 さようなら、俺が愛した世界。


俺は誰にも気づかれることなく、夜の闇に溶けるようにして姿を消した。 後に残されたのは、主を失った聖剣と、裏切り者たちの寝息だけ。 明日の夜明けに、彼らがどんな顔をするのか。 それを想像しても、俺の心には何の感情も浮かばなかった。ただ、どこまでも深い、底なしの闇が広がっているだけだった。

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