春 五
「お前に頼みたいことがあるのだ。任せたいこと、と言ってもいい」
「…………」
貴晴は黙っていた。
「実はお前を弾正台に補したいと……」
「悪い冗談はやめて下さい。弾正台というのは親王がなるものでしょう」
貴晴はぴしゃりと言った。
「今でこそ親王の名誉職のようになっているが本来は非違を糾す役職だ――親王や左右大臣を含めた者の」
親王や左右大臣を含めた者の非違……。
非違とは違法行為、つまり犯罪のことである。
下級貴族や庶民相手なら検非違使でいい。
わざわざ弾正台を補すということは――。
「取り締まる必要が出てきたと言うことですね。身分の高い者を」
貴晴が言った。
「さすが卿のお孫さんは聡いですね」
隆亮が言った。
「へつらうな。お前の父親は右大臣だろうが」
貴晴が隆亮を睨む。
もしも右大臣が悪事に関わっていたとしたら隆亮の父が捕まることになるのだ。
「お前の父親が失脚したらお前も出世出来なくなるんだぞ」
といっても貴族の処分など反省文程度なのだが。
特に上級貴族は。
重くても太宰府への流罪だし、それも数年で許されることが大半だ。
「幸い私にはまだ子供がいないからな。そのときは一緒に出家して歌会に出よう」
隆亮が明るく言った。
出家って……。
妻達はどうする気なんだ……。
父親が悪事に関わっていないと信じているのか出世できなくても構わないと思っているのか――。
「監察官としての実体がなくなってしまったから親王の名誉職のようになっているが、別に親王でなければなれないわけではない」
「大納言がなって尹大納言と呼ばれた者もいるからな」
隆亮が言った。
こいつ、あらかじめ祖父上から話を聞いてたな……。
尹大納言など大分長いこといなかったのだから昔の記録を調べたのでなければ知っているはずがない。
「実体がないなら悪事を働いた者を突き止めたとして捕らえることは出来ないでしょう」
「うむ、帝に奏上した上で検非違使が捕らえることになるな」
「アホらしい」
貴晴は吐き捨てるように言うと立ち上がった。
そもそも弾正台が有名無実化したのは捕らえるのに帝の裁可が必要だったからだ。
帝といえど身内や権力を持っている公卿に対しては強く出られず処分が甘くなる。
遙か昔は皇后(中宮)は皇族でなければなれなかったから帝の外祖父も帝だった。
そのため帝の権力は強かった。
だが、いつしか大臣の娘も皇后になれるようになり、いまや大納言の娘もなれるようになった。
大抵は皇后の産んだ皇子が次の帝になるから、そうなると貴族が帝の外祖父になる。
そのため帝の親族である貴族が非違を犯したときの処罰も甘くなった。
大した処分を下さないのなら摘発しても無駄だし、中下級貴族や庶民相手なら検非違使でいい。
弾正台の実権は徐々に検非違使に移っていき、ついには親王の名誉職でしかなくなった。
断固とした処分を下すことに改めるのならともかく、そうではないなら何も貴晴がなる必要はない。
そうでなくても貴晴は帝とは関わり合いになりたくないと思っているのだ。
「失礼致します」
貴晴はそう言うと祖父が何か言う前に踵を返した。
邸を出た貴晴が歩いていると向こうから牛車がやってくるのが見えた。
車体が白っぽく見えるのは檳榔という植物を編んだ物で覆っているからで『檳榔毛の車』といって四位以上でなければ乗れない牛車である。
貴晴は足を止めると道を譲るために脇に避けた。
よくよく考えてみたら貴晴の乗ってきた牛車は邸の前だ。
牛車に乗って帰るとなると隆亮と同乗することになる。
当然さっきの話が出るだろう。
それが嫌なら歩いて帰るしかない。
まぁ、歩いて帰れない距離ではないが……。
そんな事を考えている間にも別の牛車が通り過ぎていく。
どうやらこの先にある寺で何かあるらしい。
法会か歌会か……。
花の季節だから花を絡めた題詠で詠ませる歌会かもしれない。
山は満開の桜で淡い色に染まっている。
二年前、貴晴が信じていた世界は偽りだったと知った。
あそこは近くに寺があったのだし、あのとき出家すれば良かった……。
「届かめと なげきを空に 墨染めの……」
貴晴が呟いた。
下の句はどうするか……。
「桜は野辺の 煙なるかな」
不意に女性の声が聞こえてきて貴晴は振り返った。
背後に止まっていた牛車に乗っている女性が下の句を読んだのだ。
貴晴が何か言う前に牛車が動き始めて寺の方へ行ってしまった。
どうやら寺の入口が混んでいたから空くのを待っていたらしい。
「ああ、管大納言か」
追い掛けてきた隆亮が牛車を見送りながら言った。
「管大納言? なんであの牛車が管大納言の車だって分かった?」
檳榔毛の車は他にも二、三台は見掛けたから車だけでは判断出来ないはずだ。
「姫が乗ってるだろ」
隆亮がそう言って牛車の後ろの御簾を指した。
牛車の後ろの御簾から女性の衣裳の裾が見えている。
この季節らしい桜の襲だ。
「管大納言の大姫って、歌が評判だって言う?」
貴晴が訊ねると、
「ああ」
隆亮が頷いた。