春 七
普段なら帝が即位した時ですら大赦まではしない。
大赦をするのは本気で仏の加護を必要としているような時である。
おそらく一昨年、内裏で何か大事があったのだろう。
大赦をしなければならないような大事が――。
一昨年ということは二年前か……。
貴晴が殺されそうになって秘密を知ったのも二年前だった――。
いや、今は余計なことを考えている時ではない。
貴晴は目の前のことに注意を戻した。
「検非違使は手をこまねいているのですか?」
貴晴が祖父に訊ねた。
とはいえ、検非違使に捕まえられてしまっては貴晴は必要なくなってしまうし、そうなったら弾正台にもなれなくなるのだが。
そう言えば弾正台になったらなんて呼ばれるんだ……?
親王ではないから『弾正宮』ではないし、大納言でもないから『尹大納言』でもない。
って、気が早いか……。
「手を尽くしているようだが塒が見付からないらしくてな」
祖父が答えた。
「本当に貴晴を弾正台にする気があるんですか?」
隆亮が『そんな難題を押し付けるなんて』と言いたげに訊ねた。
祖父は隆亮の質問には答えず、貴晴に顔を向けた。
「黒幕がいると思っているのでしょう。親王か公卿――おそらく大臣のうちの誰か」
貴晴が祖父の無言の問いに答える。
内裏に住んでいない親王は母方の祖父母と暮らしていることが多いし、親王の祖父は大抵は大臣か元大臣だ。
大臣は広い邸に住んでいる上に別邸も持っている。
盗賊が家人に知られずに出入りすることも可能だし、検非違使に調べられる心配もない。
「お前、意外と賢いんだな」
「さっきのはホントにお追従か!」
貴晴が白い目で隆亮を見た。
「おそらく貴晴の予想通りだと思われているようだ」
祖父が答える。
思われている……。
そう思っているのは祖父ではないのだ。
『誰が』とは言わなかったが、祖父には弾正台を勝手に決める権限などないのだから当然だ。
本来なら親王がなる弾正台を祖父を通じて打診してきたのも貴晴の出自を知っているからだろう。
となると祖父に話を持ち掛けてきたのはおそらく……。
織子は御簾の隙間から外を見ていた。
後で今日の歌を詠まなければならなくなるかもしれない。
桜は満開だから適当に花の歌を詠めばいいのかもしれないが、それだと当たり障りのない歌になってしまう。
会場(の近く)から見えたものを詠み込んだ方がいいはずだ。
「春花の……」
歌を考えるなら出来れば地面に書きながらしたいのだが人に姿を見られたら義母や匡に叱られるだろうし、何より以前牛車から降りて怖い目に遭った。
警護の者達は匡に随いていってしまっているから今はいない。
次に襲われた時また助けが現れるとは限らないのだから牛車の中で大人しくしていた方がいいだろう。
〝届かめと なげきを空に……〟
「墨染めの……」
織子はさっきの上の句を呟いた。
さすがに今日の歌会の歌で〝墨染めの〟はダメよね……。
墨染めというのは喪に服しているという意味である。
さっきの方は親しい方を亡くしたのかしら……。
そう思った時、牛車の前方が上がった。
牛に車を繋いだのだろう。
でも、まだお姉様が乗ってないのに……。
前の御簾から外を覗こうとしたとき、
「この車なら金になりそうだな」
「牛も元気で毛並みが良いから高く売れるぞ」
と言う声が聞こえてきた。
慌てて音を立てないようにしながら御簾の隙間から外を覗く。
粗末な身形の男が牛に歩けと命じている。
その隣にもう一人男がいて二人で話をしていた。
牛の横にいるのは牛飼童ではない。
と、盗賊……。
織子は狼狽えた。
どうしよう……。
このままではどこかへ連れていかれてしまう。
織子が乗っていることには気付いていないようだが――。
飛び降りることは出来ない。
牛車というのは車輪が大きい分、車高も高い。そのため地面から床まで高さがあるのだ。
だから降りる時は牛から軛を外して車体を前に倒すことで出口を低くするのだ(それでも踏み台を使う)。
後ろの御簾から覗くと寺からどんどん離れていく。
このままではどこかに連れ去られてしまう。
「捕まえるのが検非違使という事は私は塒を見付けるだけで良いという事ですね」
貴晴が言った。
「そうだ。そんなに簡単ではないと思うがな」
祖父が答える。
それはそうだ。
邸に踏み込んで捜索する権限を持っている検非違使ですら入れないような公卿や親王の邸をそう簡単に調べられるわけがない。
貴晴には手先として使える郎党もいない。
今から雇うことは出来るがすぐに雇えるものなど素性の怪しい者ばかりだから信用出来ない。
ツテもないから怪しい公卿がいないか聞くことも出来ない。
「貴晴一人では手が回らないだろう」
祖父はそう言うと隆亮に顔を向けて、
「そういう訳なので貴晴の手伝いを頼みたい」
と言った。
「祖父上、隆亮には仕事が……」
「仕事の時に話を聞いておくよ」
隆亮が貴晴の言葉を遮って言った。