「君の中に私が残り続ける方法を探して」 ~ささやかな奇跡~
雨のホームで
電車を待つホームは、湿った空気に包まれていた。ぽつぽつと降り始めた雨は、ホームの所々を濡らし、滑りやすくしていた。
私は自販機で缶コーヒーを買った。小さな温もりが手のひらに伝わる。それだけで少しだけ気持ちが落ち着く。少し先のベンチに移動しようとした拍子に滑って、手の中の缶を落としてしまった。
カラン、と軽い音を立てて、缶コーヒーは転がる。思わず「あっ」と声を上げると、誰かが素早く拾い上げた。
「はい、落としましたよ」
差し出された缶を受け取りながら、私は顔を上げた。
そこにいたのは、私と同じくらいの年齢の男性だった。黒髪が少し乱れていて、目元にはわずかに疲れの影が見える。でも、口元には柔らかい微笑みが浮かんでいた。
「ありがとうございます」
「気をつけてね。雨で滑りやすいから」
そう言って彼は再び前を向く。その横顔を見ながら、私はなぜか気になってしまった。
やがて電車が来る。私は彼とは違う車両に乗り込んだ。が、気づけば彼のことばかり考えていた。
それから数日後。
仕事帰りにまた同じ駅で電車を待っていた。雨は降っていなかったけれど、どこか肌寒い空気が漂っている。ふと、あの日のことを思い出して、自販機に目を向けた。
そして――そこに、彼がいた。
「……また会いましたね」
思わず声をかけると、彼は少し驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「偶然ですね。よくここを使うんですか?」
「はい!……通勤で」
「僕も。仕事帰りに、ちょうどこの時間になるんですよ」
彼は缶コーヒーを手にしていた。私も無意識に自販機で同じものを買う。二人並んで、電車を待つ。
「そういえば、前に会った時は、なにをしてましたっけ?」
「やだなぁ、私が落とした缶コーヒーを拾ってくれたじゃないですか……?」
私は苦笑する。
「私、鈴木ユイです。今日は落とさないように気をつけます!」
彼はクスッと笑った。
「それがいい。……覚えていてくれてたんですね」
「まあ……一応……」
なぜか胸が高鳴る。こんなふうに、偶然何度も会うなんて。
電車が到着する。彼は別の路線に乗り込んだ。私は彼の背中を見送りながら、ふと気づいた。
――そういえば、名前を聞いていない。
それから私は、彼に会えるかもしれないという期待を胸に、毎日同じ時間に駅に向かった。
そして、数回目の再会の後、私は思い切って名前を尋ねた。
「あの!お名前、聞いてもいいですか?」
「…ハルトです。」
「ハルトさん!私のことも、名前で呼んでください」
彼は少し考えてから、首を傾げた。
「ごめんなさい。覚えていません」
「え?」
私が戸惑っていると、彼は少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんなさい。でも、本当に思い出せないんです」
「それって……」
「昔、事故に遭って……それ以来、記憶が所々消えるんです」
衝撃だった。彼の笑顔は穏やかだけれど、その言葉はあまりに残酷だった。
「じゃあ……私のことも……?」
「うん。あなたの顔は覚えてる。でも、いつ、どこで会ったかは……」
彼は申し訳なさそうに言った。
それでも、私はそれ以上聞けなかった。
だって、彼の目は、どこか遠くを見つめていたから。
それから私は、何度も彼と会話を交わした。
彼は相変わらず穏やかで優しかった。でも、ある日、私は彼に言われた。
「ごめんね。もし明日、君のことを忘れていたら……」
「……ううん」
私は笑った。
「何度でも思い出してもらうから」
彼は驚いたように私を見つめ、それから微笑んだ。
「ありがとう」
それからも私たちは何度も会った。彼は毎回、私のことを忘れていた。でも、私は諦めなかった。何度でも、名前を名乗り、缶コーヒーを買って、一緒に電車を待った。
そうやって何度も、何度も。
そしてある日、彼が言った。
「また会えたね」
私は驚いた。
「覚えてるの?」
彼は微笑んで、小さく頷いた。
「なんとなく……君と、ここでこうしていた気がする」
それだけでも十分だった。
私は缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。ほろ苦さとともに、胸がじんわりと温かくなった。
雨の降るホームで落とした缶コーヒーから始まった、儚い恋。
それでも、私はこの出会いを大切にしたかった。
何度忘れられても、何度でも——。