第三章 テイラー通りの魔女 2
やがてメイドが戻ってきた。
「どうぞ居間のほうへ」
招き入れられたのは小さめの四角い玄関ホールの右手の、これもそれほど広くないこざっぱりした居間だった。
エレンは意外に思った。
白い格子状の枠に円い硝子がいくつも嵌まった縦長の窓とくすんだコーラルピンクのカーテン。床にはベージュ地にクリーム色の花柄の絨毯が敷かれて、桃花心木の横長のテーブルと、臙脂色の緞子を張った三人かけのソファと、揃いの肘掛椅子が二脚おいてある。
窓と向かい合う壁際は書棚だった。光沢のあるワインレッドの絹で装丁された書物がびっしりと並んでいる。
頭の固い火蜥蜴がありもしない眉を顰めるような生業に手を染めているかもしれない「魔女」が住むにしてはずいぶん趣味の良い部屋だ。
「こちらでお待ちください。珈琲をお飲みになりますか?」
「ええいただきます。ミスター・ニーダム、あなたは?」
「エエいただきます」
ニーダムが鸚鵡みたいに反復する。
メイドが出ていくと、殆ど入れ違いみたいに新たな人物が入ってきた。
「お待たせしましたミス・ディグビー。初めまして、でよろしいですか?」
柔らかく甘くやや低めの声が尋ねてくる。
明らかに大陸のルテチア訛りだ。
「ええマダム。わたくしたちは初対面です」
答えながらエレンは愕いていた。
ちらっと横目で見ると、ニーダムもぽかんと口を開けていた。
こちらも相当愕いているようだ。
目の前に現れたのは、部屋の調度とよく似合うアッシュローズのドレスをまとって、濃い栗色の髪を簡素に結い上げたエレンと同年配の女性だった。
背丈は中背で、丸みをおびた女性らしい体つきをしている。優美な黒い眉と濃いハシバミ色の眸。頬は淡い薔薇色で、唇は鮮やかに赤い。薄い耳朶を飾る二粒の小さな真珠だけが装身具だ。
確かにとても美しい。
しかし、全く妖しげではない。
「あなたがマダム・ヴァリエ?」
エレンは思わず訊ねてしまった。
女性は苦笑した。
「そうです。私はジゼル・ヴァリエと言います。今日はどのようなご用件で?」
女性の――ジゼルの口調からは微かなこわばりが感じられた。
エレンは早々に正体を明かすことにした。
「実は、警視庁の仕事で、あなたにご協力を求めに来たのです」
「警視庁? あなたが?」
「ええ。実はわたくし――」
身分の証である印章指輪を示してざっと状況を説明し、ついでにニーダムも紹介しておく。そのタイミングでメイドが珈琲を運んできてくれた。
三人して一息ついたあとで、ジゼルが改めて切り出した。
「では、あなたがたはその護符が私の仕事ではないかと?」
「ええ。ご覧になれば分かると思いますが、かなり強力な魔力が込められている品です」
「拝見しても?」
「どうぞ。こちらです」
エレンが紙箱から取り出した護符を渡すと、ジゼルはクリーム色の掌の上にそっと乗せた。
途端、護符から馥郁たる薔薇のような芳香が発されるのが分かった。
護符に籠められた魔力が、出所であるジゼルの肉体に触れたことで、薫りの形をとってわずかに漏出しているのだ。
「ああ、やはりあなたの――」
「ええ」と、ジゼルは頷いた。「これは私が作ったものです」
「――失礼、マダム・ヴァリエ」と、ニーダムが恐る恐る口を挟む。「その護符があなたの御作であるなら、注文主が誰であったかを教えていただけますか?」
途端にジゼルは優美な眉を吊り上げた。
「顧客の情報を口にすることはルテチアの魔術師の倫理にもとります」
「けれどマダム、ことは殺人事件なのですよ?」と、エレンは慌てて言い返した。「わたくしたち力あるものは公益に奉仕する義務があるはずです」
「公益? 公益とはなんです?」
物柔らかな美貌の大陸の魔女は鼻で嗤った。
「公益に奉仕する義務。私はその言葉は大嫌いです。わがルテチアを今まさに独裁的に支配しているあの皇帝僭称者も、国中あらゆる魔術師に、同じ言葉で戦役に参加するよう求めました。魔術師たちよ、公益に奉仕するために隣国を侵略せよと。そのために私は愛する故国を棄てて、この空寒いアルビオンに亡命してきたのです」
「お言葉ながらマダム・ヴァリエ、ルテチアだって冬はそれなりに寒いはずです」と、愛国的なエレンは言い返した。「ルテチアの皇帝僭称者による魔術師の強引な動員は、わたくしももちろん聞いております。しかし、殺人事件の捜査に協力するのは、それとは全く違う話です」
「何と言われようと、私は顧客の情報を口外するつもりはありません。その珈琲を飲んだらどうぞお帰りになってください」
二人がかりでさんざん懇願しても、ジゼルは頑として意見を変えてくれなかった。
エレンとニーダムは諦めて引き上げるしかなかった。