婚約破棄大歓迎です! 〜あなたのおかげで、幸せになります〜
舞踏会の中央、大勢の視線が集まるなか、彼は言った。
「これ以上、君との婚約を続けることはできない。僕は、真実の愛を見つけたんだ」
彼——テオドール・ヴァン・ブライト伯爵家の嫡男は、隣に控えた平民の少女を優しく抱き寄せる。
彼女はルルという名の商家の娘。質素なドレスが逆に神聖さすら感じさせる、とテオドールは思っていた。
テオドールの婚約破棄宣言に、会場の空気が一変する。
“あの”レティシア・アーデルハイト伯爵令嬢に婚約破棄を言い渡すなど、前代未聞。
誰もが、令嬢が泣き崩れ、膝をついて「お願い、私を捨てないで」とすがる姿を想像していた。
だが——
「……あっ、あはっ……あははっ……ふふっ、ふふふふっ……」
レティシアは震えた。
それは絶望や悲しみではなく——込み上げる笑い。
唇を押さえ、肩を震わせ、ついに堪えきれなくなって大きく息を吸うと——
「はっはっはっはっはっはっ!!!やっと!やっと言ってくれたわねっ!!!」
会場に轟く、高らかな笑い声。
そしてレティシアは拳を天に突き上げる。
「ありがとう、テオドール!ようやく自由よ!!!」
貴族たちは言葉を失い、舞踏会場は静まり返った。
レティシアはそのまま、テオドールの隣にいるルルに歩み寄った。
「……ルルさん、よろしいかしら?」
おずおずと見上げるルルに、レティシアはルルの手をそっと握り、微笑んだ。
「いままで、本当にごめんなさい。あんなにも罵って。……後悔しているの」
「レティシア様……」
「でも、あなたに一度だって手をあげなかったことだけは、誇れるわ」
そう言って懐から小さな袋を取り出し、彼女の手に握らせる。
中身は、金貨。
平民であれば十年は暮らせる額だ。
「これはお詫びと、感謝の印よ。あなたのおかげで私は自由になれた。どうか、幸せに」
呆然とするルルの手をそっと離し、レティシアは踵を返し会場の皆に向けてカーテシーをする。
「では、ご機嫌よう。これから、しなくてはならないことがありますわ」
そう告げ笑顔のまま去るその背に、テオドールがようやく我に返り叫んだ。
「ま、待てレティシア!これは試しただけだ!本当は——君が縋ってきたら、婚約破棄を撤回して」
彼の声を遮るように、レティシアはお守りとして持ち続けていた紙をテオドールへ突きつけた。
「……申し訳ありませんが、あなたのすべてが、私には生理的に受けつけないのです」
*
レティシア・アーデルハイトが初めてテオドール・ヴァン・ブライトと顔を合わせたのは、7歳のときだった。
そのとき、テオドールは確かに彼女に一目惚れしていた。
美しい金髪と淡い琥珀の瞳を持つ少女。凛とした佇まいに、彼の幼心は打ち抜かれた。
だが彼は、それを「好き」と素直に表せない子供だった。
それどころか──
「ぶっさいくだな、マジで」
「ははっ、転ぶとか……それでも貴族の令嬢様ぁ?」
「お、見ろよこれ! 芋虫じゃん、おまえの髪飾りにぴったりじゃね?つけてやるって、じっとしてろよ〜?」
……すべては拗らせた“好きな子いじめ”の延長。
レティシアは最初こそ困惑していたが、やがて顔をしかめ、冷たく目を伏せた。
そして何度も両親に「婚約をやめたい」と訴えた。
けれども——
「まぁまぁ、男の子は照れ屋なのよ」
「思春期になれば落ち着くさ」
何も変わらなかった。誰も本気で取り合ってくれなかった。
侍女や執事は、彼女の震える肩や、夜中にひとりで泣いていることを知っていた。
心から案じ、慰め、支えてくれた。
けれど、婚約を覆せる力はなかった。
時は流れ、テオドールは思春期を越えても変わらなかった。
女遊びにふけり、他の令嬢に色目を使っては、それをわざわざレティシアに見せ、反応をうかがう日々。
(……もう、限界だった)
ある日、侍女が持っていた恋愛小説の一節がふと脳裏をよぎる。
《婚約破棄を申し出たのは、男のほうだった》
「……そうか、あいつに言わせればいいのよ。私からは駄目でも、“あの馬鹿”ならきっと言うわ」
その日から、レティシアの反撃が始まった。
重苦しい空気の中、レティシアは毅然とした態度で両家の両親を前に座っていた。
向かい合うのは、彼女の両親であるアーデルハイト伯爵夫妻、そして婚約者テオドールの両親であるヴァン・ブライト伯爵夫妻。
「お願いです。この婚約を解消してください」
レティシアは静かに、けれどはっきりと口にした。
だが、四人の大人たちは顔を見合わせ、困ったように微笑むばかり。
「レティシア。あなたがそう言うのはきっと、何か誤解しているのよ」
「テオドールはずっと、君のことを気にかけていたじゃないか。悩んで、苦しんで……お前をどう喜ばせたらいいか、ずっと考えていたんだ」
その言葉に、レティシアの口元がわずかに引きつる。
(悩んでいた? 喜ばせたくて? 虫を贈って? 浮気して?)
「皆さまは、彼が“私を好きすぎて苦しんでいる”ように見えていたのでしょうね。
でも、私には……“気持ち悪い”以外の感想はありません」
場の空気が凍る、だがそんなものレティシアには関係がない。
「私が何度お願いしても、あなた方は“若さ”や“誤解”で片づけました。でももう、限界なのです。私はあの人の視線も、声も、行動も、すべてに嫌悪感しかない」
淡々と告げながら、レティシアは書類をテーブルの上に差し出した。
一見して分かる、神殿の紋章付きの婚約破棄念書。
「これは、もしテオドール様が婚約破棄を言い出した場合、
私——レティシア・アーデルハイトが伯爵家を出て、自由の身となることを認める念書です」
「……レティシア?」
思わぬものの登場に、さきほどまで固まっていた父親が目を丸くする。
「私から破棄を申し出ても、認められなかった。ですから、こうして正式な形で用意しました。署名をお願いします」
「ま、待ちなさいレティシア! 本当にそんな……これは、彼を試すという意味かい? それとも、脅しか?」
「……あなた方は、きっとこう思っているでしょう?
“テオドールは絶対に婚約破棄なんて言わない”
“テオドールはレティシアを大切に想っているのだから”って」
レティシアはにっこりと笑った。
「なら、問題はありませんよね? その自信があるなら、署名してくださいな。どうせ“絶対に起きない未来”なのでしょう?」
テーブルを囲む大人たちは誰も言葉を発せず、沈黙が流れる。
やがて、しびれを切らしたように、テオドールの父がため息をつきながらペンを取った。
「……書くだけだ。書くだけなら、いいだろう」
一筆、また一筆。
全員の署名が揃った瞬間、レティシアの表情がふっと安堵に変わった。
(これで……あとは“その時”を待つだけ)
心の中でつぶやきながら、レティシアは静かに書類を懐に収めた。
あとは一芝居打つだけ。
テオドールがルルという平民の娘に夢中になっているという噂を聞きつけ、レティシアは動き出す。
「ちょっと、あなた。いくら平民とはいえ、私の婚約者に馴れ馴れしいのはどうかしら?」
——この一言から、全てが計画通りに進んだ。
*
「……おい、レティシア……それは……?」
レティシアの持つ豪奢な紙質は神殿の金の紋章が刻まれた正式な婚約破棄念書。
両家の署名と印がすでに記されており、それは紛れもない絶対の契約。
「こちらをご覧になって、テオドール様。これは“あなたが私との婚約を破棄した場合”、私がアーデルハイト家から除籍され、完全に自由の身となることを証明する書類です」
会場がざわつく中、レティシアは微笑んで続ける。
「あなたが今おっしゃった“婚約破棄”の言葉、確かに頂戴しました。これで、晴れて私は自由です」
「ま、待てよ……あれは……本気じゃなくて……試しただけだ。お前が泣いて縋ってくるかと……!」
「それが、あなたの愚かさよ。私を何年も見下し、試し、苦しませて……。それでも私は、ずっと黙って耐えてきた。でもね、今日は特別。あなたが、自ら“破棄”を言ってくれたのだから」
レティシアの目が細くなり、口元が笑みに吊り上がる。
「あなたに心底感謝しています、テオドール様。
長年の悲願を叶えてくれた、大馬鹿者のあなたに」
「お、おい待ってくれレティ——」
「これ以上、何をお話しする必要があります? “無理”なんです。あなたの顔を見るだけで吐き気がする。触れられるのも、声を聞くのも、生理的に、無理なんですのよ」
レティシアはふうっと息を吐き、振り返る。
「では、ご機嫌よう。私はこれから、自分の人生を歩むための準備がありますので」
驚愕で口を開けたままのテオドール、呆然とする周囲の視線を背に、レティシアは堂々と会場を後にした。
レティシアが伯爵家の門をくぐると、使用人たちは驚いたように顔を上げた。
ドレスの裾をたくし上げ、無駄のない足取りで館の中へ入るその姿は、いつもの“令嬢”とは違う気迫をまとっていた。
「お嬢様……!? パーティーは……」
「アロンナ、奥の倉庫にしまってある、あの荷物を持ってきて。今夜、私はこの家を出ます」
近くにいた年若い侍女アロンナが、はっと目を見開いた。
あの荷物、その言葉が出るのはレティシアがついに行動に移すことを意味していた。
「……本当に、行かれるのですね」
「ええ。でも、これは逃げじゃないわ。新しい人生の始まりよ」
数秒の静寂のあと、侍女たち、執事、下働きの者たちが、無言で荷造りを手伝い始めた。
誰一人として騒ぎ立てる者はいない。ただ、そっと側に寄り添い、必要な物を差し出すだけ。
別れの言葉は、公には口にできない。
すれ違いざまに「……道中、お気をつけてください」と小さく呟く声があちこちで聞こえた。
その一つ一つに、レティシアは微笑みと小さな頷きで応える。
荷物がすべて馬車に積み込まれ、いよいよ出発というそのときだった。
「レティシア!」
勢いよく扉が開き、父と母が駆け込んできた。
顔は蒼白で、幽霊でも見たような驚きに満ちていた。
「まさか……本当に出ていくつもりなのか!? テオドールも反省している! 考え直せ!」
「どうして、こうなるまで放っておいたのだとお思いですか?」
レティシアは静かに、それでもはっきりとした声で返す。
「“本気じゃない”と思ったから、あなたたちは私の言葉を流してきたのでしょう?“年頃の反抗”だと決めつけて、私の声なんて聞こうとしなかった。それが、すべての答えですわ」
「レティシア……そんな、あなたがそこまで思い詰めていたなんて」
「…もう終わったことです」
もし彼らがレティシアの言葉に耳を傾けてくれてテオドールに注意するなり、行動してくれたのなら。
違った未来があったのかもしれない。
だが、もう“終わったこと”だ。
レティシアは顔を背ける。もはや、彼らに何も言う価値すらないのだと、そう告げるように。
「ありがとう。産んでくれて、育ててくれて。……でも、私はもう、あなたたちの娘ではありません」
晴れやかな微笑をたたえ、レティシアは馬車に乗り込んだ。
その背中に、誰も声をかけられなかった。
扉が閉まり、馬車がゆっくりと走り出す。
レティシアは一度も振り返らず、まっすぐに視線を前へ向けた。
その先には、自由な人生が待っているのだから。
*
季節は、春を迎えていた。
国を離れ、穏やかな港町へと辿り着いたレティシアは、ゆっくりと街を歩いていた。
目的地は、幼い頃からの手紙のやりとりだけが繋がりだった、幼馴染の商人の店。
店の扉を開けると懐かしい薬草の匂い、そして見慣れた背中がそこにあった。
彼は振り返ると少し驚いたように目を見開き、そして微笑んだ。
レティシアはほっと息をつきながら微笑み返し、ゆっくりと歩み寄って、小さく頭を下げた。
その瞬間、彼は無言のままレティシアの手を取った。
包み込むように、あたたかく、優しく。
かつて誰にも理解されなかった彼女の孤独を。
言葉ではなく、その掌だけがすべて受け止めてくれた。
レティシアの目元がふっと緩み、今にも泣きそうな笑顔になる。
新しい人生は、きっとここから始まる。
* * *
その頃。社交界では、かつての栄華を誇った男の名前が、笑いの種となっていた。
浮気を繰り返し、無理矢理悪役に仕立て上げた婚約者に破棄され、
“泣いて縋るはず”という自信から、自ら破滅を招いた愚か者
それが、テオドール・ヴァン・ブライトに付けられた二つ名である。
彼は貴族の娘たちからも毛嫌いされ、誰にも相手にされなくなっていた。
かつて寵愛していた平民の少女ルルにもあっさりと見限られ、
今やただの滑稽な男として、日陰を歩いている。
いまや彼は「本物の悪役」として貴族たちの笑い者になっている。
そして、かつての“悪役令嬢”レティシアは、誰よりも幸せそうに笑って生きている。
ざまぁ、とはこのことだ。
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